神戸・週末ボランティア再生プロジェクト
2010・2011・2012

原則の確立とあるべき姿の追求 > スキル以前の姿勢・態度からあるべき方法へ地元に深く根ざして〜We love KOBE「心のケア」のやり直しへ参加者・支援先の安全確保と主体性の尊重セーファー・スペースニーズとのマッチング
借り上げ復興住宅問題への介入と利用を弾劾役立ちと学びの大道へ

2007年より始めた、神戸・週末ボランティアにおける、正常化−清浄化、さらには再生への取り組みは、3年目に入って、当初の急激な向上・成長ぶりを続けることはできなかったが、時には厳しい情況もあったものの、それまでに築いた地平を維持する、一定の成果を勝ち取ってきた。

かかる中で、ボランティア活動を行うにふさわしい、構成員と体制を構築し確立するという目標からすれば、一進一退の中で、新たな情況への対応を図っていった。

「継続は力なり」といわれるが、その「力」には功罪両面があることを忘れてはならない。それを踏まえずして継続だけを目標にしたり目的化してはならない。本当にちゃんとしたことをしたければ、決定的・根本的な間違いや過ちは、直ちに止めて、やり直すべきだ。

原則の確立とあるべき姿の追求

そもそも神戸・週末ボランティアでは、仮設住宅・復興住宅への訪問活動にあたって、予め訪問予定のお宅には「予告チラシ」を投函し、そこでは「宗教や政党など全く関係の無い民間のボランティア」である旨をうたっている。ということは、それにふさわしい参加者、体制で臨むことが前提なのだが、その現実化が、悲願とも言うべき目標となった状態になってきたことを、率直に認めないわけにはいかない。

それにふさわしくないままの情況であれば、当然にも、何がしかの目的のために利用しようとする者がやってきて、ほしいままにしてしまう。その目的たるや、政治的・党派的利害や利権といった胡散臭いものの場合もあれば、オタク趣味などの頽廃的享楽の場合もあるなど、非人間的を超えて、そのばかばかしさに呆れるものすらあった。

参加にあたって資格を問わないとか誰でもいいなどといって、こうした者をのさばらせておけば、せっかくボランティアにふさわしい姿勢で参加した方がいても、間違ったことを覚え身につけてしまう。まして心ある方ほど失望して離れていってしまう。

その一方で、おかしな勘違いや心得違いをしたまましがみつく者もいて、「悪貨が良貨を駆逐する」というような情況になってしまう。こうしたことを繰り返さず、脱却することが大切だ。

役立ちと学びは、ボランティアにあたって前提として求められるべき姿勢だ。単なるやり方やスキルのことではなく、かかる次元に矮小化してはならない。

そうした、利用する者を許すことなく、役立ちと学びの姿勢をもってするべく変革を勝ち取ることと、役立ちと学びの姿勢をもった方を、あるいはそうしたものを育もうとする方を、リクルートすることの、二正面の取り組みを展開した。

スキル以前の姿勢・態度からあるべき方法へ

利用するという関係が、グループ内で幅をきかせるようになってしまうと、ボランティアの支援活動の受け手にメリットはなくなる上、心を通わせることにもまた、ほど遠くなる。こうした構造的な問題は、作りかえ断ち切らねばならない課題のひとつだ。

利用の機会・手段という結合形態は、かかる部分同士間での利害の極大化追求を超えるものとはなり得ず、まして参加者の学びや、被災者・支援対象者へのメリットも本質的にはもたらさない。

前提として、言語コミュニケーションや自発性によるとしても、相手との関係において成立するということが、実感・理解できなくなり、一方的な思いこみや独善に陥ってしまう。また、フィードバックによる修正や学びを受け付けず、成長もなくなってしまう。

誤った方法でリクルートすれば、不適切な対象に、不適切なあり方で届いてしまう。人の話を聞かず、関心を持たず、自分の話を聞いてほしいだけの人、思いをぶつけたい人、利害や享楽を求めてくる人…、といった具合に。自らの享楽のために利用すべく巣くっている「インターネット班」を僭称する一部諸君がまさに、かかる不適切な関係の再生産をもたらしていた。

かかるものを断ち切り、変革を求めることが課題であったにもかかわらず、姿勢・態度といった基本的・原則的問題を抜きにして、スキルの問題に切り縮め、それによって、利用の機会・手段たらしめ続けようとした者がいた。

東條健司代表(当時=2012年7月承認撤回)は、自己変革を拒み、それへの要求をネグレクトするべく、「傾聴のコツ/震災状況の聞き取りについて」を、2010年12月に「改訂」したとうそぶいたが、それは、内容面に何らの進歩はなく、情況の変化に対応することもなく、小手先の誤脱字の修正すら不十分な代物であった。かかる部分は、それにすら到達することがなかったばかりか、それ以下たるに甘んじることで、しがみつこうとしたのであった。もちろんそのようなものの通りに、あるいはそのようなレヴェルにまで貶めて、訪問活動を行うことは断乎として許さなかった。一方、ボランティアにふさわしい姿勢で臨もうとされた方には、あまりにも低レヴェルで、時代遅れな、失礼なものであったことを、恥じ入るばかりだ。

さらに翌2011年、東日本大震災後の妄動と破綻を糊塗するように、突如として言い出したのが「重要語を聞き逃さない。その方の言葉で繰り返す。」なるものであった。これは、姿勢・態度を抜きにして、小手先のスキルへと切り縮めた、居直りと誤魔化しの行き着く先であったが、これはまた、かかるものが、両刃の剣として作用するものであることを、端的に示すものであった。

事務的な要件であれば、それが容易にして確実に行えるとともに、それがマイナスに作用することは少ない(もっとも実際には「確認(復唱)させていただきます」と、相手に断ってからすることも多い)。だが、「傾聴」としてはどうだろうか?

これは話し手との関係において、全く異なった作用を及ぼす。対等な関係にあって、聞き手がそれにふさわしい態度で臨めば、話し手は安心感を覚えるだろう。確認・同意の姿勢を示すことで、コミュニケーションを効果的かつ円滑に進めることができる。

さもなくば、話し手への威圧、跳ね返しになってしまう。実際そうした場面に少なからず遭遇した。蛇足ながら付け加えると、迷惑電話の撃退法のひとつに、録音した内容を話し手に聞かせるというのがある。脅迫・詐欺に当たる内容であればそれが証拠になることを示すのだが、それ以上に、もしくはそれ以前に、羞恥心や良心の呵責を呼び覚ますことで、こうした行為への威圧になるわけだ。即ち「お前の話は聞きたくない!ヤメロ!」という強烈なメッセージになりうるものだ。

地元に深く根ざして〜We love KOBE

このウェブサイトは、神戸・週末ボランティアにおける「闘いとしての資料保存」から始まった。「不都合な真実」にも目をむけ、物理的条件のほか、利害や好悪によって無視・抹殺された資料をも発掘・復元して公開して、コンテンツの拡充を図っていった。

こうした再生プロジェクトを展開する中で、阪神淡路大震災の被災地・神戸の地を愛し、この地に生きる人々とともに歩むべく、地元に深く根ざしたものたることを目指し、サブタイトルに「We love KOBE」を加え、「We love KOBE Weekend Volunteer」とすることで、それをアピールし、広く、力強く、浸透していった。

神戸の地と、そこにある人々を、ほんとうに心から大切に思い、愛する心をもって集うという、まさに前提としてあるべきものが、育まれ、深められていった。

これは程なく、これをご覧になって参加される方々の、意識・資質の向上、被災者−市民の方々との信頼関係の構築の上で、顕著な成果を上げることとなった。

「心のケア」のやり直しへ

阪神淡路大震災を契機にさかんに言われるようになったもののひとつに「心のケア」がある。

東日本大震災後間もない時期、無理矢理それについての言質を取ろうとして、その場を凍り付かせたり、ややもすればPTSDをぶり返させたり、発症させかねない、危険な情況も産み出されるという、全くもってあるまじき事態が、一部の心ない参加者によって、復興住宅訪問活動において強行されてしまった。かかるものが、「心のケア」とは相容れない、相反するものであることは明らかであった。

こうしたものを直ちに止めさせ、正していかねばならないのは当然のことだが、それだけでは、現時点的な「心のケア」の水準にはほど遠く、方向性においても、かつてとは異なったものが求められていることを、取り組みの中で、痛感させられた。

阪神淡路大震災直後の「心のケア」では、今にして思えば粗暴で稚拙なものがまかり通っていた。被災者の話しを聞くだけで「心のケア」になるといった類の、まさに出発点にあるだけのプリミティヴなものが、少なからず見受けられたのは仕方ないとしても、当時主流であったのは、悲惨な体験をした者に、それをいち早く語らせることで「吐き出させる」というものであった。

かかるものに共通してみられる根底的欠陥・錯誤は、待つ姿勢の欠如であったといえる。これは「心のケア」以前に、「傾聴」にあっても注意しなければならない。これまた、自分の都合を相手に押しつけるだけのもので、改めねばならないもののひとつでもあった。

その後、さまざまな災害や事件が相次ぐ中で、当然にも「心のケア」に求められる方法や内実も変わっていった。時代や地域性、世代など、その対象や取り巻く情況に応じてのものであるが、その基本は、悲惨な体験をした人に寄り添い、心を開き、自ら語るのを待つ姿勢を身につけるものであり、既に大勢は、かかる手法へと転換していた。

もはや「心のケア」に関しては、根本的にやり直すしかなかった。

(拙稿池田小事件の教訓、やっと(1):行き過ぎた管理と劣悪な見守りがもたらす危険池田小事件の教訓、やっと(2):粗暴な「心のケア」から自分で判断できる安全教育へ 参照)

参加者・支援先の安全確保と主体性の尊重

ボランティア活動の参加者にしても、支援活動の受け手にしても、「善意」を前提にしなければならないものではあるが、そうした性善説的なきれいごとだけでは、現実的な実践はできない。難儀している人への支援活動には、リスク・マネジメント(危機管理)もまた要求される。

それとあわせて、難儀している人々の中に尊厳を見いだし、その主体性を尊重し、それを発揮してもらう「お手伝い」をさせていただくという、関係を取り結ぶことが必要だ。

セーファー・スペース

最近はボランティア活動でも「セーファー・スペース」を整備するところが増えている。もともとは、「駆け込み寺」・「シェルター」のごとき、身の安全や権利が保障される場を設定したり、避難を受け入れたりする活動において言われてきたものであろう。だが、かかる「ヨリ安全な場所」自体が目的とするもの以外のところが増えている。

さまざまな社会運動やデモなどの行動において、女性や高齢者、身体が病弱であったり、不自由であったりする人が参加する場合、対立者からの攻撃や、権力からの弾圧を受けやすくなることから、かかる部分を守るべく設定するものだ。この場合、安全性はあくまで相対的なものではあるが。

最近の災害、とりわけ東日本大震災においては、これほどの未曾有の大災害でありながら、過去の教訓をも活かしつつ、高齢者、障碍者などといったいわゆる災害弱者にとどまらず、マイノリティ、女性らに配慮した避難環境のあり方が、進められてきた。阪神淡路大震災など、かつてであれば、顧みられなかったり、採り上げられなかったり、泣き寝入りしていたようなケースであったものが、こうした人たちの声を反映させ、あるべき形ででの生存を保障していく環境がつくられつつあることを示している。それだけに、かかる問題にたいする眼も厳しくなっている。

被災者間、支援者間、さらには被災者と支援者が加害者・被害者となることは、まことに不幸であり、その予防と対策を、いささかもおろそかにしてはならない。

ボランティア参加希望者が、能力・適性などに著しく問題があるのであれば、最初から参加をお断りするのが筋だ。だがそれ以上に、ボランティア活動の参加者が、活動を進めるにあたって、不適切な言動に及ばぬよう、理性の働きを喚起せしめるとともに、かかる言動が行われる、また受ける、情況を生み出さないようにすることも必要だ。

実際、かかる事態を未然に防止するために、能力や適性とはいっさい関係なく、女性のボランティア参加を断ったところも少なくないが、それでは解決にはならず、支援ニーズにこたえることもできない。

被災者支援だけでなく、ホームレス支援などのボランティア活動において、支援者・支援先から、とくに女性参加者がハラスメントやバイオレンスを受けないよう、また受けた場合の相談や対策を担うべく「セーファー・スペース」を設置するところが増えている。

残念ながら、神戸・週末ボランティアでは、この点で全く後れを取っていた。女性参加者が、一人の例外なく、ある男性参加者が来ると、再び来なくなるという情況が、発生していた。この者は、折りから介入と利用のために来ていたことから、それをもあわせて追及し、糾弾した。

他の活動に参加することを通じて、「セーファー・スペース」設定を取り入れただけではなく、今2013年の新たな活動主体のスタートにあたっては、訪問先の選定などの準備段階から、主宰者が親しく、万全の予防と根本的な対策を図っている。

ニーズとのマッチング

ニーズとのマッチングを図ることも、支援活動においては基本中の基本であるが、従来の神戸・週末ボランティアが一貫して放棄・無視してきたことのひとつである。

物質的な支援の活動では、リアルタイムにその変化に即応した対応を取ることが求められ、可視化されやすいがゆえに、その対応も比較的容易だが、ヒューマン・リソースにおいても、求められるものであることを、忘れてはならない。

ニーズとのマッチングやそのためのマネジメントに関する手法についても、他のさまざまな活動から学んで取り入れ、これらについても、新たな活動主体のスタートにあたって、主宰者が親しく、万全を期して臨んでいる。

借り上げ復興住宅問題への介入と利用を弾劾

役立ちと学びという、ボランティアとしてのあるべき姿勢から著しく乖離し、あまっさえ対立するところの、利用するという関係性において結びつこうとする部分が、東日本大震災をダシにした「東北・週末ボランティア」の妄動の破綻を居直り、総括と自己批判を拒み、追及と糾弾から逃げ込むように、再びターゲットにしたのが借り上げ復興住宅問題であった。

そもそもこれは、UR都市機構や民間地権者から、被災自治体が借り上げた住戸を被災者に供したものだが、最長20年の有期契約であることから、今後数年で順次期限がやってきてしまうのを控え、自治体側が住民に移転を迫る動きを強めてきたことから、住民の間に不安が広がってきていた。

神戸市にあっては、借り上げ復興住宅の戸数が多いことから、その「解消」を悲願としてきたのに加えて、高度成長期に大量に建設され老朽化した市営住宅の建て替え・耐震化を迫られていたほか、神戸市住宅供給公社の破綻といった問題を抱えていたことから、被災者−住民に、とりわけ冷酷かつ厳しい姿勢で臨んでいた。

近年の訪問活動の中で、神戸市営住宅・兵庫県営住宅のほか、URから神戸市が借り上げた借り上げ復興住宅にも訪問を行い、そうした住民の声を聴いてきたが、それをもとにしての取り組みには、いたらぬ点があっただけでなく、重大な問題が含まれていた。

これまでもさまざまな課題についてなされてきたところの、寄せられた切実な声を、己の思いをぶつける手段に利用するとか、請願運動へ切り縮めるといった類のことが、この問題についてもみられ、しかも早いうちから、そうした偏向がまかり通っていた。

やがて、神戸市以外の自治体による、この問題への対応についての「温度差」が鮮明になっていったのとあわせて、神戸市内の借り上げ復興住宅の住民が、自らの主体性において取り組みを展開していった。

こうして、乗り越えられた状態になったのみならず、かかる切り縮め的偏向によって、住民間の分断と相克をもたらし、市民としての主体性を発揮する上で足を引っ張りかねない情況をもたらしてしまった。

そうした中、神戸市当局は、恫喝的なアンケート調査や、市営住宅への散発的募集といった住民分断策を進めてきたが、借り上げ復興住宅に引き続き居住し続けることを切実に願う住民を、新たな請願運動へ取り込む動きが出てきた。

この取り組みは、長く被災者運動を中心的に担ってきた団体とその代表者の名が真っ先にみられたものの、その他の賛同者・団体の中には「?」と思わせるものが少なからずあった。そうした中のひとつに「週末ボランティア」の名前を利用させてしまうという、政治的介入を許してしまった。

この介入者の蠢動は、これまでもたびたび弾劾し、ことあるごとに粉砕してきたが、今回は、その介入が、たんに神戸・週末ボランティアの利用を目的としたものではなく、住民の運動から主体性を没却せしめ、分断をいっそう進め、最後的に翼賛運動へと変質せしめ、実質的に解体せしめることを、その本質としたものであったが、この間の正常化−清浄化、さらには再生への取り組みの中で、この策動に対して、弾劾はしたものの、反撃が後手に回ってしまったが、その必要はほとんどなかった。

こうした介入者と、それに野合し利用せんとする者は、これまで、グループに寄生し、善意の参加者や活動をダシにするとともに、その本性を隠蔽する仮面に利用してきたが、宿主(寄生先)から切り離され、かかる部分だけになることで、その正体と胡散臭さを自己暴露することとなった。

こうした介入者と、それに付和雷同し何がしかの目的に利用せんとする者は、2013年1月に入って、既に新たな活動主体、神戸・週末ボランティア 新生のもとでの活動が始まっている中、なおも一部では「週末ボランティア代表」を僭称する「東條さん」らと騙って「復興住宅の訪問活動を振り返り、今後のあり方を考える」などとうそぶき「18年目の週末ボランティアの会」なるものをでっち上げ、あたかも自身が借り上げ復興住宅問題について取り組んできたかのごとく、宣伝ならぬ宣伝を行おうとしたが、その場に呼び寄せた報道陣のうち、騙し得たのは、わずかに一者だけであった。

震災報道にあわせて他の支局から来た記者が、かかる事情や背景を知らぬまま、鵜呑みにして記事にしてしまったようだが、このことがかえって、胡散臭さをストレートに暴露することになった。

言うまでもなく、そこでうそぶかれたであろうものは、かかる者の利害や享楽に利用すべく、あるいは思いならぬ思いをぶつけるべく、歪曲されたことは、想像に難くないが、実際の訪問活動の中で寄せられた、ほんとうの被災者−復興住宅住民のナマの声は、当サイトの訪問活動レポート訪問活動概略に収めて公開しているので、ご覧戴きたい。

役立ちと学びの大道へ

このように、介入利用という、あるまじき態度・姿勢に対しては、仮借なき糾弾をもってし、変革を勝ち取る闘いをもって臨まねばならないものであるが、それにリソースを割き続けるのは非生産的であり消耗である。今までに勝ち取られた地平を踏まえるとともに、つかみ取った校訓を活かす機会を、新たに求めることにした。

阪神淡路大震災から18年が経とうとする中、ボランティアとしてできることも限られており、その有終の美をなすべく最善の道を模索することが、いよいよもって課題として重要性を増してきた。

そうした中で、企業再生で利用される新旧分離の手法を応用し、かかる問題を抱えた部分を神戸・週末ボランティア(旧)として断ち切り、いっさいの旧弊・宿痾から自由になった中で、新たな活動主体を創り出すこととした。

これまでを顧みて、よいところは受け継ぎ、活かしていくとともに、過ちを繰り返さず断ち切り、「宗教や政党など全く関係の無い民間のボランティア」の原則を、いささかもゆるがせにすることなく、堅持することを、固く誓った。

こうして、2013年1月、神戸・週末ボランティア 新生スタートした。

(2013.6.20)

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