神戸・週末ボランティアのあゆみ

阪神淡路大震災が発生した1995年から今日まで,被災地の復興と被災者の生活再建のサポートのための訪問活動を続ける,神戸・週末ボランティアのあゆみを紹介します。

前史

1995年1月17日の阪神淡路大震災が発生する以前から「神戸・地球環境研究会」というグループが活動をしていた。このグループが,今日にいたる神戸・週末ボランティアの母体となるもので,もともとは,神戸近辺在住・在勤のサラリーマンを主な構成員として,神戸・週末ボランティアの代表となる東條健司,初代副代表となる鹿島勝らを中心に,1990年頃から,オゾン層破壊をもたらすフロンガス低減のための学習や活動をしていた。

震災発生の日以降,このグループのメンバーが自発的に,炊き出しをはじめ水汲み,物資配給などといった,被災者支援の活動に取り組むようになった。グループとしての支援活動のはじめは,長田神社参道付近での炊き出しであったという旧いメンバーの証言もあるが,1月28日,滝川高校避難所での炊き出しを行ったのを第1弾とし,神戸・週末ボランティアの活動の出発点としている。こうした避難所での支援活動は,5月まで20回にわたって行われた。

こうした中で,阪神・淡路大震災被災者支援「週末ボランティア」を名乗るようになった。そのため訪問活動に入ってからしばらくの時期も,グループの名称を「神戸・地球環境研究会/週末ボランティア」と表記し,代表なども両グループを兼ねていた。また後年,他の災害への救援・支援のみならず,それ以外の分野においても週末のみに活動に従事する「週末ボランティア」が増えているが,このグループは,そうした活動参加スタイルを可能にし定着させるうえで,先駆的役割を果たしたといえよう。こうした経緯から,他と区別する必要が高まったため「神戸・週末ボランティア」と表記するようになった。

訪問活動

震災後半年ほどすると,避難所にいた被災者が仮設住宅へと本格的に移っていったため,1995年6月から,仮設住宅の被災者への支援活動を行うこととなった。

支援活動に参加する側も,継続的に携わることができないため,活動を週末である毎週土曜日の午後にすることで,従来活動を主に担っていたサラリーマンや学生はもちろん,仮設住宅やその近くの住民,さらには被災地内外からの多くの参加者を受け入れる体制を整えた。まとまった期間,支援活動に専従するだけがヴォランティアではない。短期・短時間であっても参加し役に立てる場と機会を設定したことに,その特徴と意義ががあったといえよう。

仮設住宅訪問

仮設住宅は,もとの被災地に近いところに造られたものもあるが,大規模なものは,交通不便で気候も厳しい郊外に造られることが多く,そこには広範な被災地各処から,多くの被災者が集まってきていた。こうした中でも,神戸・週末ボランティアが,訪問活動の対象とした仮設住宅は,神戸中心部の三宮・元町や,惨禍の映像が広く流された長田区からも離れた,神戸市西区の西神ニュータウンの公園,学校グラウンド,未分譲地に造られたものが主であった。当初6〜9月の訪問先は,初回の桜木町仮設住宅をはじめ,須磨区の仮設住宅であったが,決して白砂青松の須磨海岸近くではなく,長田区に近い激甚被災地や,隣接する西区の西神ニュータウンに続く,内陸・山間部である北須磨地区であった。さらにはニュータウン造成地よりもまだ不便なところに造られた仮設住宅にも足を運んだ。

仮設住宅

仮設住宅 (1998.9.5)

こうして,神戸・週末ボランティアの仮設住宅訪問は,他の団体や支援者がなかなか行かないような,サポートが行き届きにくく,被災地内外の他地域からはその存在すら顧みられないような地において,交通不便にもかかわらず,時には厳寒酷暑をおして,約4年間にわたって,毎土曜日の午後,行われた。

毎回の訪問活動には,多いときで数十名,少ないときで20名台の参加者を得て,仮設住宅訪問を通したトータルでは,延べ9000名に及んだ。何度も参加して常連となって定着した参加者も少なくない一方,毎回新たな参加者を温かく迎えるとともに,初参加でも,継続的な参加者でなくても善意を活かし役立てる「自由参加型」の仕組みを整えていった。そうした中で「1回だけでも,初めてでも」という呼びかけがなされるようになった。

参加者の年代も10代から90代と広範にわたるほか,職業などもさまざまで,多様だ。中には自身も被災者であったり,訪問先の仮設住宅の住民であったりすることも少なくなかった。こうした多様な参加者層を得たことが,訪問活動での受け口の広さへとつながっていった。

レクチャー風景仮設住宅

レクチャー風景。神戸市営地下鉄学園南駅前 (左;97.1.11),仮設住宅 (右;1995.12.24)

西神地区及びその近辺の仮設住宅といっても,その数はグループとしての神戸・週末ボランティアの活動時間と参加者数から見れば膨大だ。そこで,ひとところに常駐・定着してサポートを行うのではなく,仮設住宅ごとに,一棟一棟,一戸一戸を順次訪問してゆく「巡回型」の訪問活動となった。折から仮設住宅での「孤独死」が問題になった中,一人暮らしであったり,支援・相談を受けるなどして,その後の情況が懸念されるところへは,再訪問を随時行った。

仮設住宅各戸への訪問活動において行うのは「お話し伺い」だ。被災前・被災時の情況,避難所・避難先から仮設住宅にやってきた経緯,仮設住宅の生活において困っていることを訪ねるのはもちろんだが,それにとどまらず,それまでの人生に広く及ぶこともある。したがって1戸の訪問時間が20〜30分ぐらいになることは多く,1時間以上に及ぶことも少なくない。なかには,孤独の中,話したいことがいっぱいあったのだろうか,引き留められ数時間に及んだこともあった。単に声をかけて安否を確認するだけではなく,話し相手−聞き手となることで「心のケア」となるのだ。

被災者−仮設住宅住民からすれば,ボランティアは得体の知れない未知の来訪者であり,警戒と拒絶の対象になりやすい。そこで訪問に先立って受け容れられるべく努力しなければならなかった。こうした事前準備の中でほぼ一貫して続けられているのが,訪問に先立ってあらかじめ知らせておくべくチラシを投函することであった。この「予告チラシ」とあわせて,記入用紙を附して投函している。これは訪問したボランティアがうかがった内容をまとめて記入する(これを支援に結びつけるところから「支援シート」と呼んでいる)ものだが,住民自身が記入する機会を提供することで,ナマの声をヨリいっそう引き出そうというものだ。

住民の声を引き出すことについては,書翰形式の投書である「市長への手紙」の用紙を持参し,投書するよう勧めたり,インターネットを通じての文通形式の交流をつくり出す「かみひこうき」への投稿を勧めたりすることを,訪問活動の中で行った。また,訪問先の仮設住宅が交通不便なところにあることから,近辺に路線をもつ市営バスの運行改善を提言したり,もっとも身近な交通手段のひとつである自転車の修理を行うなどの取り組みが,ボランティア参加者の創意工夫のもとで展開された。

このように,神戸・週末ボランティアにおける訪問活動の方法は,仮設住宅訪問の時期にほぼできあがり,今日に至る復興住宅訪問活動に継承されているといえる。

仮設住宅訪問活動仮設住宅訪問活動

仮設住宅訪問活動のようす 「降っても照っても4年 週末ボランティア」より

この訪問活動に際しては,支援物資を届けるなど,物質的なサポートは原則として行わないこととした。ボランティア参加者がその場でできる簡単なお手伝いの類はするが。その場でできる以上のことは,兵庫県被災者連絡会などの,被災者支援活動を行っている他団体に依頼したりするほか,被災地NGO恊働センターなどへの参画を通じて得たり交換したりしたものをもとに,情報を提供することなどを通じて,被災者−住民自身が,自ら声を上げ,改善・解決するためのお手伝いをするスタンスで臨んだ。こうしたスタンスは,物質的支援を主とする他のボランティアや支援活動団体とは,大きく異にするものであった。

阪神淡路大震災の被災地の中でも,阪神間は個を尊重する市民社会が成熟したところとされ,神戸も港町らしく他からやってきたものに寛容でその受容に積極的とされるが,このことが広くボランティアを受け容れる土壌となったといえよう。俗に謂う「ボランティア元年」は,一面において,こういった地域性によって可能ならしめられたものと言っていい。それは神戸・週末ボランティアの活動にも当てはまるものだが,逆に,そういった地域性に甘えてしまった部分があることも,反省点として確認しておかねばならないものであった。

復興住宅訪問

神戸市において仮設住宅がなくなるのは1999年であるが,その前年あたりから復興住宅への移動が進められた一方で,最後まで仮設住宅にとどまらざるを得ない被災者もおり,こうした住民への訪問を続ける一方,今後のグループとしての活動のあり方について,参加者で議論された。復興住宅での支援ニーズが不透明とされたことやそれに対応するグループの体制を整えることが困難と考えられたことから,引き続きサポートが必要な人や希望する人だけを対象にフォローするにとどめようとか,仮設住宅がなくなった時点で活動を終えようとの意見もあったが,もっぱら被災者のために建設されたもしくは被災者が多く集まって入居する公営住宅である復興住宅に,従来と同じような形で,訪問活動を行うこととした。こうして1999年6月から,仮設住宅と並行して復興住宅への訪問活動を開始し,10月をもって仮設住宅への訪問活動を終えてからは,復興住宅に専念した。

名谷駅東住宅HAT神戸・灘の浜住宅

須磨区北部にある名谷駅東住宅 (左;2003.7.26),海岸近くの工場跡に造られたHAT神戸・灘の浜住宅 (右;2006.7.22)

復興住宅訪問活動を始めるにあたっては,まず,被災地各処に建設された復興住宅のうち,仮設住宅のときと同様,神戸中心部から離れた交通不便な地を中心に,訪問対象とした。須磨区の北須磨地区やその周辺の垂水区・西区にかかる地域で,直線距離だけなら以前より神戸中心部から若干近くとも,急峻な地形のところや,駅やバス停からのアクセスに支障が出るほど不便なところが多かった。

名谷駅前に集合,間もなく訪問前レクチャー終了ミーティング

名谷駅前に集合,間もなく訪問前レクチャー (左;2003.6.14),終了ミーティング (右;2002.1.12)

復興住宅訪問活動に入って1年半ほどが過ぎた2001年3月,毎週土曜日に行ってきた訪問活動をこれまでとし,翌4月からは毎月第2・第4土曜日の午後の,毎月2回行うこととし,現在に至っている。台風上陸などで,参加者の安全が確保できないと思われるときに訪問活動を中止したのは,毎週活動していたときも月2回になってからも同様だ。2009年は,1月第2週の訪問活動を行事に振り替えたほか,新型インフルエンザの流行に際して念のため2度にわたって中止した。

復興住宅においては,仮設住宅のときほど深刻な問題に直面することは少ないと思われたが,震災後時間が経つにしたがって新たな問題が生み出されていることに直面していった。仮設住宅においては,ゼロの状態からも住民間のコミュニケーションをつくりだし,コミュニティーの再構築を可能にしたが,復興住宅においてはそうはいかなかった。復興住宅における「孤独死」が仮設住宅におけるそれを上回ったり,高齢化の問題が深刻になり,ついには震災当時まだ現役世代であった人たちが高齢者の仲間入りするに及んで,数量的次元を越えて,その内実が多様化・複雑化するに至った。かかる情況を平素の「お話し伺い」の中からつかみ取り,問題提起し続けていった。

ベルデ名谷ちょっとカー

急峻な斜面に造られたベルデ名谷 (左;2003.3.22),バス停前での「ちょっとカー」 (右;2003.1.17)

毎回の訪問活動の中から見いだしたニーズのうち,既存のものでは対応できないものの,自らの工夫と力でできるものに取り組むこともした。こうしたニーズの開拓と先駆的実践こそが,ボランティアの本領を発揮するところだ。2001年11月,若草住宅で行った茶話会(実態は芸能大会であった模様)が好評であったとみえ,2002年,住民自治会からの要請を受け,2月11日,新春芸能大会を手伝ったほか,5月には訪問活動日以外の平日にも茶話会を行った。急峻な地形の中に造られた復興住宅であるベルデ名谷において,最寄りのバス停までの坂道の移動をサポートする「ちょっとカー」(2002〜3年)を始めたのもその一例だ。

訪問活動中の記念撮影お話し伺い

訪問活動中の記念撮影 (左;2007.4.14),お話し伺い (右,2007.9.22) HAT神戸・灘の浜住宅にて

仮設住宅に続いて,永らく西区・須磨区・垂水区といった郊外の山間部にある若草・井吹台・名谷駅東・白川台東・ベルデ名谷などといった復興住宅を訪問してきた,神戸・週末ボランティアだが,2003年頃から,中央区から灘区にかけての海岸近くの,工場跡を利用して東部新都心として再開発されたHAT神戸及びその周辺の公営住宅群にある復興住宅であるHAT神戸脇の浜・HAT神戸灘の浜・筒井住宅に,被災者を訪問するようになった。これまでは原則として一度きりの訪問となっていたが,これ以降は時間をあけて同じ復興住宅に訪問し,情況の変化に対応している。

通行人に呼びかけをする東條健司代表訪問前レクチャー

通行人に呼びかけをする東條健司代表。これに続いて訪問前レクチャー。JR三宮駅前 (左,2003.12.13),
屋内に場所を移した訪問前レクチャー。神戸市勤労会館 (右;2007.3.24)

仮設住宅・復興住宅への訪問活動は通算500回を2010年2月にむかえる見込みである。延べ参加者数は,2009年6月で16000名に達したとされるが,計数方法上の問題や誤差を斟酌すると500回をむかえる頃と考えられる。

訪問活動中の参加者活動に協力してくださっている住民宅にて

訪問活動中の参加者 (左),活動に協力してくださっている住民宅にて (右) HAT神戸・脇の浜住宅 (2008.12.27)

その他の取り組み

神戸・週末ボランティアの活動は訪問活動に根ざすものであるが,これとあわせてさまざまな取り組みを行ってきた。これらはいずれも,訪問活動を通じてうかがったニーズにこたえ,見つけ出した問題を提起し,要求を実現するとともに,ボランティア参加者同士の親睦とレヴェルアップをはかり,さらにはボランティアと被災者−仮設・復興住宅住民,その他の市民とのコミュニケーションを推進し,交流をつくり出すうえで,重要な位置づけとなっていった。

つながりをつくる

模擬店仮設住宅訪問を通じて,真っ先にその重要性と必要性を認識したのが,住民間のつながりをつくることであった。

イヴェントを交流の機会に

神戸・週末ボランティアが訪問活動を行った仮設住宅は,被災地各処から,見ず知らずの住み慣れたところではない地に,自らの意志とは関係なく,やってきた被災者が集められて住民となった。生活基盤とは切り離され,お互い見知らぬ新たな隣人の中での生活を始めることを余儀なくされた。こうした仮設住宅を訪問するのとあわせて,年末年始や夏の盆踊りの時などに,仮設住宅においてイヴェントを企画し,住民同士の交流のきっかけを作り出していった。また時として,ボランティア・住民一体となってともに楽しむ場もうまれた。

仮設住宅で自治会長選出を呼びかける盆踊り大会

集会の会場で模擬店を出す。湊川公園にて (上;1996.10.13)
仮設住宅で自治会長選出を呼びかける東條健司代表 (左;1995.12.24),
仮設住宅の盆踊り大会。西神工業団地仮設住宅ふれあいセンター前 (右;1996.8.17)

仮設住宅の住民自治会をつくる

こうした中,単にサポート・支援をするにとどまらず,被災者−住民自身が,自ら声を上げ,その実現を図る主体となれるようにするための取り組みを行った。訪問活動やイヴェントを通じて知り合った住民の方の中から中心になってくれそうな人にお願いし,それを支えていくコンセンサスをつくりながら,仮設住宅の自治会をつくり出していった。こうした取り組みは,社会運動で一般的な組織化の域を超えた,市民の主体性を引き出し陶冶するという点で,貴重な意義あるものであった。そうしてできた自治会は,数ある地域住民団体としての自治会の中でも稀有な存在といえるだろう。これが存在したのは一時的であったが,自治を担った住民自身は,やがて復興住宅へと移っていったが,その過程で自治力を自ら育み高めていったといえるだろう。

「ふれあいセンター」の活用と「ふれあい喫茶」

仮設住宅には,1995年夏から「ふれあいセンター」と呼ばれる集会所が設けられるようになり,小規模なところでは後に地元新聞社から「ふれあいテント」が贈られたが,そうしたものの活用を促進することにも取り組んだ。訪問活動後にふれあいセンターに泊まり込んだボランティア参加者が,翌朝,コーヒー・紅茶やトーストなどを合わせたモーニングを提供しながらお話し相手となる「ふれあい喫茶」を手伝うこともあった。

公的支援を求めて

阪神淡路大震災の被災者には,全国から多額の義捐金が寄せられ,何度かに渡って配布されたが,被災者1人あたりではあわせて20数万円がやっとであった。一方,その前年に発生したサンフランシスコ地震では,直ちにまとまった額の給付金が被災者に給付され,生活再建の出発点に役立った。そうした中から,阪神淡路大震災の被災地・被災者のなかから,生活再建のための公的援助を求める声が,澎湃として起こった。そうした声をもとにしてできたのが,1998年に成立した被災者生活再建支援法であった。その実現のために,小田実らの「市民=議員立法実現推進本部」,「『公的援助法』実現ネットワーク被災者支援センター」(代表・中島絢子)をはじめとする多くの団体や個人が,さまざまな取り組みを行った。

公的援助実現のための署名集めに上京した週ボラメンバー公的支援を求める被災者とともに

公的援助実現のための署名集めに上京した週ボラメンバー (左;1995.10.22),
ハンストで公的支援を求める被災者とともに,国会議員会館前 (右;1996.12.3)

神戸・週末ボランティアでは,比較的早くからそれへの取り組みを始めた。運動・取り組みが大きく盛り上がる以前の,震災発生の年である1995年中に,訪問活動のかたわら,公的支援を求める署名活動に取り組み,被災地にとどまらず,同年10月には上京し,有楽町駅前で署名活動を行うとともに,被災地・被災者の現状を多くの人に知ってもらうべく努めた。また翌1996年正月の仮設住宅での甘酒配りにおいて,甘酒を入れた紙コップに公的支援を求めるメッセージを付すなどして,被災地の隅々からその声をつくり出していった。

1996年末〜97年にかけて,阪神・淡路大震災被災者への公的支援の要請を行った際には,代表名で呼びかけ人の一人として加わったほか,公的支援を求めて東京都心でハンガーストライキを闘った被災者サポートした。2007年に行われた2度目の同法改正に先立って総務省が募ったパブリックコメントに,代表がボランティア個人として意見を寄せるなど,その後も,阪神淡路大震災被災者の声を伝え,同法の拡充をめざした。

イヴェント

神戸・週末ボランティアのイヴェントは,正月〜「1.17」前後の時期に行うことが多い。仮設住宅で最初の正月を迎える住民のために,震災翌年の1996年はじめに「甘酒配り」を行い,以後も1999年まで続いた。復興住宅においても,2002年1月3日,井吹台復興住宅集会室にて新春芸能大会を行った。

金子郁容氏講演会;ヒューマンサービスとボランティア

金子郁容氏(左)と講演会風景(右)。兵庫県民会館 (2000.1.16)

他の団体同様,神戸・週末ボランティアでも「1.17」にあわせて行うものが,行事としてメインになるのが常であった。この日にあわせて,時々の情勢や訪問活動から導き出したテーマのもとに集会や講演会を行ってきた。1999年1月17日には「1.17学んだ4年 ボランティアから21世紀へ」と題した集会を行い,2000年1月16日には,岩波新書『ボランティア もう一つの情報社会』の著者,金子郁容慶大教授を招き「ヒューマンサービスとボランティア 震災5年介護初年にあたって ネットワーク社会を考える」と題した講演会を行った。2003年1月18日にはこれらを振り返りつつ,「ボランティア8年から見えたもの」と題した集会を行った。会場を手配してのある程度の規模で行ったものは,震災10年目となった2005年1月16日の週末ボランティア10年目の集いであった。2004年から,訪問活動に協力いただいている復興住宅住民宅の提供を受けて行うようになり,近年ではこれが定着している。あわせて「1.17」当日や前日は,他の行事も多いことから,神戸・週末ボランティアでは,年が明けてから「1.17」の少し前に行うことが定着している。これがボランティア参加者・協力者の新年会も兼ねている。

集会;ボランティア8年から見えたもの訪問シートを読む会

ボランティア8年から見えたもの。あすてっぷKOBE (左;2003.1.18),
訪問シートを読む会。神戸市総合福祉センター (右;2003.8.30)

新年会もあれば忘年会もあった。近年では途絶えているが,2001年まはボランティア参加者をはじめ協力者,被災者・支援団体関係者などとともに「望年会」と称する行事で1年を締めくくっていた。

週末ボランティア10年目の集い300回記念茶話会

週末ボランティア10年目の集い。神戸市勤労会館 (左:2005.1.16),300回記念茶話会。名谷駅東口住宅集会所 (右:2001.7.28)

訪問活動は,仮設住宅に入って以来の通算回数を現在もカウントし続けているが,150回記念ミーティング(1998年5月30日),200回記念ミーティング(1999年5月),300回記念茶話会(2001年7月28日)などといったように,節目となる回数となったときに記念行事を行ってきた。ボランティア参加者や仮設住宅・復興住宅住民らが一緒になって,演芸会や茶話会などのイヴェントとなった。また350回に際しては訪問シートを読む会(2003年8月30日)を行った。450回には,訪問活動に専念するあまり特段の準備をしていなかったが,翌2008年1月5日に行った集会「追悼と討論の集い 13年目の被災地から〜「高齢者」となった被災者のこれまでとこれからを中心に〜」に,「訪問活動450回記念」を冠して,この間の訪問活動の成果を世に問い,問題提起する場として,恒例行事を位置づけて行った。

訪問活動450回記念 追悼と討論の集い震災被災者とボランティアの集い

訪問活動450回記念 追悼と討論の集い。HAT神戸・脇の浜8棟108号室,倉谷さん宅 (2008.1.5)
震災被災者とボランティアの集い (2009.1.10)

よりよい活動のために

神戸・週末ボランティアでは,グループの運営にかかる体制は簡便に,経費も極力抑えることで,参加者の善意と創意工夫を活かしつつ,無理なく活動を続けるようにしてきた。

独立・自主の財政

活動の性格上,多大な物資を収納・輸送したりする必要もなく,有給の専従スタッフを置くことはせず,事務所等も置かず,連絡先は代表宅としている。配布資料等の印刷も,市民活動向けに安価で利用できるところを活用している。活動を始めた初期には,イヴェント等に出店を出し,その売り上げを活動経費とすることもあったが,参加経験者をはじめとする一般市民からのカンパが,今日まで一貫してその主となっている。以前は随時寄せられたカンパについて,寄贈者を「今週の資料」で紹介していた。それとあわせて毎年末近くに,活動報告をあわせて,参加・寄贈経験者にカンパ要請を行っており,近年ではそれがもっぱらとなっている。また,若干の公的補助もあるが,それは全予算のごく一部であり,企業・団体等からの大口カンパはほぼ皆無だ。よって,財政面での独立性・自主性は大きく保たれている。

週末ボランティア総会

週末ボランティア総会,1997年週末ボランティア総会,2007年

週末ボランティア総会 (左:1997.1.12,右:2007.7.15)

神戸・週末ボランティアの活動において,重要なことを決めるのは総会だ。代表らのお世話役の人事,決算の承認を伴うことから,少なくとも1年に1回,おおむね6月に行われてきた。以前は頻繁に行われ,訪問対象となる仮設住宅の選定,行事・イヴェントなどの訪問活動以外の活動についてや,活動継続のあり方なども,総会の場で盛んに議論された。復興住宅訪問に入ってからは,活動の質を維持するための議論や,毎週末から月2回に訪問活動の体制を縮小することなども話し合われた。2001年頃までは代表などとは別に置かれた議長が招集した。2005年からは年1回6月か7月に行われるようになり,現在に至っている。

お世話役と役割分担

神戸・週末ボランティアは自由参加型のグループであるので,会費や組合費を払った者だけに参加資格を認めるようなことはなく,活動には誰でも参加できる。そうしたところからグループの役員を「お世話役」と呼んできた。対外的にも代表するのは代表であり,この名称は今日まで一貫している。代表とともにグループの活動を担ってきたのが副代表であった。もともとは1名であったが,複数名置くようになってから,グループの適切な運営に機能しなくなったため,2007年に,活動体制を刷新する中で廃止した。あわせて代表に支障ある時は代表代行を指名できるものとした。2002年頃,一時期,他にもさまざまな役職や役割分担が濫造・乱立したことがあったが,間もなく淘汰された。仮設住宅訪問活動を続ける中で会計担当者の常置が必要とされるようになったことから,仮設住宅の住民自治や公的支援を求める取り組みを担いながら,訪問活動に協力してくれた住民にお願いして以来,今日に継承されている。2009年には会計監査2名をおいた。

独立性の堅持

予告チラシ仮設住宅・復興住宅への訪問活動に先立って訪問予定のお宅に配布する「予告チラシ」には「宗教や政党など全く関係の無い民間の」団体である旨をうたっている。それは不断の努力によって維持され,被災者・市民の信頼を受け,広範に多様な参加者を受け容れる上で不可欠な要素となっている。延べ1万数千名の参加者によって,15年にわたってグループの活動が行われる中で,無謬ということはあり得ないが,その都度,積極的な議論や,率直な反省と是正を行うことで,維持してきた。

訪問活動の中で,国会議員・地方議会議員・首長いずれの選挙においても,特定の候補者や政党を支持するような言動をとれば,公職選挙法の戸別訪問になりかねないことから,かかることを行わなかったのはもちろんだが,その地位にあったり選挙立候補の予定があったりする者についても,著名人などの場合と同様,いっさい特別扱いせず,一参加者として参加してもらった。これは,彼らに一般の市民の視点・立場で被災者・住民に接する機会を提供することで,意義のあるものであった。また,グループのお世話役や参加者が選挙に立候補した場合でも,グループとして支持することはせず,代表などの役職に就いていた場合は離任させた。

参加者の中には,特定の宗教の篤信者が,その信仰の具現化のためにやってきたこともある。自らの価値観を押しつけたり,それに基づいた憐憫の情を向ける対象として,被災者・住民に接することは,グループの活動のあり方とは全く異なるものである。そうであっても,ひたすら耳を傾ける姿勢をとる中で,かかることに自ら気づき,現実・情況から学び役立とうという姿勢を身につける翻身・回心を成し遂げることが多かった。なかには,仮設住宅訪問に際して,ある宗教団体の信者が集団で参加し,訪問活動で訪ねた住民宅に自らが信仰する宗教の勧誘に訪れ,クレームを受けた代表が一戸一戸謝罪に廻ったということもあったが。

仮設住宅・復興住宅ともに,訪問活動での「お話し伺い」は,被災者の声を上げる出発点だ。グループとしての神戸・週末ボランティアが,行政当局など関係機関へ要求することもあるが,これにはニーズを発掘するという面もある。また住民自らが声をあけるお手伝いもする。それだけに行政当局側がらすればうるさい存在ということになる。阪神・淡路大震災後の一般的趨勢からして,ボランティアなどの市民の自主的・自発的活動を,行政当局の下請化し,そのもとに糾合しようという動きは,さまざまな形で追求され,神戸・週末ボランティアにも及んだが,これを看破し,その策動を打ち砕いてきた。かくして民間団体ならではの自主性・独立性を堅持して今日に至っているのである。

活動の質の維持・向上と信頼関係の構築

誤謬や錯誤,偏向は人間のすることゆえ,不可避なものであるが,その中には高邁な目標の実現のためになされるものもあれば,愚劣なものもある。その最大の例は参加者が個人的趣味の具にすることであった。もちろん趣味といっても千差万別で,それによって活動に寄与するものもあった。囲碁・将棋で高齢者とコミュニケーションを深めたり,交通に関する趣味から,仮設住宅や復興住宅周辺におけるバスの利便性の改善提言をまとめたり,地下鉄やバスの回数券を活用して参加者の負担軽減を図ったりしたのがその例だ。

その一方で,深刻なダメージを与えたものがあった。グループとしての神戸・週末ボランティアの活動それ自体や,これに参加して見聞した内容を,マンガにして,いわゆる「おたく」が集まる同人誌即売会で頒布したことであった。被災してこれまでの人生で築いた一切合切を失い,どん底にたたき落とされた被災者を,あろうことにか笑いのネタにしたもので,その頽廃的享楽的内容と姿勢もさることながら,本来であれば積極的に見いだすべき被災者の尊厳をないがしろにし,冒涜するに充分なものであった。これによって心ある参加者が次々と去り,活動の質・量ともに低下・縮小を余儀なくされたのみならず,被災者・住民からの信頼・期待も失われていった。かかる中,2007年からそうした宿弊を一掃し,活動の正常化−清浄化と再生への取り組みを開始し,被災者の中に尊厳を見いだす姿勢を取り戻し,お詫び行脚の気持ちを片時も忘れず,毎回の訪問活動に臨むという地道な努力を続け,現在に至っている。

情宣と記録

神戸・週末ボランティアの活動を広く世に伝えるうえで,長きにわたり,もっとも大きな役割を果たしてきたのは,地元地方紙・神戸新聞をはじめ,全国紙の大阪本社版といった新聞である。これら各紙での扱いは,時によって大きく異なるものの,仮設住宅・復興住宅への訪問活動や,行事・イヴェントなどを紹介したりするほか,グループからのプレスリリースによってボランティア募集・案内を掲載している。こうした新聞という媒体に掲載されることによって,グループとしての信用が高められている。

グループ自身による情宣手段としては,伝言ボックスにアクセスして毎回の訪問活動を音声で案内する電話伝言板(1996〜2000年頃稼働)や,訪問活動の案内をはじめ,参加者に配布される「今週の資料」,支援ニーズや被災地・被災者をめぐる情勢に関する情報を納め,随時取り出し可能にしたFAX情報サービス「こうのとり」(1997〜1999年頃稼働)があった。

これよりやや遅れて,グループのウェブサイトが制作されるようになった。これは個人の提供によるものを利用し,のちに「インターネット班」を名乗るようになった一部有志で運営しているもので,訪問活動の案内などに役立つようになった。しかし,提供者・管理者の利害・好悪や物理的諸条件のため,コンテンツの偏向やデータの損壊・消失が進んだ。

これは何より,記録・報告と宣伝のスタンスの未分離という,グループとしての神戸・週末ボランティアが抱えてきた根本的問題に行き当たるものでもあった。また,グループの活動に関する資料を保管していた旧い参加者・協力者の死去や,保管場所が火災に遭うといったこともあり,こうした情況に鑑み,記録・資料復元が急務と思われた。そこで,グループのウェブサイトから消失していた,訪問活動の記録などを,旧い参加者の協力を得ながら復元し,利用しやすい形に編集するところからはじめ,グループや参加者の活動に関する資料を集めた「神戸・週末ボランティア アーカイブズ」を制作・公開した(2007年11月〜)。さらに,グループの解体的再編をかちとる中で,宣伝というバイアスから自由になった,信頼度の高い情報発信をめざして,「阪神淡路大震災の被災地・神戸で今なお復興住宅への訪問活動を続けているグループの記録とレポート」のための新サイト「This is 神戸・週末ボランティア」の制作を始めた(2008年6月〜)。当初は従来制作者個人のサイトで公開していたものを移設して開設したが,これに増補・改訂するほか,新たな活動報告やレポートを随時追加するとともに,旧い時期の活動に関する資料のデジタル化保存と公開も並行して進めている。

刊行物・配布資料

神戸・週末ボランティアでは,通算訪問回数が節目となる回数となったときに記念行事を行ってきたが,それとあわせて,もしくはそれに替えて,ボランティア参加者が寄稿した記念文集を編纂することもあった。訪問活動100回記念誌(1997年5月),10周年記念誌(2005年1月)がそれである。また最高齢の参加者が急逝したときにも追悼文集(1999年9月)を編纂した。

グループとしての活動の成果やデータについては,早い時期から随時資料としてまとめていたが,仮設住宅訪問最後の年となった1999年1月,避難所での活動以来200弾となるのにあわせて,これをベースとして「降っても照っても4年 週末ボランティア」を編纂した。

1999年には「ボランティア手帳」がつくられ,初参加者を中心に配布された。これは同年1月の集会での参加者の発言をフレーズにして集めたもので,一見した限りでは美辞麗句を集めたようなものでありながら,その実態は,コンテキストを没却し,発言者の趣旨や意図から切り離された片言隻句であったことから,言語コミュニケーションに依拠する活動に臨む姿勢として疑問のあるものであった。ところが2003年になって突如,「HYOGONコミュニケーション祭2003」が行った「活動を伝える!NPO/NGO広報コンテスト」に応募,上位に選ばれた。

毎回の訪問活動において,訪問予定のお宅に「予告チラシ」を投函しているが,これに住民自身が記入できる「支援シート」や,グループの紹介などをあわせている。予告投函時や訪問活動時に,グループが発行するものではないが,「市長への手紙」や「かみひこうき」の用紙を渡すこともある。

訪問活動に参加するボランティアには,「今週の資料」を毎回配布している。これは,訪問活動の案内,前回もしくは前々回にうかがった内容の概略のほか,被災地・被災者をめぐる情勢に関する新聞・雑誌記事をスクラップしたものなどによって構成された。これに,グループのウェブサイトの掲示板を転載し,投稿欄の役割を果たした。後に,訪問活動に臨むにあたっての心得や「お話し伺い」のコツのようなものが加わった。現在ではこれに活動の案内と内容の概略をあわせたものに縮小されている。

(2009.12.22)

参考

以前のウェブサイトで掲載していたものを紹介しておきます。

神戸・週末ボランティアの紹介/お誘い 1999.6/2002.1
傾聴のコツ/震災状況の聞き取りについて 2001.8/2005.3

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