神戸・週末ボランティア再生プロジェクト
2007

ここにおいて,現状をしっかり見据え,もはや覆い隠しうるものでないことを認め,率直に告白しよう。

神戸・週末ボランティア」の活動の質の低下が顕著になり,とりわけこの1〜2年深刻化しており,もはや危機的事態となってしまった。

そうした中2007年2月,活動の質の向上と信頼の恢復に向けて,東條健司代表が一大決心のもと取り組みを始めた。これにこたえて,これまで「神戸・週末ボランティア」が抱えてきた諸問題を根底から一掃して,活動を再生させるべく,この間の取り組みを「「週末ボランティア」正常化闘争」と規定し,自らも担い奮闘する中で,ここにその軌跡を記録し報告するものである。

正常な活動情況

週末ボランティアの活動は,阪神・淡路大震災の発生した1995年から始まる。震災当初の一時期,「神戸・地球環境研究会」(東條健司・週末ボランティア代表が主宰)のメンバーが,炊き出し等の活動を行っていたが,やがて仮設住宅への巡回訪問活動を定期的に行うようになり,その際サラリーマンや学生が来やすいようにと,毎週土曜日の午後を活動日としたことから「週末ボランティア」となった。仮設住宅への訪問からやがて復興住宅への訪問へと移行し,現在に至っている。

訪問活動では「お話し伺い」が第一だ。震災当時の被災情況や,避難所・仮設住宅・復興住宅での生活,現状において困っていること,行政への意見等々,震災関連は当然として,それ以外にも体調・近況など,うかがうべき内容は多い。

お話し伺いの訪問活動を出発点として,新たなコミュニティーをつくり出し,住民自らが声を上げ,主体性を発揮するためのサポートをすることも,重要な活動だ。そのため住民間の交流をつくり出すためのイヴェント・行事を行ったり,被災者への公的支援を要求する取り組みも行ってきた。

こうした中でもとりわけ,仮設住宅での自治会結成支援は,仮設住宅の自治会が,行政の末端組織として上から組織されたものでなく,住民自らが声を上げるべく,自らの手でつくり出されたものであるという点で,日本の社会運動及び地方自治史上において,貴重な例として高く評価されるべきものである。

さらに,神戸市・兵庫県などの行政当局との関係においては,活動を通じて集め集約した住民の声を突きつける対象と位置づけられることはもちろん,今日的にも,市民オンブズマン的な立場・観点から行政の暴走にたいする監視は,重要な課題であり責務である。その他政策提言なども随時行ってきた。

すなわち週末ボランティアの活動は,お話し伺いを起点として,コミュニティーの創造・構築住民の主体性発揮のサポート,行政監視政策提言などに及ぶものであり,これら全般にわたって十分に役割を発揮してゆくことが求められ,それがあるべき姿である。そのあるべき姿の恢復が,週末ボランティア正常化闘争の目標であるが,その出発点は,活動自体のそれでもあるところの,お話し伺いの恢復である。

資質低下への転落

仮設住宅訪問から復興住宅訪問へと活動場所を移していった頃から,参加者数の減少が見られた。しかしながらこれは,活動期間が長期化するにしたがって,進学,就転職,高齢化など,個々の参加者の事情により,引き続き活動に参加することが困難なメンバーが必然的に生じたことによるものだ。

しかしながらこのことが直ちに週末ボランティアの活動の質の低下につながったわけではない。訪問活動対象の復興住宅は,仮設住宅(神戸市中心部からとりわけ離れた西神地区を主要な活動対象にしていた)よりも比較的参加しやすい場所にあること,引き続き新たな参加者が来てくれたことなどのほか,毎回活動の訪問箇所の選択や訪問戸数の調整で,質の維持は当然可能なものだったからだ。

このような,週末ボランティアの活動をめぐる大情況の変化が,一定の量的・規模的縮小をもたらしたとはいえるものの,活動の資質低下をもたらしたのではない。資質低下の原因は,あたかもガン細胞の増殖のごとく,内部的に胚胎していた。

週末ボランティアに限らず,およそヴォランティア活動は,自発的意志による参加を前提とするものであるとともに,その意志や目的をア=プリオリに性善説的に解釈することが多い。そうであるが故に,社会実践の活動のあり方としては,到底あるまじきもの,相容れないものによる侵蝕にたいする免疫をもたないことが不可避的に生じる。

週末ボランティアの場合は,一部参加者による享楽的趣味への利用がそれであった。ヴォランティア活動と相容れないものであっても,活動とのけじめなり区別がハッキリしているうちはまだしも,その境界線を蹂躙し,こじつけて,具体的には,いわゆる「おたく」が多く集まるマンガの同人誌即売会において,週末ボランティアの活動をネタにしたマンガを頒布し,被災者・被災地を自らの享楽の具とするとともに,笑いのネタにするという,度し難い事態が相次いで発生した。

こうした行為自体が,社会実践としてのヴォランティア活動にふさわしくないものであり,被災者の人格を無視し,尊厳を蹂躙するものであることは,良識ある者であれば,何ら理解に苦しむことはないはずだ。マンガのレヴェルにあわせて,視覚的次元に寄せて付け加えるなら,その「作品」の粗暴な筆致は,被災者の心をかきむしり切り裂く刃のあとを想起させるものであった。

このことは問題の一面にすぎない。問題はこれにとどまらず,自らと異なる他者の存在を認識外におき,かかるものとの関わりを否定する「おたく」的な(もちろん「おたく」以外にもかかる者はいるが)意識形態は,社会実践にふさわしくなく相容れないものであるにもかかわらず,あろうことにか,かかる享楽追求の場と手段に,週末ボランティアを利用したのである。

かかることがまかり通ることによって,活動の場が「おたく」特有の異様な雰囲気に包まれるようになり,かかる趣味を共有しない「一般人」(「おたく」は自ら以外の人々をこのように呼ぶ)が離れるようになってしまった。これは「おたく」的意識形態と行動様態がもたらす排他性を示すものであるのみならず,自らと異なる他者への加害意識の欠如をもたらすものであることを指摘しなければならない。

その結果,心ある・意欲ある参加者を失い,穴埋めにヴォランティア活動に不適切な者を勧誘するようになり,かかるところから,ヴォランティア活動自体,とりわけお話し伺いにたいする本来的姿勢をもたないままで,その能力向上にも意欲を持たないで参加する者が増えることとなった。被災者・住民からの信用・信頼は低下し,心を開いて話してもらえなくなり,お話し伺いの質・量ともの低下をきたすこととなった。

しかのみならず,通常の社会通念にふさわしくない行動を活動の場で平然ととるといったことが特定の人物によって率先して行われてきており,かかる問題の指摘・注意・警告等にたいして,件の人物は,マトモに耳を貸すことなく,いいわけこじつけスリ替えをもって騒音をたて,自己正当化をはかるばかりであった。まさに「悪貨が良貨を駆逐する」というほかない。

こうした訪問活動の質の低下とあわせて,いやそれ以上に,訪問活動の成果をもとにした情報発信・問題提起も質・量ともに低下し,事実上の停止状態に追い込まれるにいたった。こうした面では,一部メンバーによる週ボラ外での活動,他者からの発掘によることも増えてきた。他団体・機関,マスコミとの関係も大きく変わり,逆転といってもいいような情況も生み出されてしまった。基本であるお話し伺いが崩壊しつつある中では,それ以上の見識や資質・能力を必要とするものについては取り組み自体が不可能になるのも必然だ。それ以前に問題の所在の把握といった自己点検能力すら怪しいといわねばならない。

資質低下の問題点とその原因

阪神淡路大震災から12年余りを経て,場所的情況においては,問題の所在を把握するにしても,問題の潜在化という現実が,新たな困難をもたらしている。ヨリ高度な技量を要するにもかかわらず,逆に活動の質がこれに追いつけていない。

週末ボランティアの活動の質の低下を規定する最大の原因は,参加者の話を聞く姿勢の欠如と能力の低下にあることは間違いない。小中高校の授業中はもとより,有名大学においてすら講義中の学生の私語が問題になるのみならず,小学校1年での学級崩壊が普通になることは,近年では特殊なケースではなく,一般的大情況のうちであることからすれば,その影響から自由であることは難しい。まして自らと異なる他者との関係構築を否定する意識・行動をもってするなら,なおさらのことだ。

かかる時代情況にあっては,従来と同様に個々人の聞く能力・言語コミュニケーション能力,社会性などに依拠して活動を継続することは厳しいといわねばならず,とりわけティーンエイジャーなど若年層であればあるほど,ヨリ深刻な問題だ。

実際最近の参加者の中には,訪問先住民のみならず他の参加者の話も充分に聞けないなど,マトモな言語コミュニケーションがとれない者すら散見される始末だ。これでは,通常のお話し伺いの質・量の低下は言うまでもなく,参加者間の経験交流と情報共有の場である終了ミーティングまでもが崩壊するに至った。

正常化への取り組み

かかる否定的情況をすべての参加者がいつまでも放置するはずがない。

2007年2月,終了ミーティングの崩壊を受けて代わりに設定された「交流タイム」の場において,かかる否定的情況をつくりだした元兇とも言うべき参加者であり「副代表」を僭称する人物の所行に関して,このために参加を厭う者がいるとの理由で,件の人物が参加しない訪問活動日を設定することが提案され,週末ボランティアの訪問活動日である毎月第2・第4土曜日のうち,後者について,参加を禁止することとなった。

所期の効果は早くから顕著に現れた。件の人物が参加しない訪問活動日の参加者の態度,活動の質は向上し,「終了ミーティング」の復活も実現した。これが回を重ねるにしたがって,訪問先となる復興住宅の住民の反応もよくなり,信頼関係の構築においても手応えを感じることができるようになった。

この措置については,かかる直接的理由以上に,件の人物の指導部責任を問うべきものであるにもかかわらず,これについての措置がとられていない点で,不十分さをもったものであることは否定できない。そこでかかる点を明確にするべく,件の人物にたいして「副代表辞任勧告」を行った。また,第2週と第4週の活動日の間に同じ週末ボランティアでありながら異なったものになってしまうことも懸念された。この点については,件の人物の参加が許可された日であっても,他の参加者や訪問先住民に不快感のみならず危害を与えるような異臭や粗暴な言動を及ぼさないよう,隔離することで,一定の成果が得られた。

週末ボランティアの正常化は,かかる否定的情況に馴れて,失われた正常な感覚を取り戻し,行動に移す中から現実化する。まさに正常化−清浄化である。

(2007.5.1)

副代表辞任および活動参加全面自粛勧告

7月15日に予定された2007年週末ボランティア総会において,活動の質の低下と信用失墜をもたらした件の人物にたいし,活動参加禁止が議題にのぼるのに先立ち,改めて副代表辞任および活動参加全面自粛勧告をおこなった。

2007年週末ボランティア総会

2007年週末ボランティア総会は,神戸・週末ボランティアの正常化−清浄化の中でとりわけ重要な過程だ。これに向けてあらかじめ2007年週末ボランティア総会提案を発表し,質疑と議論を募ることで,総会の充実と万全を期した。

例年なら6月下旬に行われることが多い総会が半月あまりも遅らされ,かかる日程になったのも,ひとつには件の人物の抵抗によるものであり,しかも件の人物はある同人誌即売会を口実に利用するという始末で,実に人をバカにした話だ。

この総会の議事内容の概略は新世紀の「週末ボランティア」行事・イベント篇でも述べたが,件の人物は,自らの活動参加禁止のみならず自らが執着してきた「副代表」自体が廃止されようとしていることに抵抗すべく,この1年間の活動の総括に関する討論の段階から,自らが惹起したところの活動の質の低下と信用失墜にたいする,いいわけ・こじつけ・すり替えをもって,時間を消耗させ,活動の向上・前進のための議論の時間を奪うことに終始し,その中にあって寄せられた最後的忠告にたいしても聞く耳を持たずじまいだった。

件の人物に関する議論にあたっては,東條健司・週末ボランティア代表自身から,この間2ちゃんねる週末ボランティア掲示板などにおいて,活動や参加者を中傷する書き込みが相次いだことについて,件の人物が関与したものとの追及がなされるなどの一幕もあったが,件の人物の破廉恥な行為は,これにとどまるものでないことを忘れてはならない。

その結果,絶対多数を大きく上回る圧倒的支持のもと,件の人物にたいして2年間,週末ボランティアの一切の活動への参加を全面的に禁止することが決定された。

このように今回の総会は,週末ボランティアの活動の質の低下と信用失墜をもたらしてきた最大の原因を取り除いた点で,積年の問題に真正面から向き合い,解決に向かって着実な一歩を踏み出したといえるものであった。あわせて,かかる問題を生じさせてきた週末ボランティアの体質を改善させるべく,解体的再生をはかる上でも前進が見られたといえるものであった。

だがこれだけで解決されるものではない。すべての参加者が活動に臨む姿勢が問われていることを忘れてはならない。とりわけ人間の尊厳を見いだすことを基本にすえ,これと相容れないものについて,毅然とした態度で臨むことが求められるといわねばならない。

(2007.7.20)

2007年後半期のたたかい

7月15日の2007年週末ボランティア総会を経て,積年の弊の最大の原因を取り除き,解体的再生への第1歩を踏み出した新生週末ボランティアの2007年後半期における正常化−清浄化は,2007年初期からの再生に向けた取り組みの中で心身の疲労が蓄積していたのであろうか,東條健司代表が体調を崩すという一幕もあったが,かかる試練をも乗り越え,真摯な姿勢で臨むふるくからの参加者により,少数精鋭の観がある中で進められた。毎回の訪問活動においては,参加者数が限られる中でも従来以上の訪問戸数をこなすことが可能になったのみならず,それ以上にひとつひとつの訪問−お話し伺いの内容も充実したものとなった。

2007年を代表する言葉の中からいくつかを選んで,このかんの週末ボランティア正常化闘争の総括と展望をしてみたい。

品格

2006年から2007年にわたって何かにつけて語られることが多かった言葉のひとつが「品格」だ。かかるものの欠如にたいする否定感が社会各層に広がったことによろう。週末ボランティアの訪問活動にたいするあからさまな不信感・拒絶反応から来る訪問拒否もほぼ皆無なまでに激減し,お話し伺いも質・量ともに充実したものになり,信頼関係の恢復・再構築という至上課題については,着実な成果を勝ち取りつつあるといっていいだろう。こうしたなかで活動に携わる主体である一人一人が,社会実践としてのヴォランティアにふさわしい品格をも身につけ,あるいは恢復しつつあると言っていいだろう。

食品をはじめ年金記録や政治資金における相次ぐ偽装・虚偽の暴露により,2007年の世相を表す漢字は「」となった。森清範・清水寺貫主をして,来2008年への展望を語ることなく「こういう字が選ばれるのは、誠に恥ずかしく悲憤に堪えない」と言わしめたほどであったが,とりわけ昨2006年の同時期の神戸・週末ボランティアは,もはやヴォランティアとはいえない,ヴォランティアのニセモノにまで成り下がっていたと言っても過言ではない。週末ボランティアの正常化−清浄化は,かかるところからの再生であることをハッキリと自覚した上での取り組みを行うことで,初めて現実性と意義を持つものであったといえよう。

スクラップ アンド スクラップ

かかる否定的要素については,これまた2007年の流行語とはされなかったものの人口に膾炙した,外山恒一・もと東京都知事候補の言になる「スクラップ アンド スクラップ」をもって臨むことが大切であることも痛切に思い知らされた。新たなものをちゃんと築きあげるためには,旧弊を徹底的に取り除き,しっかり掃き清めなければならない。新たな建築をするのに,それまであった建物などを完全に解体して取り除くことが必要であることと同じく,当然といえば当然のことだが,実践することは容易ではない。だがそれを行う中で初めて次の展望が見いだされてくるのだ。

真の「スクラップ アンド ビルド」のためには,その前提として「スクラップ アンド スクラップ」が必要であることを痛感させられた。

訪問活動の質の恢復があればこそ,平素の活動の中から,それに立脚した問題点の抽出とそれにたいする取り組みが可能になる。またその対象は,これまで耳目を向けることを充分にしてこなかったものでもある。それについての懺悔と悔恨の念を忘れることなく,自他にたいする誠実さに裏付けられた自己批判を媒介に,真摯な問題提起を行うことを通じて,新たな活動に邁進する展望が開拓できる。

2008年は平素の活動を通じてそれを現実化するのはもちろん,さまざまな機会を通じて,方法の提示と論理化を積極的に行い,フィードバックと経験の共有・拡大のための仕組みを構築することもまたあわせて課題とし,このかん進めてきた神戸・週末ボランティアの正常化−清浄化が,決して後戻りすることなく,着実な前進を続けるための,盤石の基礎を築くものでなければならない。

(2007.12.28)

「「週末ボランティア」正常化闘争の軌跡」から改題。
2008年については「神戸・週末ボランティア再生プロジェクト2008」参照。

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