それでも虚構(うそ)へ!?
「【阪神・淡路大震災】復興住宅単身高齢者へのききとり それでも未来(まえ)へ」の
陥穽と教訓

 該書が、「週末ボランティア」の「方々が…聞き取った記録を整理してまとめたもの」としながら、事実と著しく乖離し、甚だしく歪曲していることを、遺憾に思います。

 共著者のうち1人は、グループの活動に参加したことはなく、いま1人についても、参加・関与はごくわずかに過ぎず、これをもって「参加」者と自称することは疑問であるほか、その内容が、グループや他の参加者の見解を代表・代弁するものでは全くありません。

 とりわけ、東日本大震災に関してのコジツケにいたっては、著者個人の思いならぬ思いをぶつけ、利害ならぬ利害を投影した、限りなく虚構に近いものといわねばなりません。

 また、該書にも反映された、この者の参加態度・姿勢については、厳しい見方をしなければならないもので、あまっさえ、それが「教育」の名においてなされたことは看過できません。

 この者や、これを容認した者が、訪問先の住民・被災者の方々に、不快な思いをさせ、ご迷惑をおかけしたことを、お詫びいたします。

 件の者が、わずかとはいえ関与し、グループの活動に関する資料を利用したと称していることから、かかる事態を許したことについて、事態を把握した当初より、率直に顧みる必要があると考えてきました。

 2013年1月、私が主宰する、神戸・週末ボランティア 新生を、新たな活動主体にした取り組みがスタートしました。

 それにあたっては、「宗教や政党など全く関係のない民間のボランティア」としての原則を堅持し、従来の活動のいいところは受け継いで発展させるとともに、過ちは正し断ち切ることを、固く誓いました。よって、該書に関わった者が、新たな取り組みに関与・参加することは、いっさいありません。

 あわせて、この教訓を活かすことを追求してきました。

 神戸・週末ボランティア(旧)が避難所での取り組みを始めて以来、通算600回目の支援活動となった2013年4月13日は、奇しくも早朝に淡路島地震に遭った中での復興住宅訪問となりました。これを教訓を活かす試練と受け止めることで、一定の成果を収めることができました。

 また秋期以降、神戸・週末ボランティアの訪問活動の原点ともいうべき、山間部の交通不便な地へも、活動を[再]展開するなど、異なった環境・条件にある復興住宅や、さまざまな被災者の方々のお話しをお伺いすることを通じて、該書にもあるような偏向も含めた、克服すべき課題に向き合い、さらなる前進を勝ち取ってきました。

 自戒の意味も込めて、ここで改めて問題をふり返りたいと思います。

2013年11月 神戸・週末ボランティア 新生 主宰者

ボランティアの原点と基本を無視した独善的暴走!

該書およびその著者によって惹起せられた問題のいくつかについて、簡単に触れておこう。

「聞き取り」資料の出所と扱いは?

該書では、1997年から2012年まで、「週末ボランティア」が行ってきた「お話し伺い」の記録を「聞き取り資料」として、引用し、分析したと称している。

これまでの、仮設住宅訪問復興住宅訪問など、グループの活動を通じて、時期によって、当然にも、その担い手、対象、方法、態度、姿勢その他の要素・条件において、質・量ともに大きな差異や変化があり、それらが一定であることなどはあり得ない。それを斟酌しない分析など当を得ないことはもちろん、少なくとも、頻出事象・傾向の抽出など、定量的分析のごときは大いに疑問だ。

該書では資料の出所について詳述していないが、少なくとも弊サイトにおいて収録しているものは、その時々の一部担い手の好悪・利害によるバイアスを極力正したなかで復元しているものだが、それとて完全にはほど遠い。その不十分さを前提に理解しなければならない。また、旧い参加者のなかにも、活動参加を通じて得たものを、独自のフォローなどに活用した例がある。かねてより当方でも、独自に収集・管理した情報・データなどの資料を保有しており、これについては、従来のグループを通じて利用・公表することはさせず、今2013年からの新活動主体による再訪問の展開において、一部参考としている。

該書で一定の紙幅を割いている「復興住宅単身高齢者へのききとり」についても、その位置づけ・位相に、注意しなければならない。我田引水的に描き出した内容について、具体的に立ち入って論評する必要はないだろう。

東日本大震災とのコジツケのゴリ押しを許すな!

わが新たな活動主体においては、すでに、顧み克服した問題ではあるが、ここで改めて、当時の一部の心ない者が行った、2011年3月の東日本大震災後の妄動と破綻について振り返らなければならない。著者は該書によって、その破綻した妄動の、時機を失した防御と反撃を企図したのであろうか、阪神淡路大震災のみならず、東日本大震災の被災者をもダシに利用して、自らの思いならぬ思いをぶつけ、利害ならぬ利害を投影することの犯罪性を明らかにし、これについて弾劾するものでなければならない。

該書では、フィクションといっていいストーリーから始まっている。これは著者の願望と言うより、仮託された不心得者の妄動への衝動を投影した妄想ともいうべきものだ。東北地方で地震と津波による惨禍が発生した翌日、訪問活動を強行したところ、ことごとく「お話し伺い」を拒否され、わずかに簡単な安否確認程度の応答を得たに過ぎなかったのだが、これは、その日の参加者の、浮き足だって、心ここにあらずといった態度に対する、神戸の被災者−住民の反発と冷笑を、歪曲して解釈したものだ。いやしくも阪神淡路大震災の被災者からの「お話し伺い」を続けてきたというからには、ここで自らの姿勢や態度に対する、根底的批判がなされたものと、率直に受け止めるべきだった。

ここから、当時の代表や一部妄動分子が、東日本大震災被災地とのコジツケに狂奔するようになるのだが、こうした姿勢で臨んだ者たちは、東北の被災者からも拒絶され、その妄動は程なく破綻した。

阪神淡路大震災、東日本大震災いずれの被災者・被災地の現状からも遊離しながらも、ぶつけるべき己れの思いを、自らのなかで増幅することで、乗り切ろうとしたものの、その破綻を、コジツケ不足としか認識しなかったのであった。まさに厚顔無恥というほかない。

こうしたなかで、思いをぶつける対象を、現実の被災者・被災地というヒトや場所から、他へと転換したところが、該書の契機のひとつになったのであろう。

こうして「未来(まえ)」という「虚構(うそ)」へと突き進んでいったのだった。

「思い」は「重い」

こういった、独りよがりな、勝手な思いをぶつけるのは、いずれの被災地・被災者にとって迷惑甚だしいもので、適切な支援を行き渡らせ、やがて自立へと向かってゆくべきところ、さまざまな段階・位相において妨げになる。

被災者など、まさに難儀している人々にとって、心理的負担になりうるものであるばかりか、ときとして傷つけるものでもあり、全くもって「心のケア」の真逆を行くものであり、「心のポア」なりうるもので、害が少なければ「心のプア」程度で済むかも知れないが、それは、勝手な思いをぶつける者の心性を投影したものといわねばならない。

直接被災者などに向ければ迷惑・有害な、勝手な思いも、他の者に向ければ、それだけ問題は少なくなる。場合によっては、無害化どころか、役立てることもできる。そのように転換するために、有効な方法や装置もある。

その一例を紹介しておこう。東日本大震災後、被災地で見つかった写真を洗浄して、元の持ち主を探して返却し、家族の想い出や地域の資料を修復・復旧していこうという写真洗浄ボランティアがあった。これであれば、思いをぶつけて、洗浄効果が上がることもあろうし、泥やカビと一緒に、自らのなかの身勝手さもまた洗い流すことができよう。ときには、過ぎたるは及ばざるが如しで、やりすぎて失敗することもあろうが、被災者自身を直接傷つけたり、多大な損害を与えるわけではないから、大した害にはならない。

その点では、もちろんこの例の足もとにも及ばないが、該書も、ヒトではなくモノに思いをぶつける対象を変えることで、及ぼす害を軽減したことに一定の意義はあろう。該書を評価するとすれば、唯一はそれというべきだが、これを手放しで喜べない事情もある。

該書出版元とされているのは、いわゆる出版社ではなく、自費出版を請負う印刷業者のようだ。そのため該書は、私家版として2013年2月頃発行され、後に「市販」したとされている。前者の段階で事態を把握したが、実際に市販されているところを現認していないので、両者の異同については判らないが、こうした経緯を考えれば、かつて、訪問活動をマンガにし、コミケなるところで頒布し、被災者を笑いのネタにするという、度し難い犯罪的妄動に手を染めたオタクの諸君の手になる同人誌の類と共通しているからだ。

頽廃的享楽的なマンガのネタにすることが、被災者の尊厳を蹂躙するものであることはいうまでもないが、該書のように勝手な思いをぶつけるものが、相対的に軽微であるにせよ、本質において同罪であることを免れるものではないことも、忘れてはならない。

勝手な「思い」をぶつけられても、被災者など難儀している人にとっては「重い」ものだ。これは、身勝手なものはともかく、時として善意からのものであっても免れることはできない。こうしたものを支援などの役立ちに転化するためには「装置」が必要だ。直接的・人的交渉では難しくても、間接的、物質的媒介によることで、可能になる。

あるまじき参加態度と自己規定がもたらす陥穽

該書の著者の1人が、自らを「参加」者と称していることについて述べたが、その実態たるや、訪問活動への参加は、わずかな回数に過ぎず、その余は何度か、活動終了後のミーティングや集まりの類に何度か現れてはヒステリックに意味不明な言辞を弄する程度だった。当方で現認した限りにおいても、訪問活動中、終始笑顔を見せることなく、ほとんど睨み付けるような表情をもってし、あろうことにか、訪問先の住民の方とトラブルを起こす始末であった。これが、一般的にボランティア参加者としてふさわしくないのは当然だが、まして教育に携わる者であれば、なおのこと許されるものではない。こうした者にボランティアについて説く資格があるだろうか?

社会実践としても、道徳的・訓育的観点からも、役立つことの欠如となり、教育を通じてこれが拡大再生産されれば、重大な問題になるといわねばならない。また、被災者ぶることで、自らと他者・相手との関係や距離を没却し、それらを認識することを前提とする視点・方法の欠如をもたらす。

ただひとつ注意しておこう。睨み付けることは論外だが、このボランティアにおいて笑顔を見せないことを全否定するものではないからだ。そもそも、笑顔で臨むことは、被災者をお訪ねするという活動の性格からすれば、身内や親しい人々に犠牲者が少なからずいるなかでは、必ずしも必須といえないのみならず、不適切・不謹慎となる場合もしばしばであり、過剰であったり無理につくり出したりする笑顔はほとんどNGといっていいものだからだ。こういったことは、仮設住宅訪問を行っていた頃は心がけていたが、復興住宅訪問に移行してからは、次第に失われていった。これまた今一度注意深く反省しなければならない。

また、ボランティア・ハイとでもいうべき、浮き足だった心理状態のままで臨むことを戒める意味もある。もちろん自然な心理状態で笑顔をもってすることがスタンダードであることを、何ら否定するものではない。

該書では、共著者各々が、被災地・被災者との関係性について触れている。だが注意して読むべきは、自身が被災者、すなわち災害によって直接的損害・被害を受けたものではないということである。いわば、被災者ではなく被災周辺者というべき存在なのだ。にもかかわらず、自らを、深刻な被害を受けた被災者と同様の存在と、自己規定することで、被災者に物理的に近いところに在りながらも、そのメンタリティや立場において、その内実は乖離しており、ややもすれば対立することもある。それに無自覚であることも危険だが、利用するとなればなおのこと悪質である。これこそまさに、その現象面にとどまらず根底から、独善と自己絶対化をもたらす、最大の陥穽のひとつである。

こうしたものを偏向や陥穽として自覚できなければ、その先につくられるのは、これまた虚構しかない。

原点と基本に立ち帰り、役立ちと学びの大道へ!

そうした陥穽によって何が失われるだろうか? 被災者、そして真に難儀している人に寄り添う姿勢、役立ちと学びの姿勢といった、まさしく原点と基本に据えなければならないものにほかならない。

自分が被災者やそのほかの難儀している人だったらどうなのか? と、自らに問う態度・姿勢・方法を不断に保持することが、何より求められる。また、情況に自己を投入せよと説くものもあるが、これもまた然りだ。

相手の立場を考えられない例として、ゴミ同然の不要品を支援物資として被災地に送ろうとする者を挙げるのが解りやすいだろうが、こうしたことと本質的・根底的には同じ問題といえる。自分自身の中にある心のゴミを捨てにきているに等しい。

これは、物質的迷惑もさることながら、心理的負担感、他の支援への妨げといった形でも及ぶ。これまた善意志をもって正当化することもできないが、ある程度は、フィルター的なプロセスを介在させることで、あるべき支援へと転化させることができる。

その一例を挙げるなら、東日本大震災後に、支援物資を募るにあたって、大切な人へのプレゼントのようにすることを呼び掛けた「たすきプロジェクト」があった。この趣旨と方法は、フィルター的プロセスとして成功した。

自分が相手の立場ならどうするか、と考えることは、客観化・対象化の視点をもつことであり、方法もまたそこから生まれる。忘れてはならない、おろそかにしてはならない原点であり基本だ。これなくしては独善であり、そこからは逸脱と暴走が生まれるだけだ。

だがここで、自己の認識中に対象や情況を切り縮めたり、押し込めたりして解釈しないよう、注意しなければならない。自らを投影することで陥りやすい陥穽だ。ここでいかに認識や範疇を拡大するかが問われる。また、実証や検証を、切り縮めの手段にしてはならない。それらは認識や範疇を拡大するためのものだ。ここから学びと成長が生まれる。

そうした展開が次なる飛躍をもたらす。そうしたプロセスと、そのスパイラルがもたらす手応えが、まさに醍醐味ともいうべき充実感である。

直接相手に接し関わることで、迷惑や害をもたらす危険も当然ある。それが不適切な態度・姿勢・方法をもってしたならば、それを自覚し、改めるべきを改めなければならない。その場合、自己批判もまた、対象に対する自らの誠意の投影によって可能になる以上、その回路の成立を阻む独善は、なおもって悪質であり有害である。

役立ちと学びの姿勢・態度は、能力以前のものだ。なかには、自覚的にせよ無自覚的にせよ、これを拒む者がいる。すなわち利用する目的と態度をもってする者である。これが、社会実践としてのボランティアとは相反する、無用かつ有害なものであることは、もはや説明を要しないであろう。かかる点で該書は、「反面教師」にすらならないものである。

役立ちの姿勢をもってすれば、それが相手に通じたとき、心が通じ合ったとき、感謝の気持ちがおのずから生まれ、そこから学びが生まれる。

そうして生まれた学びがホンモノで有意義なものであれば、その先にいっそうの認識と範疇の拡大がもたらされ、自らのみならず共にある者にとっても、さらなる成長となる。

未来(さき)はそこにこそ求められなければならない。

(2013.11.21)

We love KOBE Weekend Volunteer
inserted by FC2 system