週末ボランティア仮設住宅訪問
100回に際して

1997.5

 私が週末ボランティアに関わったのは,私の?回目の誕生日でもある1995年10月22日に遡る。メンバーと仮設住民の方十余名で上京した際,国に「個人補償」を求める署名活動に,友人から協力を求められたことによる。勿論震災ヴォランティアのことは一応識っていたつもりだが,参加しようとは思わなかった。正直なところ,寧ろその現状に対する否定感・危機感すら抱いたのである。それは,大勢のヴォランティアを称する者が被災地に在りながら,自らの体験や見聞をもとに,被災者の生活よりも支配者然とした面子とそれを満たす治安の維持を第一にする国・行政のありように否定感をもったとか,或いは何がしらの問題意識をもって臨んだとか,若しくはそれを活動を通じて抱いたという話も殆ど聞かない−−関東大震災の時救援活動に入った当時の学生の意識情況とは大きく違っている−−上,行政の補完物として上から組織化されつつあったからであった。それは基本的には,今日も変わらない。

 95年の最後,週末ボランティアに行くことにした。というのは,この間に送られてきた資料に,仮設住宅の自治会を組織化し,身近なことから公的支援(当時は「個人補償」と呼んだ)まで,市・県さらには国に対して,様々な要求や声を上げるお手伝いをする−−部外者が入ってその政治目的の為に組織を作って動かすのではなく,仮設住民自らが主人公となる形で,彼らの中に入っていることが判る−−ということに意義を見いだしたからであった。また,震災後10ヶ月以上も経つ中で,新たな参加者を暖かく迎え入れてくれたことも大きい。かくして,それまで足を踏み入れたことのない西区の,仮設住宅の立ち並ぶ地を訪れた。大学のグラウンドのフェンスに囲まれたその仮設住宅は,あたかも強制収容所の如き異様な姿に映った。


レクチャー風景(97.1.11 神戸市営地下鉄学園南駅前)

 週末ボランティアの最重要任務は「聞く」ことである。仮設住宅を訪問して対話をする−−単なるデータ集めではなく,被災体験にとどまらず,人生について,家庭・家族・地域社会などについて,人生の先輩から学ぶものだと判った−−ことが中心だが,それ以外にも色々な形で声を聞くチャンスはある。ある時ふれあい喫茶に来ている住民の声に耳を傾けていると,仮設生活が長期化する中で,もとの所へ帰ることの難しさから諦めの境地になり,厳寒酷暑の西神地区に住み続けることを,自らに納得させようとしているようなムードを感じた。予備校講師をしていた当時の私は,ちょうど多浪の受験生−−合格した後の自己のイメージが希薄になり,これへ向って努力を続けることが出来なくなってゆく−−を見ているような気がした。もはや彼らは再建された生活に対するヴィジョンがもてなくなりつつあるのか−放っておかれ,忘れさられたということはこうしたことなのか−と思ったのである。


被災地風景(96.3.23 兵庫区下沢通)
後方に2階建アパートの1階が押し潰されたまま,解体されずに放置されていた。

 次に考えさせられたのは,地域コミュニティーの重要性である。震災前には,老若男女多様な人々の間で,コミュニケーションを大切にしながら生活してきた仮設住民が多いのは言うまでもない。それが一瞬にして失われ,話し相手がいなくなったというだけのダメージでは済まない。こうした大人に対して「心のケア」が必要なだけでなく,その中で育つことの子どもにとっての意味に思いを致すならば,多様な人々の間で育つことで人格形成され,社会観を獲得する貴重な−−震災がなければ当然に享受されるべき−−機会を奪われ,偏った年代構成,場合によっては均質性の中で,個立的になることで,異なるものを斥ける感性−今の「いじめ」の主たる原因の一つ−が出来ることに気付くのである。かくして物質のみならず精神の貧困をも生み出していると思う。


盆踊り支援(96.8.16 西神工業団地仮設)
住民に交じって盆踊りを楽しみつつ,コミュニケーションを促進。

 この問題に行き当たったことで,週末ボランティアで感じたこと,学んだことを,自らが住む地域の問題に−−震災という非日常性のもとだけではない形で−−還元する道が開かれた。残念ながら,私の場合は遅きに失した感を免れない。私が住む東京都豊島区雑司ヶ谷がどんな所かすぐに思い浮かぶ人は殆どいないだろう。しかし近年私の家の近くが,ドラマの撮影に何度か使われたり,曾て70〜80年代にはLPジャケットの写真に使われたりしているので,風景を目にしている人は多いことと思う。関東大震災と東京大空襲を免れた,この古くからの街も,数年の後には一変される情況になった。というのは,以前から何度かありながらも阻まれてきたところの道路建設による立退き強要が,震災の年“防災”を口実にしてまかり通ってしまったからである。すなわち,未だ震災が忘れられていない時,これを嚇しの道具に利用して,地域コミュニティーの分断・解体を強行したのが東京都青島都政なのだ。災害に対する恐怖心を利用した行政の暴虐ぶりや治安強化策動の類が,被災地外でも数多くあることを,是非識っておいて戴きたい。


近所の風景(97.5.25 東京都豊島区。都電荒川線鬼子母神前付近)
沿線名物のこの焼鳥屋も,数年後には道路になる運命に。
なお,ここから線路沿いに約300m南に行った所は,LPジャケット写真でみかけます。

 突然ながら,現代中国の文学や政治の用語に「翻身」というのがある。現状に問題意識を抱かなかったり,何も識らなかった自分が,解放されて真理に目覚め,生まれかわるという意味で使われるものだ。現在,様々な活動や運動がある中で,これらに主体的に関わる自己が,その過程で変わっていく−−それまでとは違った存在となる−−ことを問いかける,或いはこうしたことを尊重する雰囲気を創りだすことは,参加者一人一人に心の糧をもたらすことになろう。ただ身体を動かしてそれで満足するというような次元から脱却し,さらなるものを求めようではないか。

 こうした中で,これからあるべきヴォランティア像として行きついたのが,現状変革的ヴォランティア*−−受け手のニーズに応える過程で,その原因・根源となる情況を分析し,これを変革する志向をもつもの,そしてその中で参加者が自己変革を遂げていくもの−−なのである。

   *:拙稿「ヴォランティア考−震災を通して見た過去・現在・未来−」参照。

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