新世紀の「週末ボランティア」
訪問活動篇・2

復興住宅訪問を続ける「神戸・週末ボランティア」の活動の中で,見たものなどを集めてみました。
2006年以前については新世紀の「週末ボランティア」訪問活動篇を,
2008年後半以降は新世紀の「週末ボランティア」訪問活動篇・3をそれぞれご覧ください。

海辺の工場街のあとに〜HAT神戸・灘の浜住宅 >
再生への取り組みの中で海の向こうからつながりを求めて新生週末ボランティアの歩み
週末ボランティア訪問活動450回訪問活動から生まれた新聞記事ついに「朝日」がきた
「お話し伺い」のなかから〜HAT神戸・灘の浜住宅訪問のまとめ

海辺の工場街のあとに HAT神戸・灘の浜住宅


HAT神戸・灘の浜住宅 (2006.7.22)

約1年間にわたって筒井住宅を訪問したあと,再びHAT神戸を訪問先に選んだ。だが今度は脇の浜住宅より東にある灘の浜住宅だ。


JR灘駅(左),工場への引き込み線(右)(2006.7.22)

HAT神戸・灘の浜住宅は,中央区に接する灘区にあり,最寄り駅は阪神岩屋駅とJR灘駅。灘駅から海側に10分ほど歩くと到着する。途中見られる引き込み線の廃線跡が,かつてここが工場街であったことを思い起こさせる。ちなみにHATはhappy active townの意だという。


高層棟(左),低層棟(右)(2006.7.22)

HAT神戸・灘の浜住宅には,遠方からも目につく高層棟以外にも低層棟がある。この日訪問したのは低層棟の3番館だ。市営住宅のほか公団住宅もあり,その中には市営借り上げのものも。優先入居した被災者には,家賃の段階的急上昇が生活への追い打ちとしてしのびよっている。


訪問先のお宅で(左),留守シートを記入(右)(2006.7.22)

この日も有意義な訪問活動ができた。震災から10年以上が過ぎても,被災者からその記憶が消えることはない。時にその後の情況と相まって新たな問題に直面することとなり,かかるものの蓄積の上に今日があることを改めて想起させるものだ。また,訪問に先立って予告チラシを入れてあるとはいえ,留守のお宅は多い。留守宅には留守シートを入れて,訪問にやってきたことを知らせる。


訪問活動後の記念撮影 (2006.7.22)

まだ梅雨明けとされていなかったが,夏の陽射しが降り注ぐ中での訪問活動となった。夕方になって涼しくなってきたところでこの日の訪問活動を終えた。 (2006.7.30)

再生への取り組みの中で


屋内に場所を移した訪問前レクチャー (2007.3.24)

昨2006年より,駅前などの集合場所から三宮駅近くの勤労会館に訪問前レクチャーの場所を移した。この日は,訪問に向かう心構えと現地での段取りを確認したのはもちろん,人生経験豊富な初参加者のお話に真剣に耳を傾けることから始めた。


「今週の資料」の準備 (左,2007.4.28),復活した終了ミーティング (右,2007.3.24)

やはり昨2006年より,訪問活動後の総括と経験交流および情報交換の場である終了ミーティングを行わず「交流会」なるものに代えていたが,2007年2月より,活動の質を向上させる取り組みを行い,終了ミーティングの復活を実現させた。参加者の姿勢に反映され,訪問先住民の方にも通じたのか,内容充実したお話し伺いの成果が多く寄せられるようになった。

海の向こうから

例年より早い開花をむかえた桜も満開は過ぎながらも好天に恵まれた2007年4月14日は,被災地に関心をもつ女性がフランスからやってきて,ともにお話し伺いにまわった。


HAT神戸灘の浜住宅5番館 (2007.4.14)

2007年に入ってからの訪問活動は,HAT神戸灘の浜住宅の中でも東の端にある5号棟が対象だ。被災者である住民の中には,地元灘区で長年生活し被災した方も多い。通路や窓からかつて暮らした地附近が見渡せることも少なくない。


訪問活動中&訪問活動後の記念撮影 (2007.4.14)

4月14日には,海の向こうからやってきた仲間や遠方から初めて参加した仲間のために,震災からの「どん底の生活」についてのお話を繰り返してくださった住民の方も。新たな仲間は「10年経ってやっと言えた」という言葉が深く印象に残ったとのこと。これはまた私たちの活動の今日的意義を確認できるものであるといえる。

またこの日,一緒に記念写真を撮らせてくださったお宅には,28日の訪問活動の際,できあがった写真をお届けし,新たなコミュニケーションを深めることができた。

ご協力ありがとうございました。 (2007.5.1)

フランス国立映画学校生、震災テーマに脚本執筆中」(神戸新聞 2007/05/06)
震災と生 被災者ら20人体験基に描いたシナリオ──映画学ぶ仏女性が完成
 (日本経済新聞 2007/06/22)

つながりを求めて


訪問対象の7番館と中庭の公園 (2007.6.23)

このところ訪問してもお話し伺いができないことが増えている。住民が未知の訪問者一般にたいして警戒感を強めていることが,訪問を謝絶する際のやりとりからうかがえる。もちろん訪問活動を行う側の姿勢や活動の質が厳しく問われていることも忘れてはならない。


訪問活動中の様子(左),訪問活動後の記念撮影 (右,2007.6.23)

従来はHAT神戸灘の浜住宅の西端近くを現地活動拠点とし,そこから訪問対象の棟に向かっていたが,訪問対象の棟から遠いことから,今回は訪問対象の棟に囲まれた中庭の公園の一角に拠点を設けた。四方八方から,しかも上からも下からもヴォランティアの姿が見える。それだけ緊張感がともなうが,一方でコミュニケーションの機会も増え,信頼関係構築の端緒もできる。中には公園で遊ぶ子どもとコミュニケーションをとるメンバーも。

このように,活動の質の向上に一定の成果をもたらしつつある情況だが,7月14日の訪問活動は,大型台風接近のため,中止とした。 (2007.7.20)

新生週末ボランティアの歩み

週末ボランティアは,2007年7月15日の総会で,積年の弊を排し,解体的再生を図って生まれかわった。これ以後の新生週末ボランティアは,少数精鋭の観があるが,被災者・被災地にたいする真摯な姿勢を徹底し,さらなる信頼を勝ち取るとともに,回をおって向けるまなざしがいっそう温かく優しいものになってゆくことを目指したい。


住民の方とともに (左,2007.8.11),(右,2007.9.22)

活動中は多くの方と出会う。出会った方一人一人に挨拶をするのはもちろんのこと,そのままお話し伺いになることもある。この日も酷暑の中草引きをされている方と,住宅中庭の一角でお話し伺いをしたあと,メンバーとともに記念撮影をし,後日お会いしたときに写真を差し上げ,さらにコミュニケーションを深めた。


8番館 (2007.9.22)

秋に入り,訪問対象の棟は7番館から西隣の8番館に移った。ここでも住宅の中庭を現地活動拠点とした。多くの住民の方の目に触れ,コミュニケーションのきっかけも多い。活動の質の向上の成果がそれだけダイレクトに広がることになる。


自治会長さんのお話しを伺う東條代表はじめ週ボラメンバー(左),記念撮影(右)(2007.10.13)

震災の時,埋まっている人を掘り出したり,食料を分け合ったりした近所の人達の絆の大切さを実感し,以来いろいろなお世話役をされ,今も自治会長やまちづくり協議会役員をつとめ,多忙な日々を送っている方と会う。こうしたお話しを一同で伺い,最後に一緒に記念撮影となった。 (2007.12.1)


訪問に向かう準備をするメンバー (2007.10.27),ふれあい喫茶「神大喫茶」を運営する神戸大学生と (右,2008.4.26)

訪問先の住民の方の「お話し伺い」をすることだけが活動ではない。訪問先か否かにかかわらず,多くの住民の方と対話を実現し,信頼関係を構築してゆくことは欠かせない。また,同じ場所で活動する他のヴォランティアなどとの交流も生まれる。そうした中から学ぶことも多い。


9番館 (2008.2.9, 5.11)

HAT神戸・灘の浜住宅への訪問活動は9番館で一応の区切りをつけることにした。この棟の低層階は,バリアフリー化されている点では他の棟と同じだが,デイケア施設,訪問介護ステーションが入っているところが特徴だ。中高層階では,他の棟と同様,比較的若い世代の住民が目立つが,ヴォランティアが必要ないわけではない。中には,既成のセイフティーネットから漏れ,あるいは充分なサポートがなされず,呻吟してきた人に出会うことも少なくない。また,ここでも震災から13年あまりを経て,ようやっと少しずつ私たちの前に心を開き始めるという人もいる。 (2008.7.7)

週末ボランティア訪問活動450回

「神戸・週末ボランティア」は,2007年11月10日の訪問活動をもって,仮設住宅・復興住宅を通算して450回目となった。今回は特別な行事せず,通常通りの訪問活動を行った。

今回が450回の節目ということで,何か特別なことをやるのかと期待してやってきたと思しき新聞記者もいたが,週末ボランティアの正常化−清浄化が着実に成果を上げつつある現状をありのままに見せる以外に特別なものを用意しなかった。それを理解してなのか,あるいは活動の継続自体に着目してであろうか,ともあれ1紙の神戸版で記事になった。


450回目の訪問活動に参加したメンバーと同行した新聞記者 (2007.11.10)

阪神大震災:対話で力づけ450回目 「週末ボランティア」復興住宅を訪問 /兵庫」(2007/11/11 毎日新聞)

この夏以降,新聞記者の同行参加が増え,中には継続的にやってきて,メンバーにすっかりなじんだような人もいる。そのほとんどは来2008年の「1.17」に向けた記事の準備のためであろう。週末ボランティアは,被災者の生活再建と被災地の復興のために学び役立ち,被災者の中に尊厳を見いだす姿勢で臨むものであるので,自らを律するとともに,取材の趣旨がこれにふさわしいかを精査した上で対応している。

ヴォランティアの訪問活動にたいして心を開いてもらうためには,ナニサマでもない一市民として向き合う中で信頼関係を構築していかねばならない。そこから生まれ,おなじ市民としての視点からうかがうお話しは,他の方法をもって代え難いものがある。ヴォランティアの立場・目線とマスコミの技術は,各々の特性がある。相互交流の中から,それぞれの発展を図っていきたい。 (2007.12.1)

訪問活動から生まれた新聞記事

昨2007年後半から,マスコミの同行取材が増えた。中には半年以上毎回の訪問活動に同行した“皆勤賞”クラスもいた。こうした同行取材の成果は,各紙の「1.17」向け記事の中に反映されている。記者の視点・方法から学び,活動のあり方を検証するための,いわば鏡のようなものとして,今後の取り組みに活かしていきたい。


新たな参加者に取材する記者(左),すっかりなじんだ記者を囲んで(右),
1月5日の討論集会の会場となった倉谷さん宅にて (2008.1.12)

[減災]阪神大震災13年 週末ボランティア 生きた証し 聞き続け 月2回復興住宅訪問。「必要としてくれるお年寄りがいる限り」(読売新聞大阪版 2008/01/15)
一連の「阪神大震災13年」記事中,特定のグループを継続的に密着取材したものは他に見られない。しかもバックグラウンドを持たない,少人数のグループとなるときわめて異例の扱いといえる。これはまさに写真記者の半年皆勤になる労作で,かかるシャッターチャンスに至るまでには,毎回の「お話し伺い」で,信頼関係を構築し,話題をを引き出す,私たちの寝粘り強い努力を共有した。撮影した写真記者の優しい目線は,私たちの活動のサポートともなった。

震災が生んだ街 HAT神戸の10年 (2)朝のコーヒー寂しさ埋めるひととき」(神戸新聞 2008/01/13)
一人一人の被災者・住民からの「お話し伺い」に,毎回毎回全力投球し,その成果の質・量を高めようとするのは当然だが,その一方で,被災者・住民の間での結びつきのあり方について,思いをいたし,分析することについては充分ではなかった。こうした被災者・住民間の結びつきのあり方に,同行取材を続けていた記者が着目してできたのがこの記事だ。 (2008.1.22)

ついに「朝日」がきた


訪問に向かう参加者と同行取材する「朝日新聞」記者 (2008.3.10)

2008年3月10日の訪問活動は,「朝日新聞」の記者が同行取材した。

【HAT神戸の10年】悩み聞き 訪問458回」(朝日新聞 2008/03/10)  

記事では,私は「緊張した表情で呼び鈴を押し」,「根気強く趣旨を説明」したことになっているが,実際は,前者については,このかん蓄積されていた疲労のためでもあろうし,後者については,訪問者一般にたいする不信感を根強くもつ方も多く,中には認知症と思われる方もいる中では,特別なことではないのだ。

信頼関係の構築がゼロからではなく,マイナスから始まるものだという場面は,決して少なくない。

この日の訪問活動で記事のもとになった,記者も同行し,私が担当したお話し伺いは,震災で人間不信になったと思われる方からのもので,「13年も放ったらかしにしといて今頃何の用やねん」と言われたところから出発し,訪問活動の趣旨を説明してようやくお話し伺いらしくするところまでもっていったものだ。そのため,必ずしも震災ヴォランティアとして充実した内容といえない面もあるのだが,そうした中でこれだけの記事を作成したことは,事前の下調べをかなりしていたことに加え,今回の訪問活動を好意的にとらえ,しかも相当な実力がある人だということが解る。

この記者は,被災地・被災者に関係する記事のための専従で,独力で被災者・被災地の問題に取り組んで,質・量ともにすぐれた記事を出しているが,これまで取材もコンタクトもなかった。「1回だけでも,初めてでも」,しかも一人でこれだけのものを作成した例はない。

ついに「朝日」がきた」( HARA Hideki's Blog)

「お話し伺い」のなかから〜HAT神戸・灘の浜住宅訪問のまとめ


9番館 (2008.5.11),訪問活動中の参加者 (2008.4.26)

この間実現された「お話し伺い」のいくつかを簡単に紹介しておこう。

・60代男性,灘区で半壊。阪神高速そばにある運送会社でリフトに乗っていたときに地震に遭い,目の前の電柱が1mが沈んだのを見た。被害を受けた会社の片付けに1月間通ったが,その間の給料は出なかった。避難所に物資を届けに行ったとき喜ばれたのがうれしかった。震災の日の夜中になってやっと母を避難させ,以後遠方の避難先から,震災後何日も火の手が上がっていた長田などを通って職場に通った。今身体は悪いところだらけで,特に永年の激務や事故のため腕の自由がきかず,あまり仕事はできない。

・60代男性,一人暮らし,長田区で被災。震災時は単身赴任中で神戸に残った奥さんが被災。赴任先から神戸に帰ったが,仕事のため間もなく赴任先へ。今は永年勤めた会社とは異業種の接客業に就いている。奥さんとは半年前に離婚。人に騙されたことも多かった。今は日々健康であればいい。これまでの仕事などから得た人生の教訓を,出勤前の限られた時間で語ってくださった。

・80代男性,灘区で被災。「13年も放ったらかしにしといて今頃何の用やねん」と言われたが,訪問活動の趣旨を説明しお話を伺う。震災時,近隣の人が避難する中,自身は親類に助け出されるまで4時間ほど冷蔵庫の下敷きになったままだった。このときからの人間不信からか震災についてはこれ以上話さず。5年前交通事故に遭い,以来杖が必要になったが,3日間意識がなく傷だらけになりながらも骨折しなかったことに医者が不思議がった。少年時代から得意だった剣道や,戦時中軍需工場で厳しい監視下で危険な作業に携わったことなどのお話を伺う。

・70代男性,一人暮らし。中央区で被災。震災時,スーパーから食料がなくなっていて,液状化現象で噴出した泥水の中を長靴で歩いて水をもらいに行った。娘夫婦が宝塚から歩いて食料と電気コンロをもってきてくれた。奥さんの上にテレビが落ち,胸を痛がったが,医者に診てもらったのは1月後になったことが災いしてか,病状が悪化し1年ほどで亡くなった。内装工事の仕事をしていたが,震災で仕事がなくなり,「震災で(人生が)ころっと変わってしまった」。生きる意欲をなくしたところから立ち上がって新たな生活を始めたところ,オートバイで事故に遭って,足を60針程度縫い,踵の骨がなくなるほどの大けがをし,歩けるようになるまで1年半ほどかかった。

・40代男性。中央区で被災。震災後は地下鉄の復旧工事に忙しく,ほとんどうちに帰れなかった。

・50代女性。須磨区で被災。震災の時,数珠繋ぎのダンプカーがきたようなゴォーっという音がした後,突き上げられた。避難所となっていた近くの小学校でもらったのはパンと折りたたみのレインコートだけで,これは今も使わずにとってある。ご主人は舶載コンテナを運ぶ運転手で,震災で神戸港の岸壁が崩壊して仕事がなくなったが,補償・手当などはなかった。「家をなくした人に援助があって仕事がない人に援助がない」ことの不条理さを,少し涙目になりながら話された。

・70代女性,一人暮らし,長田区で被災。「長田の火事は今でも涙する」。訪問活動と同じ時間に行われていた,学生ボランティアによるふれあい喫茶と足湯から帰ってきて間もなくお話し伺い。詐欺などの悪質訪問者が多く悩まされ,一人暮らしゆえの不安は大きい。週ボラの訪問は予告チラシが入っていたのでドアを開けた。震災時,テレビが落ちてきて右手を負傷,出血が多く苦しみ,その傷が今も残っている。

・80代男性,一人暮らし。東灘区で全壊。この復興住宅に入居した当初の家賃は月額7500円だったが今年24700円になった。生活費は軍人恩給があるので特に困っていない。ヘルパーは頼まず,家事は自分でこなす。18歳で海軍に志願し,奇跡的に復員できたことや,戦後,神戸に出てきて仕事をしながら,独力で勉強したり,技術を身につけたりしたことなどを伺う。

・40代女性。灘区で全壊。避難所では,幼かった子がうるさいと追い出された。仮設住宅から通う児童がほかにいなかった上,母子家庭であったことから,小学校で子どもがいじめられた。派遣から契約社員に身分が変わったが,社会保険で天引きされて手取りが減り,厳しい。子どもが18になると母子手当を打ち切られる上,学費が大変。3年前に脳梗塞を患い,今も腰と膝を痛めている。パソコン習いたいがお金がかかるので…。市の福祉担当者は「働け!」というが身体が続かない。

・70代女性,東灘区で被災。認知症のご主人の介護がたいへん。自分の言うことを聞いてくれず,話が合わないので淋しい。ご主人が寝ているため,戸口で小声でお話を伺う。

・90代男性,灘区で全壊。近所もお互いやられているので協力しても大変だった。「なぜ私が今日まで生きながらえてこられたか」といえば「支えがあったから」。8年前に脳梗塞で倒れ,昨年再発,今もリハビリを続けている。その後遺症のため,話しづらい様子中でのお話し伺い。

・70代 女性,灘区で被災。家は傾き,屋根に穴が開き,雨で家財はダメになった。避難所では,ご主人はお弁当を配ったりしていたが,自分は体調を崩して寝ていたので,震災当時のことはあまり解らない。年金暮らしで,2人の医療費・入院費がたいへん。2人各々が身体悪くなっていく。調子がつかめずイライラする。甲状腺ガン寸前というほどにのどを痛めていて,話しづらそうな中でのお話し伺い。

もちろんこれらは2007年後半から2008年半ばまでの,最近のものだ。2007年半ば以来の解体的再生の取り組みの中で,姿勢を改め,信頼関係の構築をかちとりつつ,スキルアップを図り,実現したものに他ならない。

信頼を寄せ,心を開いて「お話し伺い」をさせてくれたすべての人のためにも,その内容をしっかりと受け止め,記録として後に残したり,声を上げたりすることは,重要な責務となる。

耳を傾けるにあたって,サポートやケアのニーズおよび問題点といったことをしっかりと受け止めなければならない。記録とするにあたっては,これらをしっかり理解し伝えられるようにしなければならない。これが信頼関係構築を拡大再生産するのだ。

すべての参加者が弛むことなくスキルアップにつとめることが不可欠なことはいうまでもない。そのための仕組みの構築も課題だ。一方,かりそめにも宣伝のために人目を引いたり,政治的利害のために挑発的誇張をしたり,あるいは行政当局におもね迎合するべく,ニーズや問題点を糊塗したり矮小化したりするものであってはならない。

これらは,昨2007年からの神戸・週末ボランティアの解体的再生の取り組みのなかで,新たに集い活動に参加するようになった参加者とともに,またこれに規定される形で訪問先住民の方々やその他の市民からの信頼を勝ち得て,切り拓いてきた地平である。

実際のところは,13年目にしてようやっと原点にたった神戸・週末ボランティアの訪問活動の「お話し伺い」が,その必然性と方向性についての啓示を与えてくれたと言っていいものであった。 (2008.7.7)

inserted by FC2 system