2014 神戸・週末ボランティア 新生
News and Reports
We love KOBE Weekend Volunteer

2013年、管理人主宰の神戸・週末ボランティア 新生が新たな活動主体になりました。
Blog This is 神戸・週末ボランティアもよろしく!

(年別に古い記事から順に番号をつけていますが,新しい記事が上になるように配置しています。)
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We love KOBE Weekend Volunteer

傾聴セミナー「災害とこころのケア」 (2014/12/11)レポート

西宮市民会館・アミティホール毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧くださいまして,まことにありがとうございます。

神戸・週末ボランティア 新生2014年のスケジュールは12月上旬のうちにひとまず終えましたが,その後にもうひとつ,12月11日,西宮市民会館・アミティホールで行われた,傾聴セミナー「災害とこころのケア」(主催:阪神NPO連絡協議会,共催:近畿ろうきん地域共生推進室)に参加させていただきました。

このセミナーは,「こころのケア活動をしている、あるいは傾聴に関心のある方」を対象に「こころの減災を考える」とのテーマのもと,「傾聴活動をされている方(団体)のネットワークをつくりませんか?」ということで,

阪神・淡路大震災から20年が経とうとしています。「発災後、少し生活が落ち着きだすと、つぎは、なにやら心がザワザワして、誰かに話を聞いてほしいと感じました。でも、身近な人は誰も忙しくて、自分のそんな気持ちを話せる雰囲気や場もありません。そうしているうちに何だか体調が崩れだして…」そんな話を、あの頃よく聞きました。
人は人によってしか、支える事ができません。必要以上に長く苦しまないために、“聴く”活動を続けてきた方々と参加者で、これまでの課題&これからの支え方を考えます。

という趣旨でおこなわれました。

≪“聴く”活動の紹介と、共に考えてくださる方々≫
◆傾聴ネットワーク まど     粟野真造さん(“聴く人づくり”をしています)
◆NPO法人神戸よろず相談室   牧 秀一さん(震災高齢者・障害者を支えて19年)
◆神戸・週末ボランティア新生  原 英樹さん(復興住宅訪問で息の長い支援を継続)
◆NPO法人ゲートキーパー支援センター  竹内志津香さん(自殺予防のための門番役を育成)

ということで,当ボランティア主宰者もパネラーの一人として,これまでの活動の概略を,少しお話しさせていただきました。機会を戴きましたことに感謝いたします。

阪神NPO連絡協議会傾聴セミナー「震災と心のケア」パネラーを務められたのはいずれも,主に阪神間で傾聴など心のケアに関する活動をされてきた方(団体)で,参加されていた方は,師走の平日の午前中という時季にもよるでしょうが,私から見れば人生の先輩といっていい方々でした。

個を尊重する市民社会が早くから成熟していた阪神間という地域に根ざしてこられた方々らしく,それぞれに質の高い取り組みをされておられ,それをお伺いするだけでも,学ぶところが多く、励みになるものでした。

そうした方々とつながっていくためには,少しでも近い都市部での経験を積んでいくことをはじめ,いくつもの課題があることを認識させられるものでした。また,当ボランティアでお話し伺いをさせていただいている,復興住宅の住民の方は,自立生活を続けているのですから,お伺いできること,すべきことは,まだまだあり,深め,広げていく可能性はまだまだあり,限られた機会の中で,それに接し活かしていくことの大切さを,改めて認識させられるものでした。

「傾聴」を標榜する活動は玉石混淆です。旧グループでも「傾聴」をキャッチコピー的に掲げていましたが,これはせいぜいのところ,聴く姿勢を求めるものに過ぎず,そのあるべき方法・姿勢には,およそほど遠いものでした。それを教訓にリフレッシュし・スタートした当ボランティアも,やっとよちよち歩きができるぐらいといったところでしょう。

傾聴セミナー「災害とこころのケア」しかしながら,本セミナーで説かれているところは,まさに,ホンモノの,ホンモノならではのものばかりでした。彼我の懸隔を思えば,カルチャー・ショックといっていいほどのものもありました。

「傾聴」ということに関して言うなら,高齢者施設など特定の場所で,入所者など限られた特定の人を対象にしたり,仮設住宅から復興住宅と,場所や生活状況は変わっても,特定の人との関係継続の中で行ったりといった形態で,限られた中でより深い関係構築をはかりながら続けてこられたところからすれば,当ボランティアのように,訪問活動を通じて,常に新たな関係構築をはかっていく活動形態に対しては,行政の調査みたいな浅薄なものとの印象はもとより,二度と来ないのはお年寄りには殺生との見方もあるでしょう。

当ボランティアの参加者は,主に播州地域から広範に来てくれています。そのほとんどすべては20代〜40代の若い世代です。

同じところに繰り返し続けてお伺いする時間と資金はありません。人生経験もありません。

しかしながら,そういったメンバーやグループがお伺いすることによって,「風通し」をよくすることが出来ます。

心の風通しをよくすることが,当ボランティアに出来る何よりもの「心のケア」になるでしょう。「心のケア」のあるべき姿や求められる方法がいかに変わろうと,これが出発点として大切であることに変わりはないでしょう。

これからも,「宗教や政党などまったく関係のない民間のボランティア」としての原則を堅持し,アマチュアリズムと在野精神を基本にすえていきたいと思います。

そうしたところから,「震災ボランティア,二十歳(ハタチ)の原点」を確認し,阪神淡路大震災20年の年に臨みたいと思います。

2014-12-26 ↑TOP


復興住宅訪問準備@長田区(2014/12/08)レポート

旧公団(UR)からの借り上げ復興住宅・フレール長田毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧くださいまして,まことにありがとうございます。

当ボランティアの2014年の復興住宅訪問活動は,12月6日7日で終了しましたが,阪神淡路大震災20年となる来2015年にむけて,市街地の復興住宅にお訪ねしたいと思っています。

フレール長田もともとは,郊外の仮設・復興住宅で不便されている方のためにと始めたものの,これまでの歩みを顧みて,都市問題や都市型災害としての視点を基礎にすることの必要性を,改めて痛感するようになりました。

神戸市営長田駅南住宅長田区といえば,天高く炎と煙が立ち上った火災の映像が,震災を象徴するもののひとつとのイメージがありますが,神戸市の区別の犠牲者数では,東灘区・灘区の方が多く,震災後に建設された高層建築は,被災者が優先入居する復興住宅ではなく,再開発ビルであるのがほとんどです。

すなわち,元からいた人が,元のような生活を再びするためのものではなく,震災後他所から来た人が半分近くを占めているところです。また,区画整理によって,広範な市街地において,震災後10年以上経っても,さらには現在でも,空き地のままであったり,仮設のままの事業所や住居が見られます。

再開発ビルに囲まれた借り上げ復興住宅・フレールアスタ若松市街地には,借り上げ復興住宅も少なくなく,長田に戻れても,またも移転を余儀なくされているであろう方々も,退去が進んでいるのか,かなりの空室率であったり,生活感が少なそうなところが目立ちました。

せっかく,住み慣れた地で復興住宅に住み続けられることになっても,,住宅の周囲はすっかり変わり,人々も変わってしまった中で暮らす,さらには,住宅内にもそれが及んでいる現状は,郊外の復興住宅に限ったことではないことが伺えます。

2015年には,並行して,市街地にある復興住宅にもにも訪問活動を展開し,お話し伺いをさせていただこうと思っています。

これまで,〈新生〉はもとより,旧グループでも行ってこなかったところへも,活動を展開し,初心に立ち帰り,新たな歩みの第一歩として,復興住宅と被災者の心の扉を開いてもらうべく,務めたいと思います。

神戸市営新若松住宅周囲一帯が区画整理された神戸市営水笠西住宅

・フレール長田:長田区役所近く,新湊川沿いにある,再開発で生まれた集合住宅。旧公団(UR)から神戸市が借り上げ,借り上げ復興住宅として運用している。
・長田駅南住宅:周囲一帯には新旧のたくさんの市営住宅が集中している。竣工時期から,被災者を優先入居させる復興住宅の役割に。
・フレールアスタ若松:新長田駅南側一帯には再開発で造られた高層建築が並ぶ。その中には借り上げ復興住宅として運用されているものも。南側には大きな空き地が今も。
・新若松住宅:震災で大きな被害を受けた地域に造られた市営住宅。北隣には古くからの市営日吉住宅が。
・水笠西住宅:周囲一帯は震災後の再開発で大きく変わってしまった。

2014-12-20 ↑TOP


第46(新生171)回訪問活動 (2014/12/07) レポート〈阪神淡路大震災20年に向けて,仮設・復興住宅訪問通算613回〉

神戸市営住宅・ベルデ名谷 4番館を見上げる毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧くださいまして,まことにありがとうございます。

そして,阪神淡路大震災20年を控える中で,新たに,或いは今一度,これまでの被災地・被災者に関心をお寄せになり,このページをご覧くださっている方もいらっしゃると存じます。改めてご挨拶させていただきます。これからもよろしくお願いいたします。

被災地復興新聞2014年11月28日紹介分不定期でささやかな活動となりましたが,新たな活動主体・神戸・週末ボランティア 新生では,2014年の秋〜冬季も,「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」というテーマのもとで,この秋〜冬季も,阪神淡路大震災の被災者が暮らす,神戸市郊外の復興住宅(神戸市営住宅・ベルデ名谷,垂水区)への訪問活動をさせていただきました。

2014年12月5日「神戸新聞掲示板:神戸・週末ボランティア 新生 復興住宅訪問活動のご案内 忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から衆議院議員総選挙を翌週に控えた中で行った,今月2回の訪問活動については,「神戸新聞」神戸版掲示板でご紹介いただいたほか,Recovery of japan被災地 復興新聞 紙で拡散していただきました。

2014年最後の復興住宅訪問活動となったこの日は,前日と概ね同一箇所のブロック・棟をお訪ねしました。

予告ビラ2014年12月6・7日昨年同時期と同じく,デイサービスの利用者も多い,近隣の高齢者施設が,年1度のお食事会を行う日で,これに参加された方も少なくなかった模様です。一方で,参加されなかった方もおられ,同じ独居高齢者といっても,情況はさまざまのようです。

そこからお帰りになった時分あたりから訪問を始め,前日はほとんどお話し伺いが出来なかった箇所でも,貴重なお話し伺いをさせていただきました。

神戸市営住宅・ベルデ名谷 4番館前今回も特に空室が多いところを廻りましたが,中には,当ボランティアの訪問開始以前にも「孤独死」があり,夏季になって異臭がして,異状に気付いて発見されたということもあり,そうしたことが,身の周りで起こっている中で,暮らし続けることに,思いを致さねばならないことを,改めて想起させられました。

もちろん全980戸と,神戸市内の復興住宅では屈指の大規模であるベルデ名谷では,入居以来十数年を経る中で,どの棟・ブロックでも,誰にも看取られることない死は,決して珍しいことではなく,どこかしらで恒常的にといっていいほどに,起こってきたもので,やがてそのことも忘れられてはまた新たな…という連鎖になっている様子が伺えます。

神戸市営住宅・ベルデ名谷 5番館から総合運動公園方面を望む早いもので,この復興住宅への訪問も2/3となりました。お話し伺いをさせていただいたお一人お一人,シート記入してくださったお一人お一人,インターホン越しで応答してくださったお一人お一人に,改めて感謝したいと思います。

そして,この復興住宅で暮らすこと,周囲の情況など,様々なものが,みえてくるようになりました。それらを,これからに活かしていきたいと思います。

神戸市営住宅・ベルデ名谷 斜面に残る紅葉リフレッシュ・スタートして2年,「宗教や政党などまったく関係のない民間のボランティア」としての姿勢についてのご理解も深まり,広がってきたと思います。不便な地への,不定期な活動にもかかわらず,ともに訪問活動を担ってくれる参加者も増えてきました。そうした中で,役立ちと学びの輪をさらに広げて行ければと思います。

あわせて,〈新生〉以来の訪問戸数も1300戸に達しました。この半数超は,郊外の復興住宅であるこのベルデ名谷になります。

これからは,旧グループ以来の原点として,郊外の不便な地にあって難儀される方に寄り添うとともに,都市問題,都市災害に根ざした視点を基礎に据えるべく,同住宅とあわせて,これまで旧グループを含め,お訪ねしたことのなかった,市街地の復興住宅にも,訪問活動を展開していきたいと思います。

ご参加,ご協力いただいた皆さんをはじめ,弊サイトThis is 神戸・週末ボランティアや,MixiコミュニティMixiページFacebookページtwitter - welove_kobeを通じてご縁をいただいております,すべての皆さんとともに,成果を分かちあえますことに感謝したいと思います。

来年の訪問活動までごきげんよう。


この日伺ったところの概略です。

・70〜80代女性。灘区で全壊。長屋になっていて,自分は背中にちょっとケガをした。息子も助かった。一時知人宅に身を寄せたりした後,北区の仮設住宅へ。カナダ製のログハウスのような造りだったので,ムチャクチャ冷たいという感じはしなかった。仮設住宅では4年過ごし,最後までいた。仮設住宅でも復興住宅でも,便利なところをと思っていたが当たらず,最後にここへ申し込んだ。この復興住宅に入居して15年。新築で入ったものの,最近では,あちこち剥がれてきたりヒビが入ったりしている。この復興住宅・この棟は高齢者ばかり。友人はいない。ここではほとんどつきあいはない。ヨコのつながりがない。新しく引っ越してきても(とくに若い人は)あいさつをしない。この棟でも「孤独死」があって,この間まで元気だった人が亡くなっていたりする。また以前,下の階で,何ヶ月も経って夏になって異臭がしてきて発見されたことがあった。そこはもともとゴミ屋敷みたいだったが…。ただでさえ空室が目立つのに、こういうことがあった後はなおのこと空いたままになっている。身体はあちこちガタがきている。ずっと通院していて,病気が病気を呼ぶので,健康には心がけている。何かあったとき,子どもがいても間に合わないだろうから,あてにはできない。「終活」せなあかんと思っていると,後片付けを請け負う業者からの勧誘の電話がかかってきた。こういうのは,遺品の中に宝石や着物などの金目のものを見つけて高く売ろうという,金目当てだろう。今日は,。帰りに住宅入り口近くの花壇で草花の手入れをしている方からも分けてもらった。<外出から帰ってきたところに玄関前でお話し伺い>

・80代女性。電車で行けばすぐのところをバスで時間をかけて通勤していて,西区の仮設住宅に入ってからも,同じ職場に通勤していたが,この復興住宅に来て辞めた。以来,少ない年金で細々暮らしている。この復興住宅に入居して15年。ここはセールスや詐欺が多かった。換気扇のフィルター交換を口実に高額請求される詐欺に遭った。気をつけてもついつい言い乗せられてしまう。電話がかかってきても自分から名字を言わないようにしている。今特に困っていることはない。身体はいたって元気で,健康診断などもパーフェクト。ウォーキングしている。山歩きもする。毎月のツアーで少しずつ行って,1年2ヶ月かけて四国八十八箇所巡礼も行った。被災時にいたところの近くにも仮設住宅が出来たが入れず,希望通りでなかっただけでなく,復興住宅ではこれが最後と言われたので仕方なく応募して,当たったので仕方なく来た。こんな高層住宅に住んだのは初めて。ほんとうはあちら(被災時まで居た場所)に帰りたい。仮設住宅には早く入ったので,古い方だった。買い物などもたいへんだったので,仕事の帰りについでに済ませていた。4年間で,暑い寒いとしんどかったが,東北の被災者はもっとたいへんだと思う。津波にも遭ってるし…。<帰宅してきたところに玄関前でお話し伺い。上の階に住んでいるという方がちょうど来訪,少し一緒にお話し伺い。>

・40〜50代女性。須磨区で全壊。被災時からほとんどずっと母親と一緒だった。時tらくは全壊したがケガなどはなかった。西区の仮設住宅を経てこの復興住宅に入居して15年。特に困っていることはない。仮設住宅でも復興住宅でも,近所づきあいは、自分はあまりないが,母なら知っているかも。<インターホン越しに応答>

・40〜50代男性。被災時は垂水区にいたが,とりあえず大丈夫だった。この復興住宅に入居して3年。被災者としてではなく,一般入居。近所づきあいはあまりない。困っていることは,あるといえばあるが,ヘルパーに買い物を頼んだり,その他のサービスを利用して,何とかやっている。<インターホン越しに応答。ボランティアの趣旨を説明>

・70代女性。ウェブサイト掲載や記録用に,住宅やオブジェの写真を撮っていたところ「Nikonのええカメラで、何,撮ってはるの? 市住のマーク?」「みんな○番館6・9・10階の住人,宜しく。」<ビラなどを示し,ボランティアの趣旨を説明>

・少年2兄弟。この復興住宅に入居して2〜3年。ここには一般の市営住宅として入居した。地震の時は生まれていないし、地震のことは,あまり学校で習わなかった。親から少し聞いたが,あまり被害はなかった模様。特に困ったことはない。

・少女。今,親いないんで,ちょっとわからない…。ここには長く住んでいるが,いつから住んでいるかは解らない。地震のことは親に聞いたことはない。困ったことはない。<インターホン越しに応答>

・30〜40代女性。この復興住宅に入居して4年ほど。被災者としてではなく,一般の市営住宅として入居した。特に困っていることはない。今忙しいので…。<インターホン越しに応答>

・70〜80代。この復興住宅に入居して15年。「だんだんできないことが増えているが…。今困っていることはない。時間がないので…。」<インターホン越しに応答>

・70代女性。花壇の手入れをしているところに出会う。「宜しく」とお声がけ。ここで切り花にしたものを分けていただいた方にお話し伺いすることに。

・「おきもちありがとうございます。福祉関係の業務についています。老いた時お願いできればと思います。」<自身でシート記入>

・母子。お出かけのところエレベータで乗り合わせたのであいさつ。女児がVサインしたと思ったら「2歳」と言った。

・60代男性。「今ちょっと忙しいので…。」<インターホン越しに応答>

2014-12-20 ↑TOP


第45(新生170)回訪問活動 (2014/12/06) レポート〈寒風の中で,仮設・復興住宅訪問通算612回〉

たるみマルシェ毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧くださいまして,まことにありがとうございます。

2014年の秋〜冬季も,神戸・週末ボランティア 新生では,「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」というテーマのもとで,阪神淡路大震災の被災者が暮らす,神戸市郊外の復興住宅(神戸市営住宅・ベルデ名谷,垂水区)への訪問活動をさせていただきました。

被災地復興新聞2014年11月26日紹介分衆議院議員総選挙を翌週に控えた中で行った,今月2回の訪問活動については,「神戸新聞」神戸版掲示板でご紹介いただいたほか,Recovery of japan被災地 復興新聞 紙で拡散していただきました。

2014年12月5日「神戸新聞掲示板:神戸・週末ボランティア 新生 復興住宅訪問活動のご案内 忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から前回,先月の訪問活動から3週間ぶりの訪問となりました。この日お訪ねしたお宅への予告ビラの投函は,前回の訪問日にさせていただきましたので,3週間前からの予告と言うことになります。これまでの訪問活動で,空室率が多く,あまり「お話し伺い」が進んでいなかった棟・ブロックを中心に訪問させていただきました。

またこの日は,昨年8月末に同住宅への訪問を始めて以来,600軒目からのスタートとなりました。

予告ビラ2014年12月6・7日ボランティアの集合場所にしている垂水東口では,たるみマルシェが行われていて,晴天に恵まれながらも,強風への対策からか,テントを張らないままで出店していて,賑わいをみせていました。

今回は,阪神淡路大震災20年を控え,「孤独死」の問題に取り組んでいるという新聞記者・カメラマンの同行取材も入りましたが,早い時間帯では「お話し伺い」が出来なかった一方で,切実なシート記入の回答が寄せられ,参加者も,何とか励ましたいとの思いを込め,お返事を投函するという一幕もありました。

神戸市営住宅・ベルデ名谷 7番館の屋上緑化この復興住宅には最近,行政主導による「聞き取り」が行われたほか,さまざまなセールスなどの来訪もあり,そうしたものへの警戒や不信の気持ちも強いのでしょう。同じ住宅に何度もお訪ねさせていただいてきたことで,ある程度は安心してお話し伺いをさせていただけるようになってきたとはいえ,個々のお宅には,1枚の「予告ビラ」と第一印象だけで,判断されることへの限界も感じられるものでした。

「孤独死」問題の取材とシート記入への返事を各参加者終了予定の午後5時までには,予定していたお宅を一通りお訪ねすることが出来ました。

寒さも厳しく,強風も拭く中,私たちの訪問活動を受け入れてくださったことに,改めて感謝します。


この日伺ったところの概略です。

・60代女性。兵庫区で半壊。冷蔵庫が倒れてきたり,戸が開かなかったりしたが,何とか力づくで脱出した。被災後,大家さんが落ちた壁を修理するなどしてくれたので,そのまま住み続けながら,移転先を探した。この復興住宅に入居して15〜16年。ここへは5回目の抽選で当たって入った。建設中のところを外から下見したが,遠いところだと思った。病院が近いので助かっている。最近まで働いていた。大学病院などで入院食を作る調理師をしていたが,体調を崩し,長時間の立ち仕事がたいへんで辞めた。65歳まで働くつもりだったが…。今ではコルセットとかをして立っている状態。いつもエプロンして動き回っていたのに…。今まで働いていて,何もしなくなると,肥えてしまうので,自立して生活し続けるためにも,なるべく歩くようにしている。毎日5〜6時間,万歩計を附けて出歩くようにしている。一時は正座も出来ないほどだったが,エクセサイズと思ってやっている。高齢者の見守りや,病院の付き添いがもっとあれば…。

・70代女性。中央区で全壊。住んでいたところはビルだったが,区画整理にかかり、住み続けることが出来なくなった。テレビや電化製品などの家財はなくなってしまった。トラックに乗せて盗っていく人もいたみたいだ。被災後はボランティアで走り回っていた。英語で書かれた,海外からの支援物資を仕分けしたりしていた。以前は英語塾で小学生に教えていて,この復興住宅に来てからも,ボランティアで子どもに教えていたが,倒れて辞めた。仮設住宅も中央区内だったが,4〜5年居た。この復興住宅に入居して15〜16年。最近白内障の手術をした。その後も高血圧でたいへんで,めまいがしたり,立っているだけでフラフラしたが,今のところは何とか薬でしのいでいる。ヘルパーに週2回来てもらって,家事や通院に同行してもらったりしている。ガスをつけたら側を離れないよう,火の用心を心がけている。一人でいると不安…。近所づきあいには気を遣う。<ボランティアの趣旨を説明。玄関でお話し伺い>

・80代女性。須磨区で全焼。「住むところに困りました。仮設に入れて頂いて、時々ボランティアの方がたずねて下さってうれしかったです。今は、年月が経ったので、皆さんに感謝しながら暮らしています。主人も90才になり私も80才をすぎて、二人共、元気で、暮らしています。ボランティアの皆様、ごくろう様です。ありがとうございます。」<自身でシート記入。「ご記入ありがとうございました。季節柄、お体大切にお過ごし下さい。」と,お返事のメモを差し入れ。>

・女性。「11月15日に主人が亡くなり、1人になりました。さみしくてだれかに主人の事、話を聞いてほしい気持がおちうtかなくて出来ません。つぎの機会にお願いします。今とてもさみしいです。」<自身でシート記入。「この度はお悔やみ申し上げます。ご記入ありがとうございます。季節柄お体大切になさって下さい。」と,当ボランティアの連絡先を附して,お返事のメモを差し入れ。>

・60〜70代男性。夕方近いが,これから出かけるとのこと。エレベータに乗せた単車を出して出かけるところに「行ってらっしゃい」とお声がけ。

・70代?男性。「福祉パスなくなったやろ! お前らもっとよくしてくれるんか?」<ボランティアの趣旨を説明。廊下でお話中にお話し伺い>

・40〜50代女性。今とくに困っていることはない。ボランティアは要りません。<インターホン越しに応答>

・80代女性。「布団出して寝ていた…。」<インターホン越しに応答>

2014-12-19 ↑TOP


復興住宅訪問準備@兵庫区(2014/12/05)レポート

フレール新開地3丁目毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧くださいまして,まことにありがとうございます。

神戸・週末ボランティア 新生では,12月6日7日に予定している,今2014年最後の復興住宅訪問活動は,先11月の訪問活動その準備の際に済ませてありますので,この日は,郊外ではなく,市街地にある復興住宅をいくつか,訪問活動にむけての準備をかねて,現状を見させていただきました。

兵庫駅北住宅:空室の多さを示す郵便ポストルセフィール中道1990年代後半に建設された市営住宅を初めとした公営住宅は,阪神淡路大震災の被災者を優先入居させる復興住宅(災害復興公営住宅)が主ですが,もちろん,震災前後にかかわらず,建て替えや,再開発,区画整理事業に伴う,従前入居の方もいらっしゃいますが,被災後も,すんなりと,元の地に戻れたとは限らない情況があります。

また,近年になってクローズアップされてきた,借り上げ復興住宅の問題に関しては,もっとも早くに返還期限が迫っている大規模住宅では,昨2013年同時期に比べ転出がいっそう進んでいることがうかがわれるものでした。

アーバンコート兵庫神戸市営大開住宅神戸市営兵庫駅北住宅せっかく住み慣れた,便利な地に戻れても,終の棲家とは出来ず,再度転居先を探さねばならなくなっています。

もちろん,借り上げ復興住宅でなくても,高齢化率,空室率が高いところ,生活感があまりないところなども目立った一方で,震災に関係なく,一般の市営住宅として入居した住民の世帯が多そうなところもあり,震災の風化,一般的な公営住宅への「解消」が進んでいる様子もうかがえました。

成否はともかく,来2015年は,こうしたところにもお訪ねしたいと思います。

キャナルタウン南:従前入居者向けとされる市営住宅キャナルタウンウェスト:URからの借り上げ復興住宅で最初に返還期限が。キャナルタウンウェスト内にある駐在所:監視?見守り?

・フレール新開地:市街地中心部にある借り上げ復興住宅。返還期限が迫る中,住み続ける取り組みが続いている。
・市営兵庫駅北住宅:空室率が…。
・ルセフィール中道:小学校跡を再開発,高齢者施設や公園も併設されている。借り上げ復興住宅で,外装工事が行われていた。
・神戸市営大開住宅
・アーバンコート兵庫
・キャナルタウン南住宅:従前入居者向け市営住宅と言うことになっている。
・キャナルタウン・ウェスト:旧公団(UR)から神戸市が借り上げて、被災者に提供。阪神淡路大震災の借り上げ復興住宅ではもっとも早くに返還期限が来る。
・キャナルタウン・ウェストにある駐在所:市街地に駐在所があることは珍しい。ほんとうに住民の見守りなのか?監視強化なのか?

2014-12-18 ↑TOP


第44(新生169)回訪問活動 (2014/11/16) レポート〈やはり今こそ「息の長い支援」は神戸から,仮設・復興住宅訪問通算611回〉

ベルデ名谷 急斜面の紅葉毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧くださいまして,まことにありがとうございます。

そして,阪神淡路大震災20年を控える中で,新たに,或いは今一度,これまでの被災地・被災者に関心をお寄せになり,このページをご覧くださっている方もいらっしゃると存じます。改めてご挨拶させていただきます。これからもよろしくお願いいたします。

不定期でささやかな活動となりましたが,新たな活動主体・神戸・週末ボランティア 新生では,2014年の秋〜冬季も,「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」というテーマのもとで,この秋〜冬季も,阪神淡路大震災の被災者が暮らす,神戸市郊外の復興住宅(神戸市営住宅・ベルデ名谷,垂水区)への訪問活動をさせていただきました。

ベルデ名谷 7番館低層部入口やや雲が目立つ天候ながら,一応好天に恵まれましたが,例年より冷え込みが早く,出歩く方をお見かけすることが少ないように思われました。この日も,前日と同じ棟・ブロックを訪問させていただきました。お住まいの方々の傾向・特徴としては,共通しているでしょうが,土曜日と日曜日とでは,違った状況となり,ここでは,土曜日の方が都合がよかったのではと思うところもありました。

この復興住宅では,土曜日・日曜日と続けて,ほぼ同一箇所を訪問させていただいてきましたが,概して,土曜日の方が「お話し伺い」に都合がいいという方が,若干目立つようにも思われました。

今季は,従来より少し訪問戸数を抑え,予定時間内に終わるよう配慮しました。この日は,予想より留守宅が多かったこともあって,予定していたところを一巡した後,時間が余ったため,留守だったお宅に再度廻ってお声がけし,何軒かで「お話し伺い」をさせていただくことができました。

こうした再巡回は,この復興住宅では初めてのことですが,以前お訪ねしていた神戸市営筒井住宅(中央区)では,厳寒・荒天の時などに何度かありました。

阪神淡路大震災から20年、追悼行事はこれで最後に。ベルデ名谷連絡協議会この日はまた,阪神淡路大震災20年を前に,今度で追悼行事を最後にするとの張り紙がを目にしました。盆踊りなどの行事も数年前になくなり、この追悼行事もごくわずかの人によって担われているだけだったのですが…。

高齢化や後継者不足などが理由に挙げられていますが,数百の被災世帯がある中,震災や追悼への思いはみなそれぞれで。被災場所から離れたこの地で行事をする意義もまた問われていたと言えるでしょう。

予定時間より少し早く終わったので,引き続いて,3週間後の12月6日・7日に訪問予定のお宅への「予告ビラ」投函を行いました。

この夏7月8月及び,今シーズンに行ったように,訪問活動準備のなかで,対話を実現し,「お話し伺い」になっていくのが,もっとも効果的なのですが,ここでは,現地入りのためのコストが,市街地中心部よりもかなり高くなっている現状があり,とりわけ4月の消費増税以降は,いっそうの負担になっています。そこでやむなく合理化させていただくことにしました。

ご参加,ご協力いただいた皆さんをはじめ,弊サイトThis is 神戸・週末ボランティアや,MixiコミュニティMixiページFacebookページtwitter - welove_kobeを通じてご縁をいただいております,すべての皆さんとともに,成果を分かちあえますことに感謝したいと思います。

来月の訪問活動まで3週間,それまでごきげんよう。


この日伺ったところの概略です。

・60代女性。夫婦2人暮らし。垂水区で一部損壊。地震の時はかなり揺れて,飛び起きた。自分が,倒れてきたタンスを押していなかったら,当時高校生と中学生だった息子達は,2人とも死んでいただろう。この復興住宅に入居して16年。このフロアではいちばん早くに入った。少しして他の人も入ってきた。仮設住宅には行かず,ここには一般入居だった。子どもが大きかったのが,ここへ来た理由のひとつだったが,その子どもたちも,大学を卒業し,独立して出て行った。それまで20数年間,毎朝3時に起きてお弁当を作る生活をしていたが,やめてからガクッと来た。それまで気が張っていたのだろう。身体はこわしていない。今でもまだ週2回仕事に行っている。子どもたちは学生時代に,近くにあったお好み焼き店でアルバイトをしていて,賄い付きでよくしてもらった。ここへ来てビックリした。坂道があるし…。今までにこのフロアで9人の方が亡くなった。部屋が空いても後の人が入ってこない。みんなこの坂道を見てやめていくみたいだ。階下の駐輪場に置いていたら,買って1週間の単車が盗難に遭った。盗難保険をかけておいたので,不足分を足して代わりを買った。以来,部屋の前にあげている。使わないと調子が悪くなるので,週2回はエンジンをかけて乗るようにしている。夫婦2人だけの生活になった,これからの生活が不安…。5年ほど前までは盆踊りもあったし,週2回野菜の移動販売が来たりしていたが,最近はそうしたものもなくなった。(この復興住宅の集会所で行われてきた)追悼行事が今度で終わりになるが,これからもあればと思う。民間のボランティアである旨を説明したら,「聴いてくれてありがとう」との言葉を戴いた。<玄関前でお話し伺い>

・70代男性。長田区で全焼。気が付いたら火の海だった。逃げることしか考えられなかった。幸いケガなどはしなかった。近くで避難できるところがなく,歩いて神戸市役所まで行って寝た。1〜2日してから,大阪へ向かった。十三大橋を境に,被災状況が全然違っていて,大阪では普通の状況だった。西成のドヤ(簡易宿泊所)で10ヶ月過ごした。知人の伝手で行ったものの,仕事はできず,明日のドヤ代にも苦労した。義捐金やら何やらで食いつないだ。4回にわたって支給された義捐金は何とかちゃんともらえた。サンテレビで情報をチェックして,仮設住宅入居の情報を知った。北区の仮設住宅へ入居,ここで4年過ごした。足が悪く,出歩くことはほとんどなかった。バスで買い物に行ったりできたが,その時はまだあまり年がいってなかったので,苦にならなかった。この復興住宅に入居して15〜16年。できてすぐ入った。1回の申込みでここへ入れた。1度の申込みで何カ所かに申込みができたのだが,ここはいちばん来たくないところだった。いちばん行きたかったのは岩屋で,そこは大阪に行くのにも便利だから。第2希望は西神南で,この復興住宅とどっちでもいいと思っていた。ここには事前に1度見学に来たが,こんな山の高いところに造られているのを見てびっくりした。<玄関でお話し伺い>

・70代男性。兵庫区で全焼。自宅のある一画が焼けてしまった。かなり危なかったが,何とか逃れて,別の通りまで避難した。仮設住宅は西区へ。ボランティアの訪問を受けた記憶はない。仮設住宅からここへ来るとき,自分よりもまだ遅くまで残っている人もいた。ここに入居したのは,できてすぐではなく,少し経ってからだったが,それでもやや早かったかとも思う。もう慣れてきたとは思うが…。坂道はたいへん。仮設住宅もそうだったが,この復興住宅も,荒野みたいなところだ。来た当時はまだなかったが,ここ5〜6年で,近くに店ができて,買い物はだいぶ楽になった。自分で一応ちゃんとできている。この部屋は,西日がさすので,夏にはかなり暑くなる。しっかりしたカーテンで防いでいるが…。月がものすごく大きく見えるのはいい。身体はこれといって異状はない。取り立てて今困りごとはない。この復興住宅もできてから十数年経っているが,あちこちにひびが入っているのが目につく。万が一のことがあると思うと,心配になる。一人暮らしで,ヘルパーは頼んでいない。買い物にはバスとかを利用。

・10代女性。この復興住宅に入居して1ヶ月。近くのスーパーに買い物に行くが,まだ慣れていない。地震の時は生まれていない。ここへ来る前は北区にいたので,地震の時のことはあまり聞かなかった。学校でも震災のことはあまり習わなかったし,避難所にもならなかったようだ。身体はとくに問題なく元気。(小さな子どももいるので)これからここで,保育園や学校などの情報収集をしなければと思っている。<玄関に出て応答>

・40代?女性。訪問販売の勧誘がしつこくて困っていたところ。断っても断ってもまた来るし,クレーム入れても…。不幸があったばかりで,そっとしてほしいところなのに。故人は被災してこの復興住宅に入居したが,(暑さや寒さで体調を崩したり,「孤独死」したりしたのではなく)前から身体が悪く,手術とかも繰り返していた。<ボランティアの訪問の趣旨を説明。インターホン越しに応答>

・70代男性。北区で被災。この復興住宅に入居して14年。ここには一般入居で来た。地震の時はとくに被害もなく,ケガもしなかった。足もとがふらつくが,検診ではとくに異状なしとのことだった。もう●歳,悪いところはあちこちや。テレビでフィギュアスケートを観ているところ,とのことなので,手短に切り上げ。<玄関先でお話し伺い>

・70代?男性。この復興住宅に入居して5〜6年。一般入居だが,地震の時は全壊した。被災場所はよく覚えていない。今特に困っていることはない。ちょっと今,用事してるので…。<予告ビラをご覧になっていなかったとのことだが,ボランティアの趣旨を説明したところ,「出るわ」とお話し伺いに応じてくださった。ドアを開けて応答>

・30〜40代女性。この復興住宅に入居して4年。結婚してからの10年は神戸にいる。ここに来る前も垂水区内の市営住宅にいたが,子どもの通学のためにここへ移った。坂道がたいへんだが,近くまで送迎バスが来てくれるので,その分だけ助かっている。ほかは特に困っていることはない。<インターホン越しに応答>

・30〜40代女性。(お困りのことは?)「大丈夫です。」,「今,ちょっと手が離せないので…。」<インターホン越しに応答>

・70〜80代女性。「一気に上がられへん。がんばってください。」<住宅内の坂道で「ボランティアの者です」とお声がけ>

・30代?男性。「すみません。調子悪いので…。」<ドアを開けて応答>

2014-11-24 ↑TOP


第43(新生168)回訪問活動 (2014/11/15) レポート〈深く分け入る中で,仮設・復興住宅訪問通算610回〉

竹内三雄 Transfiguration毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧くださいまして,まことにありがとうございます。

2014年の秋〜冬季も,神戸・週末ボランティア 新生では,「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」というテーマのもとで,阪神淡路大震災の被災者が暮らす,神戸市郊外の復興住宅(神戸市営住宅・ベルデ名谷,垂水区)への訪問活動をさせていただきました。

今年は秋の深まりも早く,住宅内の紅葉も,前日よりも一際進んだように思われるところもあるほどでした。この日も地元からの常連参加者とともに,予定時刻をやや遅れて開始・終了しました。一頃よりはすくなくなったものの,遅くなってからの訪問になりましたことに,お詫びいたします。

竹内三雄 Transfiguration予告翌日の訪問ということもあって,前日に投函した「予告ビラ」が,ドアポストに残ったままになっているところも数軒あり,そうしたところについては,防犯のために,確認の上回収しました。

ここは,最後に造られた災害復興公営住宅(復興住宅)ということもあって,阪神淡路大震災に関係なく,一般入居された方もいらっしゃれば,被災者として優先入居できるはずでありながら,それに漏れた方がいらっしゃることも,少なくありません。この日と翌日は,そうした方が多いであろうところを中心に,廻らせていただきました。」

震災の風化だけではなく,さまざまなセイフティ・ネット,福祉・公的支援策などの限界や遺漏などといた問題が,浮かび上がってきます。それもまた,こうした時季,こうした場所をお訪ねして,「お話し伺い」をさせていただく意義だと言えるでしょう。

ベルデ名谷 急斜面の紅葉今,高齢者となっている方でも,被災時や入居当初はそうではなく,自助努力を強いられながら,限界に至ったり,力尽きたりする方もいれば,或いは,震災以外のファクターによるケースについても,さまざまな立場・状況にあることを,改めて想起させられるものでした。

もちろん,震災について,20年近く経った今だからこそ,ようやっと話せるようになったという方もいれば,やはり依然として話したくない,思い出したくないという方もいらっしゃいます。今,私たちボランティアに,話していただくことで,気持ちが軽くなったり,何らかの問題解決の方向性が展望できるようになれば,お役に立てて幸いと言っていいでしょう。

今回も,貴重で有意義な「お話し伺い」をさせ帝阿tだきましたことに感謝したいと思います。


この日伺ったところの概略です。

・70代女性。垂水区で一部損壊。朝食の支度をしているときに地震に遭った。ドスンという音がして,自宅マンションの入口近くに段差ができたほか,電子レンジとか鏡とか,全部落ちてきたりして,家の中もグチャグチャになった。ガラスを踏んで足をケガした。電気はすぐに復旧したが,ガス漏れの恐れがあるとして,近くの中学校に避難した。ガスが復旧したのは1月後だった。水道も長く止まった。西区の別のマンションに移ったので,仮設住宅には入居しなかった。この復興住宅に入居して10年。障害認定を受けてから,車イス生活になる可能性があるのを見越して,市営住宅を申し込んだ。たまたま申込みはできたものの,入れるまでには少しかかった。ここには予め内見できた。障害者手帳はいつでもどこへ行くときでも必ず持っている。買い物などは自分でできる。手すりはあるが少ししか使えない。狭いから車イスも使えないところが多い。心臓ペースメーカーを使用。半年ごとにCTスキャンやレントゲンとともに電池の電圧測定などの検査を受け,何年かごとに手術で交換しなければならない。土曜・日曜などに遊びに来る孫には「ばあばは電池で動いてる」と言われている。5分歩くのがやっと。バスもしんどいし怖い。自分では携帯電話は一応もっている。公衆電話がないので,しかたがない。他の人,とくに若い人が携帯電話を使っている近くに行くのが怖い。内部障害で,外見からは判ってもらえず,優先座席とかでも配慮してくれないので,一言でも断り書きをしてくれればと思う。神戸市にはないが,他所ではマタニティー用のステッカーもあるみたいなので,参考にしてほしい。家で調理をするにも,IHのものは使えない。昨年夫が亡くなるまで料理をつくっていた。一人になるとつくる気になれず,どうしてもできあいのもに。最近は電磁波の影響を受けにくいものになってきたけど…。車イス使用や転倒したときに備えて,床にブロックカーペットを貼った。上から響く足音が気になっていたので,下の部屋に迷惑がかからないようにと気を遣ってのことでもあった。以前,自宅で具合が悪くなって救急車を呼んで病院に搬送されたら,深夜にもかかわらず,すぐ帰宅するように言われたことがある。夫の介護をしていたとき,車イスや掴まるためのポールなどの介護用品をもっとレンタルしてくれればと思った。介護保険利用の認定も…。市の公共サービスが不親切なのが心配。民生委員を通じて,ワンタッチで119番につながるよう手続きしてもらったが,いざ利用しようとしたら通じなかった。救急車を何度呼んでもダメなこともあった。最後の手段にと,介護タクシーを利用して行ったら,病院をたらい回しにされ,やっと受け入れてくれた病院でも,カルテがないと,十分な処置をしてもらえなかった。近所づきあいをするにも,お金を無心されたりすることもあって…。この住宅には子どもの遊び場がないのが気になるし,かわいそう。壁にボール投げをしたり,ピンポンダッシュなど,イタズラされるのは困る。児童館があるわけでもないし,住宅裏の高台の公園で遊ぶのもちょっと…,小学校まで行かないと…。ここでは夫婦2人暮らしをしていた。夫が玄関で転んだとき,たまたま検査できていた消防署員に,ベッドへ寝かせてもらったことがあった。息子夫婦も近くに住んでいる。何かあったとき,連絡したらすぐ来てくれるが,そこまでは…。近くの人に助けてもらうにも…。夫が寛容な人で,息子の嫁を娘と思って接するよう言ってくれたおかげで,仲良くできている。何ごとも最初が肝腎と思う。とりわけ一人になってからは,何かあったらどうしようという不安が。今日も目が覚めたことに感謝している。「あんしんかん」に記入して備えている。できることは自分でして,少しでも迷惑をかけないようにしている。

・70代?男性。兵庫区?で被災。神戸にきてからあちこち移り住んだ中で地震に遭った。隣の部屋から倒れてきたので,とりあえず避難した。ケガなどはしなかった。仮設住宅は,西区の交通が不便なところで,600軒ぐらいある大規模なところだった。そこから3回ほど,チラシ配りなど,わずかなお金にしかならない仕事に行ったが,たいへんだった。仮設住宅で,当ボランティア(旧グループ)の訪問を受けた記憶がある。この復興住宅に入居して15年。入居して程なくして,施工がずさんなところが目についていた。壁の桟がないのに気付いて,自分で補修したりした。天井にも凹みがある。近所づきあいもたいへん。ベランダの汚れで隣とトラブルになっただけでなく,同じ住宅の住人を信用したら…。人は信用できない。任せていてもみておかないとアカン。年金が少なく,たいへん。電気代やガス代が払えず,延納を申し出て,止められないようにしている。携帯電話の料金もやっと払ったところ。冬は暖房をほとんど使わず,布団をかぶっているだけ。50歳ぐらいまで鉄工所で仕事をしていた。防護眼鏡をしていなかったら,鉄くずやサビが目に入ったところをこすって傷め,夜になって痛くなったので,救急車を呼んだこともあった。もうちょっとで失明するところだった。足にも鉄くずが刺さって,タコみたいになっている。安全靴を履いていたが,継ぎ目から入り込んできて,今になって痛みが…。今の若い者は,面倒見てもらってもすぐに…。車の運転ができても,修理やメンテナンスができない人が多い。ロープの結び方をみせてくれた。ヘルパーは頼まず,買い物は自転車で住宅から少しあるスーパーへ。レジ袋の代わりに店内用の買い物カゴを借りてきて,自転車のカゴにそのまま入れ,次に行ったときに返す。政治家も信用できない。選挙の時の公約を書いて取っておきたい。

・90代男性。垂水区で被災。この復興住宅に入居して10年余り。地震の時は,ケガなどはせず,建物の被害はちょっとだったが,食器などはかなりダメになった。水やガスが止まったが,あの頃はまだ元気だったので,水汲みに行っていた。足腰が痛い。90にもなるとたいへん。(困っていることは)今はないけど,先は解らん。出かけるときは杖をついて歩く。コープの個配も利用するが,歩いて20分ぐらいのところにできたので,自分でも住宅からそれほど遠くないスーパーまで買い物に行く。帰りはバスを利用する。1週間に1度ぐらい,近くにいる娘が来てくれる。妻は腰を痛めて3ヶ月入院して退院したばかり。週2〜3回通院していて,4時ぐらいに帰宅予定。病院から付き添いの人が来て送り迎えしてくれる。

・50〜60代女性。東灘区で被災。この復興住宅に入居して1〜2年。退院してきたばかりで寝たきりに近い状態。娘もお腹が大きく,危険な状態。訪問されても困るので,遠慮してほしい。(そのこと以外では)今,特に困っていることはない。20年前,東灘で被災した当時もたいへんで,思い出したくないこともあるので…。<お電話にてお話し伺い>

・40〜50代女性。西区で被災。とくに被害はなかった。電気はその日のうちに復旧し,ガスも短期間で復旧したが,水道は復旧までに1ヶ月かかった。水は近くの工場から分けてもらえたので助かった。この復興住宅に入居して5年。特に困っていることはない。<インターホン越しに応答>

・50代?女性。北区で被災。タンスが倒れてきたぐらいで,とくに被害はなかった。義母や妹らが避難してきていた。水道が止まって風呂に入れなかったこともあった。この復興住宅に入居して3年。夫と子どもと暮らす。身体は特に悪いところはない。<インターホン越しに応答>

・60代女性。中央区で被災。ケガなどはしなかった。社宅に避難させてもらったので,仮設住宅には入っていない。この復興住宅に入居して15〜16年。できてすぐ入った。困っていることはない。健康状態は大丈夫。<インターホン越しに応答>

・少女。留守番中。学校で今は,広島の水害について習っている。毎年1月になると,神戸の地震のことを習って,「しあわせ運べるように」を歌ったりする。<予定時刻を遅れて訪問,インターホン越しに応答>

・50〜60代男性。「いいです。時間何時や思てんねん!?」<予定時刻を遅れて訪問,インターホン越しに応答>

・50〜60代女性。「今,パソコン使こうて仕事してるんで…。」<予定時刻を遅れて訪問,ドアを開けて応答>

・60〜70代男性。「気分悪いので…。」<予定時刻を遅れて訪問,インターホン越しに応答>

2014-11-24 ↑TOP


第42(新生167)回訪問活動準備 (2014/11/14) レポート〈貝原俊民・前兵庫県知事死去と衆議院解散総選挙のはざまで〉

神戸市営住宅・ベルデ名谷 晩秋の色づき毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧くださいまして,まことにありがとうございます。

2014年の秋〜冬季も,神戸・週末ボランティア 新生では,「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」というテーマのもとで,阪神淡路大震災の被災者が暮らす,神戸市郊外の復興住宅(神戸市営住宅・ベルデ名谷,垂水区)への訪問活動をさせていただくことにしました。今回も,訪問活動前の準備をレポートしたいと思います。

この日は,11月15日・16日の訪問活動に備え,現地を訪ね,訪問先のお宅を選定し,ドアポストに,夏季をふり返って若干の改良を加えた,「予告ビラ」を投函してきました。また,その3週間後の12月6日・7日に予定している箇所へも足を運び,情況を確認し,あわせて対話を実現し,当ボランティアについての理解を深めていただく機会ができました。

この復興住宅での訪問活動は,毎回,違った棟やブロックを3箇所ほど選んで行っていましたが,世帯数が多い棟・ブロックへの訪問が進んでいないことから,この秋〜冬季は,そうしたところを集中的にお訪ねさせていただくことにしました。

2013年までと比べ,秋の深まりが早かったことから,出歩く方も心なしか少なくなっていたにもかかわらず,何人かの方にお声がけして,対話を実現することができました。

神戸市営住宅・ベルデ名谷 救急搬送される住民を見守るまた,今季に訪問させていただく棟ではなかったのですが,救急車がちょうどやってきていました。横付けされた階下で,数人の住民の方が,心配そうに見守っている中,ストレッチャーに乗せられた高齢男性が搬送されていきました。早く回復して,もとの生活に戻れることをお祈りしたいと思います。

夏季の訪問活動の集約が遅くなったほか,諸般の事情で,今季の訪問活動は,スケジュールの設定や準備が直前にずれ込んでしまいました。12月は,年末近くを避けたいのと,11月は,第4週が連休の上,神戸マラソンが行われるほか,行楽シーズンとなって外出などが多くなることが予想されるため,いずれもその前の週に設定したいことから,こうした日程になりました。

プレスリリースも行いましたが,そうした矢先に,貝原俊民・前兵庫県知事死去のニュースが入り,地方紙や地方版を中心に関連・特集記事が増え,ご紹介いただける状況ではなくなってしまいました。

阪神淡路大震災を挟んで,バブル期から復興途上までに渡って在任した,貝原俊民・前兵庫県知事については,復興行政のあり方・進め方に賛否両論ある中,引退後は,震災復興関連団体の役員を務めるなどしてきており,最期となった日もまたその途上にあったと伝えられています。阪神淡路大震災20年を控え,そのあり方を検証されるべきところでしたが,教訓を後世に伝える取り組みを続ける立場からすれば,追悼ムードがつくりだされ,そうした機運がそがれてしまうことが懸念されます。

当ボランティアでは,

この訪問活動は、10年ほど前に、「お話し伺い」に廻ったグループ「週末ボランティア」の有志である主宰者が、新たなグループとメンバーで始めたものです。
神戸市内各所の仮設住宅や復興住宅を廻ってきた経験を顧みて活かしたいと思います。
よろしくお願いします。

としているように,常にそれにふさわしいものとして,臨む決意でいます。

それとともに,衆議院解散と,それに伴う年内の総選挙が,にわかに現実味を帯びてきていました。訪問活動日が投票日の前の週になって,重なりこそしないものの,選挙戦真っ只中となってしまいます。これまでは,選挙までの1ヶ月ほどには訪問活動を行わないようにしてきましたが,今回は,延期・代替が困難なことから,予定通り行うことにしました。

これもまた,

宗教や政党などまったく関係のない民間のボランティアです。
寄付や署名の要請、投票依頼、販売行為などはいっさいしませんので、ご安心ください。

との当ボランティアが堅持する原則が浸透していることで,ご理解いただけるだろうとの判断です。


この日伺ったところの概略です。

・70〜80代男性。(薄着に見えたので「寒くないですか?」と尋ねたところ)「ヒートテックで,わりと暖かい」,(お困りのことは?)「(身体が大きいので,搬送されたりしたときなど)入るとこない…。」<救急搬送される住民を見守っている中でお話し伺い>

・70代女性。「ちょっと前に市の方から来てたけど…。」<玄関前廊下で。「民間のボランティアなので,行政などの公的機関に言えなかったこと,言ってもダメだったことなどもご遠慮なく」と訪問活動の趣旨と,来12月に伺う旨を説明>

・70代女性。「何のボランティア?」<玄関前廊下で。「震災の時のことや,今お困りのことなどをお伺いするボランティアです」と活動の趣旨と,来12月に伺う旨を説明>

・70代男性。「はい。」<訪問予定のお宅がある棟で出会ったので「お出かけですか?」とお声がけ,「行ってらっしゃい」と見送った。>

・60代男性。「ホラ早くこっちおいで」と,散歩している犬に声をかけていた。<夕暮れ近くになって犬の散歩中に出会う>

・60代女性。「おじいちゃん犬なので…。」<住宅内の坂道で犬の散歩中にお声がけ>

2014-11-24 ↑TOP


第41(新生166)回訪問活動 (2014/09/07) レポート〈今季のまとめと震災20年への展望,仮設・復興住宅訪問通算608回〉

垂水東口・いかなごのモニュメント 丹波豪雨土砂災害への募金活動をする舞子高生毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧くださいまして,まことにありがとうございます。

そして,阪神淡路大震災20年を控える中で,新たに,或いは今一度,関心をお寄せにな,このページをご覧くださっている方も少なくないと存じます。改めてご挨拶させていただきます。これからもよろしくお願いいたします。

残暑厳しいベルデ名谷4〜7番館不定期でささやかな活動となりましたが,新たな活動主体のもと,2014年の夏季も,神戸・週末ボランティア 新生では,「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」というテーマのもとで,この夏季も,酷暑を避ける形でスケジュールを組み,阪神淡路大震災の被災者が暮らす,神戸市郊外の復興住宅(神戸市営住宅・ベルデ名谷,垂水区)への訪問活動をさせていただきました。

このシーズン8回にわたった取り組みの総仕上げとなったこの日の訪問活動は,前日に引き続き,暑さもやわらぎ,好天に恵まれたなかで,行うことができました。

アライグマに注意! これではかえって危ないでしょ!?ボランティアの集合場所としている,垂水東口のいかなごのモニュメントがある広場や,その近辺では,昨日に続き,県立舞子高校防災科の生徒さんが,丹波や広島の豪雨土砂災害の被災者支援のための募金活動に取り組んでいました。見守っている先生の話では,夏休み中ながら,いち早く現地に赴いた生徒もいるとのことで,現地での情報収集に当たった行動力と判断力に頼もしさを覚えました。

神戸市営住宅・ベルデ名谷3番館横近く訪問活動では,前日以上に多くの方々と対話を実現し,貴重で充実した「お話し伺い」ができましたことに,感謝したいと思います。同時に,前回同様,いやそれ以上に,予定時刻(午後2〜5時)を大幅に過ぎてお伺いするところが続き,最終的に終了したのは7時半過ぎと,新たな活動主体となって2番目といっていいものになりました(ちなみに,もっとも遅くまで延びたのは,昨2013年4月13日,淡路島地震が発生した日で,あわせて,旧グループ以来の支援活動が通算600回に達した日でした)。

もっとも,旧グループにおいて,仮設住宅訪問を行っていた頃には,話し込んで深夜近くに及ぶケースもありましたが,そういった場合でも,訪問自体は予定時間内から始まっていたものでした。

遅くなってお伺いしたことに,お詫び申し上げますとともに,そうした無礼・失礼にもかかわらず,お話し伺いに応じてくださった方々に,改めてお礼申し上げます。

夕暮れのベルデ名谷5〜7番館この日に予定していた訪問活動をすべて終えた頃には,すっかり陽も暮れ,わずかな残照が,住宅の間から,西の空に見えました。日が短くなったところに,秋の訪れを感じました。

今2014年に入って,とりわけこの夏以降,さまざまなメディアが蓄積してきた,或いは新たに収集した情報発信がみられます。とりわけ地方自治体などの公的機関などの行政サイドから,聞き取り調査やウェブサイトなどを通じた情報発信の動きが,みられるようになってきました。その一方で,支援活動における世代交代の動きも進むようになり,地域コミュニティーや住民自治,互助活動などでも,同じような傾向にあるようです。

「最後の復興住宅」といわれるこのベルデ名谷においては,その当初から,行政サイドの主導下で,自治会づくりが進められるなど,地域コミュニティーの「上からの組織化」がはかられていました。これは,阪神淡路大震災以降,被災地各所で展開されてきた,仮設住宅・復興住宅における被災者自身やさまざまな支援活動に対して,いわば行政サイドが教訓化して,イニシアティブを発揮しようとしたと言えるものでした。それが,歳月を経る中で,住民の高齢化が進み,被災経験がなっかたり稀薄であったりする一般入居者が増加するなど,住民の構成やありようが変わる中で,機能不全やムリ・矛盾が生じるようになったことに対して,テコ入れを図り,そうしたものの「モデル地区」にしようと,当ボランティアの訪問の後に,行政の下請的団体などを通じて,予算と人員をつぎ込んで,全戸からの聞き取り調査を予定するという動きに出ているようです。

そうした中で,「宗教や政党などまったく関係のない民間のボランティア」に対する期待とニーズが,いっそう鮮明に浮き彫りになり,さらにはミッションも明確化していくことが解ります。

行政や公的機関に言えないこと,言ってもダメだったこと,近所づきあいや人間関係から遠慮して,住民同士では言えなかったり言いにくかったりすることなど,本音を語ってくださる方も多くなっています。もちろん,プライバシーや守秘義務,それ以前に道義的観点から,それらの内容については公表できないものも少なからずありますが,いっさいのしがらみのない,私たちを,信頼してくださっていることに感謝したいと思います。

こうした期待に応えるべく,これからもいっそうしっかり傾聴させていただきたいと思います。このことがすなわち,阪神淡路大震災以降盛んに言われるようになった,「心のケア」の原点になるものですから。また,そうした「上から」の動きへのオルタナティブはもちろん,時にはカウンターとなることも重要です。

そしてもうひとつ。当ボランティアの特徴は,あくまで「外部」として関わることです。そうした立場ならではのミッションを自覚して取り組んでいきたいと思います。

新たな活動主体のもとリフレッシュスタートしてからは初めてとなりますが,旧グループを含めれば約10年ぶりとなる,この復興住宅への訪問活動には,旧グループでの訪問活動に期待を持つ方もいらっしゃれば,そうでない方もいらっしゃるのは,当然です。それらを受け止め,糧とするべく,私たちボランティアも,心の余裕を持てるようになってきたのではと思います。

この1年あまりにわたって,半分以上のお宅を廻らせていただいた中で,いい意味で,定着しているのが実感できることに,感謝したいと思います。

次回の訪問活動は,早くて晩秋,遅ければ冬になってからになるでしょう。阪神淡路大震災20年に向けて大詰めを迎える時期になりますが,この夏の集中的な取り組みを,次回,次のシーズンに,備えたいと思います。それまでしばしの間,ごきげんよう。

ご参加,ご協力いただいた皆さんをはじめ,弊サイトThis is 神戸・週末ボランティアや,MixiコミュニティMixiページFacebookページtwitter - welove_kobeを通じてご縁をいただいております,すべての皆さんとともに,成果を分かちあえますことに感謝したいと思います。


この日伺ったところの概略です。

・70代女性。長田区で全壊。1階にいた娘も無事だった。火の粉が飛んでくる中,家が倒れてきて,まっすぐ逃げられず,がれきを避けながら逃げた。途中,歩けないおばあちゃんがいたので,買い物のカートに乗せて一緒に逃げた。近くの小学校に避難しようとしたら,近くまで火が迫っていたので,別の小学校の避難所へ向かったら,来るのが遅かったのか,居場所がなく,校庭にいた。たき火をしてカレーを作ったりしていた。ぎりぎりで焼け止まって大丈夫そうだったので,先の小学校に戻って避難することに。風向きが変わり,そこまで火が回らなかったようだ。かつて拝んだ田舎の氏神様が火の神様で,守ってくれたのだろうか。西区の仮設住宅へ。(壊れた家の)近くの公園にも仮設住宅があるのに,何でこんなところに,と思いながらやってきた。雨が降ったらすぐ水が溜まってたいへんだった。野犬が怖かった。仮設住宅から何とか歩いていけない距離ではないところのコープさんの組合員が増えて買い物が便利になったのと,病院に行くのにバス停が近かったことは助かった。(難儀しているのは)私だけじゃないし,楽してる人は居らんと思えるようになった。この復興住宅の竣工まで,1年余計に待って,最後までいた。当時はまだ若かったから,あちこち見て回ったが,ここだけはイヤだと思っていたら当たってしまった。この復興住宅に入居して16年。ここにはできた最初から入居している。出かけるときは手すりを伝って,エレベーターを乗り継いでいく。クーラーや扇風機は使わない。風が当たるところで寝る。玄関の鍵穴に接着剤を流し込まれる被害に2度も遭い,修理代が高くかかった。手足の痛みに薬がなかなか効かずたいへんだ。人の世話にはなりたくないと,一生懸命で,ようやっとのことでできるのに,わざと大げさにしんどがってると思われるのが辛い。リュックに手を通すときがいたい。リハビリに週3回,デイケアに週2回通っている。帰ってくるとどっとしんどい。生きるのはたいへんなことだと思う。長生きの家系で,みな90過ぎまで生きていて,中には102歳まで生きた人も。うちの中にいると調子悪い。人の中にいないと,何で生きてなあかんのと,暗いことばかり考え,自殺を考えたことも。思い詰めるといけないので,外出するようにしている。終戦の日,まだ燃えた家がくすぶっていて,水汲みに来た女学生に「この子らかわいそう」と言われて泣いていたのを思い出す。若い頃,東京の女中に出たとき,お腹が空いて辛かったが,ぎりぎりのところで死ねなかった。ここはアンケートや宗教の勧誘が多い。当ボランティアの予告ビラを入れてからの1週間の間にも,それぞれしつこく来たが,それでかえって,ボランティアとの違いがハッキリ分かったのでと,お話し伺いに応じてくださった。

・80代女性。東灘区で全壊。この復興住宅に入居して16年。ここにはできた最初からいる。ここへ来て身体よくなった。空気がいいので…。被災時,両足をはさまれたが,すき間から見つけてくれた近所の人に助けられた。長年,勤めの傍ら,ボランティアで踊りを教えてきた。自身でも色々な催しで出演してきた。踊りは2歳から始めていて,ロックやジャズもこなす。高齢者施設に行って教えることもあれば,自腹で集会所などの施設を確保して教えたりすることも。この復興住宅に入居してからも続けていて,この住宅裏のグラウンドで盆踊りをしたときも教えていた。テレビを見て振り付けを考える。集会所で子どもたちに踊りを教えるのが夢。この棟の自治会長(だった方)から頼まれて,近所の世話をしている。ヘルパーに来てもらって足湯をしてもらったら,熱すぎて火傷してしまった。補償はなく,その時は自殺も考えた。椅子に座るのはいいが,正座はできない,自分で工夫して,靴も障害者用の着脱しやすくされたものに。見かけは何ともないがしびれる。泣いては前に進めない自分一人で泣いていたら済む,人の前ではダメと,何とかして,少しずつ踊った。洗濯や料理は自分でする。買い物はヘルパーに頼むことも。踊りがあったからよかった。米寿のお祝いに踊った。軽い脳梗塞になったこともあるが,今は何でもできる。今の人との違いをひしひしと思うことがある。人の温かみがない,思いやりがないと思うことも。人間はお金をもつと変わってしまう。亡くなった夫は囲碁の先生をしていて,「何かあっても,いい時のことを思って前へ前へ進め!」と言っていた。このことを若い人に言いたい。想い出は多い方がいい。趣味がある人とない人とでは強さが違う。色々なことを引きずっていては,前に進めない。自分も強くなった。泣き言は言わない。<予定時刻を遅れて訪問,買い物に行ってくれている踊り仲間が来訪していた。踊っているときや教えているときの写真を見せていただきながら,玄関内でお話し伺い>

・70代女性。灘区で全壊。警察署のあたりから火が回ってきて,うちの近くまですっかり焼けたが,風向きが変わって焼け止まり,うちは助かった。家具も何もかも失った。近くの小学校に避難し4ヶ月を過ごした。「助けて」と言われても助けられなかったことから,そこでも何かしようと思い,地区の自治会で炊き出しをしたり,玄関前で案内係をしたりした。北区の仮設住宅では4年いた。仮設住宅の立ち退きが遅かったので,ここへはいちばん遅くに入った。結構すごかった。この復興住宅に入居して16年。近所づきあいが難しいと感じることも。「最後の復興住宅」だから…。命が助かったから何か奉仕活動をしたいと思い,その後も色々なボランティア活動に。県関係の活動を主にしてきて,のじぎく国体や淡路花博ののお手伝いもした。1月17日の三宮・東遊園地での炊き出しも。各地からの人と交流すると,すごいなあと思うことも。色々勉強させてもらった。何か一生懸命にしていないと生きてられへん。ボランティアが好き。変な人が来ないから。震災20年に向けて,と思っていたが,目の調子が悪くなってきたので,ボランティアはやめようと思った。今は目薬で何とかしているが,近々白内障の手術をしなければ…。ボランティアが訪問したときは,近くのスーパー銭湯から帰ってきたところだった。風呂に行くのは楽しい。<予定時刻を遅れて訪問>

・80代男性。長田区で全壊。被災時は自宅近くの病院に入院していたが,家を観に行ったらつぶれていた。母とともにしばらく住んだあと,西区の仮設住宅に入居,そこには3年居た。。この復興住宅に入居して16年。早期竣工予定の2棟を建設中に見に来たこともあったが,その際,パンフレットには「動く歩道」ができると書いてあったのに,途中で会社がつぶれたのか,できないままになっている。不便や。「動く歩道」をつくってほしい。できんことない。そうしてくれたら年寄りは楽なのに。この部屋は,西日が入るが,風が通るので涼しい。網戸はかけているが,ドアポストが使えない。外出時には「シルバーカー」,押し車の歩行器を使用。杖より楽。市は,税金を収めている人に米寿のお祝いをしない。昨日まで住宅側の病院に入院していた。検査をしたが詳細は不明。

・70代女性。兵庫区で全壊。マンションだったが,住居になっている2階が事務所になっている1階を押しつぶし,誰かいたらけが人が出るところだった。垂水区にいた姉がいちばんに駆けつけてくれた。身内にけが人はいなかった。ストレスで舌を噛んで,ものが食べられなくなったことも。西区の仮設住宅へ。風で飛ばされたりしないよう,ワイヤーロープを張っていた。すきま風がひどかった。部屋のすぐ前がいきなり広場なので,覗かれたり,声をかけられたりすると怖かった。ユニットバスが使いにくかった。ここの階段はたいへん。(当初できるとされていた)「動く歩道」がなくなっていた…。被災前に住んでいた近くに借り上げ復興住宅があるが,20年の期限が来るから出ていてというのはひどい。<この復興住宅に入居して親しくなった方と一緒にお話し伺い>

・80代女性。一人暮らし。兵庫区で半壊。兵庫区内の仮設住宅へ。よく覚えていないが街中だった。この復興住宅に入居して16年。身体は元気で病院いらず。外出時は押し車の歩行器を使用。買い物は週1回のヘルパーに頼むが,食べ物をつくるのが好きで,おかずは自分でつくる。近所づきあいはしている。仲良くしている人がいて,何かあったととき来てくれる。何も辛いことはない。父母を早くに亡くし,子どもも亡くなった。戦後間もなく,戦争中に患った病気がもとで,夫を亡くしたが,この人以外には考えられないと,再婚はせず,一途に貫いた。たった一人,それがたいへん。戦争中を乗り越えてきたから何でもできる。成せば成る。人を助けると必ず自分も助けられる。<来意を告げたところ,しばらくして出てこられた。玄関前でお話し伺い>

・80代女性。東灘区で半壊。住んでいたのは長屋だった。避難所に迎えに来てくれた息子宅へ。仮設住宅は六甲アイランドに。浜の方だったが,2部屋あって,目隠しがしてあったのと,風呂とトイレが別になっていたことなど,(粗末なプレハブではなく)大手住宅メーカーがつくったものだったので,まだよかった。3〜4年過ごし,最後までいた。もともと住んでいた東灘区の復興住宅には,もともと市営住宅に入っていた人を優先するとのことで,入れなかった。この復興住宅に入居して15年。ここに来て仲良しの友だちができた。以前,一緒にテレビに映ったこともある。この頃は敬老祝いの行事がある。顔色がいいのは顔剃りをしてきたからと,にこやかにお話し伺いに応じてくださった。<この復興住宅に入居して親しくなった方と一緒にお話し伺い>

・90代・80代夫婦2人暮らし。兵庫区で全壊。避難所は長田区や北区まで転々とした。仮設住宅には行かなかった。この復興住宅に入居して16年。あっちこっち申し込んでもダメで,市営住宅がなかなか当たらず,最後にやっとここが当たった。ちゃんとした家が当たらず,困っていた。ここへ来るまでにだいぶかかった。年寄り向けでええよと言われて来ることに。ここでの生活は慣れた。ちゃんとしてもらっていることに感謝している。こけるから外出できない。80歳頃までは自分の歯があった。こけたときに歯を傷めて,抜かなければならなくなり,入れ歯になったとき,死ぬことだけを考えていた。夫が買い物や,身の回りのことをしてくれる。夫がいてくれたから,ここまで生きてこられた。

・50代女性。垂水区で半壊。この復興住宅に入居して16年。夫婦と4人の子どもの6人家族で入居したので,狭かった。建物のあちこちにひび割れや汚れが目立つなど,ちゃちい造りだ。換気扇の修繕も自己負担だったが,風呂の給湯は公費から出た。竣工後最初から入居しているが,一般入居で入った。今日は夫が犬の散歩をしていたが,娘がすることも。以前はもっと大きな犬を飼っていて,近所づきあいがたいへんだった。長女が同じ復興住宅の別の棟に住んでいて,これから帰るところ。孫も来ていて,送迎バスで保育園に通っている。たまに近くのスーパー銭湯に行く。<向かう途中,エレベータで犬の散歩帰りの御主人と一緒になったため,そのまま同行。予定時刻を遅れて訪問>

・70代女性。長田区で全壊。(長田区でも被害が少ない地域だったが)あの辺で全壊したのはうちだけだった。西区の子どものマンションに行ったので,仮設住宅には入っていない。この復興住宅に入居して15年。竣工から1年遅れて入った。七区なので嬉しかった。入居当初は,仕事をしていたので,やめてから近所づきあいが始まった。今も車を運転して,友人の風呂や買い物も引き受ける。ここに来て仲良しの友だちができた。いつも三人一緒。以前,一緒にテレビに映ったこともある。ここの並びはつきあいがあるが,他はつきあいがないところも…。もうすぐ役所の方からも何か聞きに来るみたい。<この復興住宅に入居して親しくなった方と一緒にお話し伺い>

・70代女性。兵庫区で半壊。近くの小学校の避難所には,子どもだけが行って,透析患者だった夫は家で寝ていた。仮設住宅がなかなか当たらず,3回目でやっと当たったのは加古川だった。夫を自衛隊が来て連れて行ってくれたが,その年のうちに亡くなった。仮設住宅で3〜4年過ごした後,垂水区内の賃貸住宅へ。太陽の光も入らない,暗くて臭うところで8ヶ月過ごし,復興住宅の完成と入居を待った。この復興住宅に入居して15〜16年。近所づきあいは普通。身体は悪いとことはない。足腰も大丈夫。ここはいいところ。山歩きもしている。<予定時刻を遅れて訪問,自身でシート記入の上お話し伺い>

・80代女性。3月に訪問させていただいて以来,半年ぶりに再会。カートを杖代わりにして,ゴミを捨ててきたところとのこと。前に会ったときは杖をついていなかったのに…。土・日はLSA(Life Support Adviser 生活支援員)もいない。そのため「3日食べていない」という人のお世話にいっているところ。何かあったら電話してくる人なのだが…。行政の「見守り」だけではダメ。だから民間のボランティアにがんばってほしい。<訪問活動中にお会いした>

・40〜50代女性。この復興住宅に入居して15年。神戸で被災した母は,避難所や仮設住宅などには行かず,当時自分がいた県外に来た。市営住宅を申し込んで当たったので,ここで同居することにした。ここにはもう慣れた。高齢の母の介護をしている。足が特に不自由で,外出すると危ないのであまり出ない。<インターホン越しに応答>

・50代男性。垂水区で被災。家財・身体とも被害は特になかった。この復興住宅に入居して10年近く。ここへは市営住宅の一般入居で入った。糖尿病や合併症などの治療を続けているが,調子はボチボチ。仕事はバスで垂水へ。すぐに行けるところで,内職みたいな仕事をしている。<予定時刻を遅れて訪問,玄関前でお話し伺い>

・70代男性。(このたびは別の調査と)かち合いますので…,うちはいいです。「いいです。」<玄関で応答。自身でシート記入されたが,挨拶をかねて,ボランティアの趣旨説明>

・40代女性「(今日も)ボランティアですか?」<訪問翌日に住宅内のエレベーターに乗り合わせる。ボランティアの趣旨などを説明>

・70代男性。この復興住宅に入居して5年。一般入居で,地震の経験はない。<インターホン越しに応答。予定時刻を遅れて訪問>

・70〜80代男性。「ごめん,風呂入ってる。」<浴室内から応答。訪問が遅くなったことのお詫びとあいさつ程度の対話に>

2014-11-08 ↑TOP


第40(新生165)回訪問活動 (2014/09/06) レポート〈民間ボランティアならではのミッションは?,仮設・復興住宅訪問通算607回〉

垂水東口・民俗芸能祭 in ひょうご毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧くださいまして,まことにありがとうございます。

そして,阪神淡路大震災20年を控える中で,新たに,或いは今一度,関心をお寄せにな,このページをご覧くださっている方も少なくないと存じます。改めてご挨拶させていただきます。これからもよろしくお願いいたします。

不定期でささやかな活動となりましたが,新たな活動主体のもと,2014年の夏季も,神戸・週末ボランティア 新生では,「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」というテーマのもとで,この夏季も,酷暑を避ける形でスケジュールを組み,阪神淡路大震災の被災者が暮らす,神戸市郊外の復興住宅(神戸市営住宅・ベルデ名谷,垂水区)への訪問活動をさせていただきました。

昨年同時期と同じく,集中的に,同じ復興住宅をお訪ねしていますが,この日も好天に恵まれながらも,昨年同時期より暑さもやわらぎ,過ごしやすい天候でした。住宅内でお会いした方も,訪問に応じてくださった方も多く,貴重な,充実した「お話し伺い」を実現することができました。

神戸市営住宅・ベルデ名谷入口附近から1番館方面を望む復興住宅現地に向かう前に,垂水東口のいかなごのモニュメントに集合しています。このモニュメントがある広場は,再開発ビル・レバンテ垂水に隣接していますが,これは,震災後であっても,被災者が優先入居する復興住宅とは違うものです。広場では,週末さまざまなイベントが行われることがありますが,この日は,民俗芸能祭 in ひょうごが行われ,神戸市内に限らず,兵庫県内各地に伝わる,獅子舞,だんじり囃子,和太鼓演奏などが行われ,大勢の人出でにぎわっていました。その近くでは,舞子高校防災科の生徒さんらが,丹波や広島の豪雨土砂災害の支援募金を呼びかけ,教職員の方が見守っていました。

この日のお話し伺いの中でも,こうした丹波や広島の被災地・被災者を思いやる声も聞かれました。神戸やその周辺も古くから大小の豪雨土砂災害に見舞われていることから,それらを思い出される方もありました。,

ストップ! アライグマ しましまシッポにご要心!そうした中で,新たに参加してくれたメンバーとともに,復興住宅現地に向かいました。集合場所や,現地に向かうバスの中で,訪問活動の手順などを説明し,現地では,住宅内の最も高い,見晴らしのきく場所から,周囲の情況を含め,概要を知ってもらうようにしました。

フレッシュな視点から見た,復興住宅の第一印象は,全体(建物)の印象はさびしい感じで,高齢者にはきついだろう高層マンションは,きれいだが,そのことが余計さびしい,といったものでした。大学で防災について学んできたということで,対話の中でも,そうした問題意識を活かしてもらえればと思いましたが,励ましを戴く場面もありました。学ばせていただいただけでなく,成長させていただく機会となりましたことに,感謝したいと思います。

今回も,予定した時間を大幅に遅れての訪問が続き,夕食の時間帯におじゃましたところもありました。重ねて失礼をお詫びいたします。

この日お訪ねしたお宅への「予告ビラ」の投函は,前の週末の準備日(8月29日)や訪問日(8月30日8月31日)に行い,その過程でも対話を実現してたこともあって,理解と浸透が進んでいることを,実感させていただけるものでした。これにも感謝したいと思います。

神戸市営住宅・ベルデ名谷1番館にて訪問活動をさせていただく中で,とくに注意したのは,その場所ならではの問題を,それが顕著になる時期に伺うことでした。そうした方法が効果的な問題発見につながると考えてのことでした。そこからさらに深く掘り下げ,広げていきました。

浸透していく中で,いっそうさまざまなシチュエーションに出会います。快く受け入れてくださるだけでなく,不要とされる方や,受け入れてくださらない方もおられます。また,他の支援やサポートとのかねあいもあります。そうした中で,何ができるのか,何をなすべきかといったニーズとのマッチングをはかるなかから,「宗教や政党などまったく関係のない民間のボランティア」ならではのミッションが明確化されていきます。

ご参加,ご協力いただいた皆さんをはじめ,弊サイトThis is 神戸・週末ボランティアや,MixiコミュニティMixiページFacebookページtwitter - welove_kobeを通じてご縁をいただいております,すべての皆さんとともに,成果を分かちあえますことに感謝したいと思います。


この日伺ったところの概略です。

・80代女性。兵庫区で全壊。つぶれた屋根から空が見えた。3〜4回申し込んでやっと当たった西区の仮設住宅は大規模なところでだった。全国から色々なボランティアがよく来てくれて,感謝している。年末の餅つきでお世話になった。その頃の写真を残している。他の棟では亡くなった人もいたし,酒呑みもいた。最後までいて,9戸残ったうちの1戸に。この復興住宅よりも,仮設住宅にいたときの方が(つきあいがあって)よかった。この復興住宅に入居して15年。ここへは4回の抽選で入居できた。ここに来て10年ほどたった頃,ボランティアを名乗る押し売りに騙されたことがあり,換気扇のフィルターを交換して高額請求された。他にも送りつけ詐欺などもあったが,こうした人たちはグルになって組んでいたようで,今は来なくなった。うちにいるときはテレビを見ていることが多い。安物は危ないということで,扇風機は一流メーカー製のものに。80までは元気だったが最近は…。3年ほど前までは,仮設住宅からのつきあいもあった。最年長の人は102歳まで元気で,一緒に麻雀をしたらいつも勝っていた。やはりもう亡くなった方が,95〜96歳の頃「あと百万しかあらへん。長生きしたない」といっていたのを思い出す。5年ぐらい前までは元気で,住宅の周囲の草引きをしたり,鉢植えの植木の世話などをしていた。人形の服もつくっていた。毎年1月には,湊川神社にお礼かたがた参拝していた。着物は妹に着付けてもらっていた。昔,親がお金が少ない中で買ってくれたものなので,嫁に来たときの着物を何着か今も大切にもっている。今は行っていないが,ラジオ体操をする高齢者がいる。こけてすりむいて,住宅近くの病院に行った。ほんとうはもっと動きたいが,ヒョロヒョロする。頭がフラフラするので,外出は娘さんと一緒に。通院の他,買い物に週1回名谷の須磨大丸まで行くぐらい。杖を持っていると買ったものが持てない。タクシー代がたいへん。冷たいものが苦手で,夏に生まれ故郷で飲んだら気分が悪くなった。熱中症になり,救急搬送された。デイサービスのヨガに行っているが,今週は休んだ。今の人もたいへんだが,昔の人もたいへんだった。戦争に行った身内はみな,内地であってもたいへんで,亡くなった人もいた。夫も戦争中に患ったマラリアが遠因で亡くなり,最近50回忌を済ませたところ。15年しか一緒にいられれなかった。昨2013年4月の淡路島地震のときはあまり揺れを感じず,怖くなかった。二百十日も近くなってくると(台風による被害は増えて),昔も大雨で山崩れして家が流されたりしたのを思い出す。広島の人も泥んこになって気の毒。いつまで続くのやら…。防災について学んでいる学生のボランティアが,役所に望むことは?と尋ねたところ,「もうじき逝くから…」とのことだったが,「がんばって」と励ましてくださった。

・90代女性。須磨区で全壊。この復興住宅に入居して15〜6年。地震のときは出かけていたので,ケガなどはしなかったが,急いで帰って見たら,2階建ての文化住宅の1階がつぶれていた。着の身着のままで,近くの学校に避難した。西区の仮設住宅へ。それほど長くいたという感じはしていない。仮設住宅では老人会の会長さんに可愛がられ,何かと助かった。引越のときの粗ゴミも捨ててもらった。この復興住宅に入居して16年。初めは別の復興住宅を申し込んだが,2度目のとき,ここへ見学に連れてきてもらい,申し込んだ。エアコンが3年前に壊れたが,そのままにしている。エアコンを使うのはもったいないので,扇風機で済ませている。昨日,掃除機も壊れた。近所の人が家電量販店に行くのに連れて行ってもらうことにしている。手芸で気が紛れる。「あんしん缶」を備えている。別の棟に住む人に世話を頼んでいる。言葉がすっと出てこない。耳が遠くなった。文字を読んでも頭に入ってこない。テレビをつけたままボーッとしていることが多い。テレビは早口で聞き取りにくい。お笑いが特にダメ。スポーツ観戦やアニメはきらい。浴室は物置に。不自由なのは買い物。水分を取ったら汗をかくし,トイレも行かなあかん。銭湯に行ってサッパリしてくる。住宅近くのスーパー銭湯に行った帰りに,コンビニで買い物する。膝が痛い。じっと止まって再び歩き出すのがたいへん。近所の人が転んで顔まで打ってしまったのを見て怖くなった。足首に転ばないためのおまじないを巻いている。転んだらアカンと杖をついている。自分でできることは自分でしようと思っている。ヘルパーは気を遣うので来てもらっていない。辛いものは苦手。内臓は悪くないが,総入れ歯のため食が細くなった。味付けが下手で,毎日が同じようなものを食べている。戦後何年かして神戸に戻ってきたら,親兄弟も亡くなっていた。手芸を一緒にしていた友人も4〜5年前に亡くなり,近所づきあいもだんだんなくなった。人に迷惑かけないようにと思っている。坂がたいへんだが,運動になっていいかなとも思っている。この復興住宅でも,亡くなった人や,子どもに迎えに来てもらっていった人も多い。ここではみな親切にしてくれる。不自由はない。一人暮らしが多く,ゴミ袋が一人では大きすぎるので,ゴミも一緒に捨ててくれたりする。今まで貧乏暮らしはしていないので,日々楽しく暮らしている。変な死に方はしたくないと,仏様を拝んでいる。週1回,友愛訪問活動で訪ねてきてくれたり,月1〜2回,自治会長さんら3〜4人が廻ってくれている。

・70代女性。東灘区で被災。とくに被害はなかったが,「下の方はえらいことになってる」と,様子を見にいった夫がびっくりしていた。ガスや電気が止まった。水くみにも行った。怖い思いはしていない。職場からはしばらく自宅待機となった。会社の保養所で働いて10年目で,職場のつながりが深く,懇意になっていた上司や会社が何かと助けてくれた。以前は長田で商売をしていたが,スーパーの進出で周囲でも店をやめていったので,やめることにした。それまで苦労したことがなかったので,商売をやめてからはほんとうにたいへんだった。仕事で色々苦労したが,勉強になった。色々経験できてよかった。会社の独身寮の賄いや管理人になった。月に1回,新卒男子社員のために大きな鍋でカレーを作ったら喜んでくれた。やがて同じ会社の保養所に異動したら,窓ガラスをピカピカに磨いたり,お客さんのスリッパの中まで拭いたりと,仲居さんのような仕事を厳しくしつけられ,ほとんどすべての人が厳しさに耐えかねて短期間でやめていく中,がんばったことで,震災時に助けてもらえたのだろう。大きな会社に拾ってもらったおかげと感謝している。この復興住宅に入居して15年。被災後も連れ添い,この復興住宅へも一緒に来た夫を亡くし,今は一人暮らし。あまり親しい人はおらず,近所づきあいはあまりない。執着心はない。買い物はバスで垂水や名谷まで行くことも。2〜3年前に白内障の手術でちょっと入院した以外は,病院通いはしていない。<訪問時は「トイレ入ってた」とのことで,しばらくしてから出てこられ,玄関前でお話し伺い>

・70代女性。兵庫区で全壊。北区の仮設住宅で3年過ごした。この復興住宅に入居して15年。地震の時も,仮設住宅でも,ともにがんばり,助けあい,心の支えになってくれていた夫をここへ来てからで亡くした。身の回りのことはまだ自分で出来る。死んだみたいな生活したないし…。住宅近くの病院やスーパーに出かける。どこへ行くにしてもこの坂がたいへん。年を取って,ものを持って帰ってくるとなおさら。建物がしっかりしているので,ここよりええとこには…。不平言いよったら…。震災のことについては今更話すことはない。20年も経っているので忘れなあかん。(東日本大震災や,丹波・広島の豪雨土砂災害など)あっちの方がたいへん。何年経ってもたいへん。それを思うと不平言われへん。(これ以上の支援を受けることなく)生きていかなあかん。<玄関でお話し伺い。予定時刻を遅れて訪問>

・80代?男性。この復興住宅に入居して4〜5年。九州から出てきて神戸にきて久しい。神戸で被災したが,震災の頃のことや,避難所や仮設住宅のことなどは覚えていない。今日は病院に行ってきたが,普段はあまり出かけない。糖尿病を患っているほか,身体全部悪い。3日前に退院してきたところ。ヘルパーに来てもらっている。<予定時刻を遅れて訪問したため夕食時に>

・少女。今,子ども3人だけで留守番をしている。この復興住宅に入居して4年。学校では地震のことについて習っている。被災者の体験談をみんなで話して報告したり討論したりする。「しあわせ運べるように」を歌ったりする。当ボランティアの予告ビラを読んで知っていてくれていた。

・70〜80代男性。熱出て横になっていたところ。息苦しい。(小型酸素呼吸器と薬をみせて)今,これだけしてます。すみません,また日を改めてください。<ドアを開けて応答。予定時刻を遅れて訪問>

・70代男性。もうええわ。この間も会うたところやろ。また今度同じような人が廻ってくるらしいし…。<予定時刻を遅れて訪問したことのお詫びとともにボランティアの趣旨を重ねて説明>

70代男性。「うちはええで…。」<玄関の網戸越しに応答。予定時刻を遅れて訪問したことのお詫びとともにボランティアの趣旨を重ねて説明>

・70代夫婦。ご苦労さまです。ちょっと聞いたげて/それはええわ。「週末ボランティア」は…。<玄関に出て応答。予定時刻を遅れて訪問>

・60〜70代女性。「ごめんね。うちは関係ないから。」<インターホン越しに応答。予定時刻を遅れて訪問>

・40代?女性。「忙しいので…。」<インターホン越しに応答>

・80代女性。「ボランティア要りません。」

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第39(新生164)回訪問活動 (2014/08/31) レポート〈「最後の復興住宅」ベルデ名谷訪問500戸超,仮設・復興住宅訪問通算606回〉

神戸市営住宅・ベルデ名谷3番館横近く毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧くださいまして,まことにありがとうございます。

2014年の夏季も,神戸・週末ボランティア 新生では,「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」というテーマのもとで,阪神淡路大震災の被災者が暮らす,神戸市郊外の復興住宅(神戸市営住宅・ベルデ名谷,垂水区)への訪問活動をさせていただきました。

神戸市営住宅・ベルデ名谷4〜7番館前々日の準備,前日の訪問活動に続いて,この日も好天の中での復興住宅訪問活動となりました。

ウェブサイト等をみて,当ボランティアの活動を知ったという初参加者を迎え,集合場所の垂水東口・いかなごのモニュメント前から,路線バスで現地に向かいました。

ウェブサイトに示しているほか,集合場所や現地に向かう途中でも,活動の流れなどを説明していますが,今回も現地ではまず,住宅内のもっとも見晴らしのいい場所に案内して,周囲の環境や住宅内の様子などを,簡単に知ってもらうことにしました。

また,次週訪問予定のお宅への予告ビラの投函も,一緒に体験してもらうことが出来ました。本来の訪問活動日に,その日の「お話し伺い」に先立って,次回以降分の予告ビラ入れをするのは,旧グループ末期にはよく行っていましたが,不定期化した新たな活動主体のもとでは,初めてとなりました。

竹内三雄 Transfiguration'ENGAGE' ベルデ名谷入口「1回だけでも,初めてでも,お気軽に」と,初めての方にご案内とお誘いをさせていただいていますが,こうして,初参加の方にも,「お話し伺い」〜傾聴ボランティアにとどまらず,方法や過程もあわせて体験してもらえる機会になりました。

毎回の訪問活動では,棟やブロックを異にした3箇所ほどから,30戸近くのお宅をお訪ねしていますが,これも,限られた中でなるべく多くの場面を体験していただけるようにとの配慮からでもあります。

今回もまた,予定よりやや遅くなっての終了となりました。今回も貴重なお話し伺いが実現できましたことに感謝します。また,遅くなりましたことにお詫びします。

このベルデ名谷は「最後の復興住宅」とも言われます。それは,地方自治体が阪神淡路大震災の被災者を優先入居させる公営住宅である復興公営住宅のうち,自治体が直接保有・運営するものとしては,新築竣工が最後になったからでした。

神戸市営住宅・ベルデ名谷1番館近くまた,神戸市内の復興住宅・市営住宅としても屈指の大規模なもので,980戸からなっています。その全980戸のうち,この日で訪問戸数が500戸を超え,過半数を既にお訪ねしたことになります。

当ボランティアがこの復興住宅への訪問を始めたのは,ちょうど1年前のこの日でした。取り組みを開始した当初は,一定の割合でお訪ねし,この地ならではの問題についての提起をと考えていましたが,被災場所から離れ異なった地に切り離されて暮らす被災者・住民の方に出来る限り寄り添うべく,今後も全戸の訪問を目指したいと思います。

阪神淡路大震災の被災地に在る者として視野を広げ経験を積むべく,あわせて,これまでお訪ねしたことのなかった他の復興住宅にも訪問活動を展開していきたいと思います。


この日伺ったところの概略です。

・50代男性。一人暮らし。兵庫区で被災。水屋が倒れたぐらいで,特に被害はなかった。須磨区を経てこの復興住宅に入居して半年。震災があった頃はまだ元気で大工の仕事をしていた。地震の後はわりと仕事があったが,やがて単価が下がってきた。道具代も出ないほどで,やってられないほどにまでなった。寺社建築を扱う宮大工もしていたので,普通の大工より高い工賃・日当を取れていたが,震災で倒壊した寺社が再建するときに,釘などをいっさい使わず木組みする技が求められる伝統建築ではなく,鉄筋コンクリート造などにしてしまったので,仕事が激減した。技術伝承ができず大工が足りないと言われるが,需要があったら息子に仕事を教えてやりたかった…。仕事に使った道具は今も取っているとのことで,一部をみせていただいた。近いところでは三木にもよく買いに行った。長年大事にしてきた道具を処分しようとしたら,古道具屋は二束三文とのことだったのでやめた。職人でないと価値判らん。仕事で酷使したためか,手首を初め,肩から指にかけてしびれるようになり,4年前に頸椎を手術をしたが,その後2年ムリしたため,手の感覚がなくなり,熱さや痛みが判らなくなった。腕が上がらず,着替えなども不便。痛み止めも何種類も処方されているが,気分が悪くなるので,出されても飲まないものも。糖尿病も患っているが,インシュリン注射などはせず,薬でめまいや数値を抑えている。甘いものがダメなど,食べ物にも気をつけている。若い頃は年金も払えていたが,仕事仲間でも払えない人ばかりで,将来に不安を覚えていた。一時は復帰をめざしたが,周囲に迷惑がかかるので諦めて3〜4年になる。役所に相談に行ったら,人間じゃないみたいな対応をされた。役所の対応にイライラさせられることが多い。この部屋でこの夏を網戸なしで過ごした。つけてもらえるんだろうか? ヘルパーを頼んだり,デイサービスを利用したりもするが,洗濯などは自分で。汚いのがきらいと,部屋はきれいにしている。食事はヘルパーにまとめてやってもらう。外側の窓拭きとか犬の散歩など,ヘルパーの仕事内容に色々制限があるのが難。制度上できないのは仕方ないが…。この部屋はバリアフリー対応で,手すりがあるので助かる。浴槽も何とか入れる高さだ。<お部屋に上げていただいてお話し伺い>

・60代女性。中央区で全壊。垂水区の仮設住宅を経て,この復興住宅に入居して15〜16年。一緒に入居した母の介護がここで始まった。70歳まで元気だったのに…。5年介護した後に亡くし,以来一人暮らし。もうすぐ11回忌。自分なりに母の面倒をみられたから後悔はない。近所づきあいはある。ここはみんないい人ばかりで,長いこと仲良くしてくれた。安心できる。外科はこの近くの病院に行くが,内臓や循環器関係で垂水まで通院していて,薬ももらいに行くが,バスに乗っていくのがしんどい。薬を切らしたらたいへんなので…。買い物は,近年この住宅からやや近いところに出来たスーパーによく行くほか,時々は住宅のすぐ側のコンビニで済ませることも。

・60代女性。垂水区で被災。普通のアパートに住んでいたが,被害は特になかった。この復興住宅に入居して10年。初めはなかなか当たらなかったが,空き家抽選で,運良く入れた。子どもはみな成人して,今は一人暮らし。ここにはもう慣れた。ヘルパーは頼んでいない。買い物は自分で行く。<玄関でお話し伺い>

・70代?女性。長田区で被災。この復興住宅へ入居して15年。日曜日は休みなので家にいる。仮設住宅を経てここに来た。今,困っていることはない。<インターホン越しに応答。ボランティアの趣旨を説明しながらお話し伺い>

・70代女性。「私ちょっと留守預かってるだけなので…。本人留守です。」<玄関まで出て応答>

・長田区で全焼。「(今お困りのこと,心配なことは?)特にありません!」<自身でシート記入>

・80代女性。「忙しいんで,ごめんなさい。」<ドアを少し開けて応答>

・70〜80代男性。「結構です。」<インターホン越しに応答>

・80代女性。「しんどくて寝てる…。」<玄関まで出て応答>

2014-10-13 ↑TOP


第38(新生163)回訪問活動 (2014/08/30) レポート〈1年経って…,附:追悼・黒田裕子さん〉

神戸総合運動公園(ほっともっとフィールド神戸)の花火毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧くださいまして,まことにありがとうございます。

2014年の夏季も,神戸・週末ボランティア 新生では,「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」というテーマのもとで,阪神淡路大震災の被災者が暮らす,神戸市郊外の復興住宅(神戸市営住宅・ベルデ名谷,垂水区)への訪問活動をさせていただきました。

被災地復興新聞・紙 紹介 2014/08/21今回は,前回,7月12日13日以来,1ヶ月半あまりぶりの復興住宅訪問活動となりました。あわせて,当ボランティアがこの復興住宅・ベルデ名谷への訪問活動を始めて1年になりました。季節の移り変わりとしては,ちょうど1年を超えて,残暑が厳しかった,昨年同時期よりは,暑さもやわらぎ,過ごしやすい天候となりました。

ウェブサイトやSNSなどを通じて,さまざまなルートで情報発信をしている中で,今回もまた情報の拡散という形でご協力を戴きました。

菅原二郎 INSIDE OUT WSMG 名谷病院ボランティア参加者の集合場所に向かう途中,車窓から須磨海岸を眺めてみると,夏休み最後の週末を楽しもうという人たちでにぎわう姿が見られましたが,これまた昨年までの同時期と比べるならば,暑さがやわらいだこともあるでしょうが,「美化」や「治安」を口実にした規制強化のため,客足が遠のいたことから,やや寂しい印象も受けました。生活や産業への影響という点では,課題を残したことが伺えるものでした。

前日の準備段階から,対話を実現し,当ボランティアの活動の浸透が進み,少人数・不定期でありながら,受け入れてくださっている様子が伝わってきます。この日にお伺いしたところはいずれも,前日に投函した予告ビラをみて初めて知っただけでありながら,訪問を歓迎してくださったことに感謝したいと思います。

「神戸新聞」掲示板紹介 2014/08/27 忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸からこの日もまた,予定の時刻をやや過ぎての終了となりましたが,予定したお宅への訪問を終えた後,次週分の予告ビラ投函を行い,ここでも貴重な対話を実現できました。なかには,8月27日の「神戸新聞」に掲載された,当ボランティアの活動案内をご覧になって,待っていたという方もいらっしゃいました。

おかげさまで,一度だけの訪問だけではなかなか解らないような,被災者−住民の方々の日常の一端をうかがい知る機会となりました。この日のミッションを完了した頃には,最後までご一緒いただいた参加者とともに,総合運動公園からの花火を観ることができました。

神戸市営住宅・ベルデ名谷2番館前の花壇。今回もまた,貴重なお話し伺いが出来ましたことを,感謝したいと思います。

神戸・週末ボランティア 新生の復興住宅訪問活動は,旧グループ以来の仮設・復興住宅訪問通算600回となった3月30日で,重複なしの実数ベースで1000戸を超え,7月13日には神戸市営住宅に限っても1000戸を超えておりますが,これまでに取り組んだ神戸市営筒井住宅やHAT神戸・脇の浜住宅(借り上げ復興住宅分)に続いて,ベルデ名谷での訪問も,開始から1年を控えたなかで,間もなく半数になろうしています。

配布した予告ビラ 2014/08こうして訪問活動〜「お話し伺い」〜傾聴ボランティアを続ける中で,必然的に,当ボランティアについてはもちろん,旧グループで行った,かつての訪問活動やその参加者,さらには阪神淡路大震災以来行われてきた,さまざまな支援活動についての,色々な情報や評価についてお伺いし,役立ちと学びの糧にすることとなります。

周囲の方をお世話されてきた経験をお聞かせくださることもあれば,他の支援者と行動をともにした経験や想い出をお話しになる方もいらっしゃいます。

お書きいただいたシートとお礼のメモこの夏の終わり近くになって体調を崩し,故郷への転地療養に赴かれて程なく,9月24日に亡くなられた黒田裕子さんもそうした一人にとどまらない,とりわけ重要な一人でした。

これまでに当ボランティアで訪問したどの復興住宅でも,多くの方々から,行動を共にした想い出や,支援活動への感謝の言葉を,たびたび耳にしてきました。もちろんこの日もそうでした。

神戸総合運動公園(ほっともっとフィールド神戸)の花火神戸・週末ボランティア 新生においても,旧グループにおいても,グループとして行動をともにしたことはありませんが,専門である看護にとどまることなく,その時々・場所におけるニーズに応じた広範な支援をつくり出す,その行動力・判断力と人柄は,伝わってきています。

長年の尽力に感謝と敬意を表し,ご冥福をお祈りしたいと思います。合掌。

震災ボランティア尽力20年 黒田さん島根に帰郷、闘病へ 2014/9/19
黒田裕子さん死去 震災20年目前、関係者ら悼む声 2014/9/25
患者と医師の橋渡しに 黒田裕子さん悼み足跡たどる 2014/10/10 神戸新聞


この日伺ったところの概略です。

・80代男性。長田区で全壊。5棟続きのうち3棟が倒れた。2階建ての1階にいたが,ペシャンコになった中から出てくることが出来た。大切にしていたギターを1本だけ持ち出すことが出来た。この日に限ってケースに入れてあったのが幸いした。近くでは,手を挟まれて逃げられなくなった人がいて,近くの人がやむなく切断して助けたものの,避難先で処置が出来ず,10日ほどで亡くなったことがあった。西区の仮設住宅を経て,この復興住宅に入居して15年。17歳でギターを始め,アルゼンチンバーなどで演奏してきた。若い頃からの楽譜は今も宝物。震災後は仮設住宅などを廻って慰問演奏をしてきた。この復興住宅に入居してからも階下で弾いていたことがある。その様子は何度かテレビでも採り上げられ,そうした中で知り合った人と飲みに行くのが楽しみだった。この頃は物忘れが多くなった,「終活」してる。最近この復興住宅では,徘徊しているような高齢者を見かける。特に一人住まいの方に多いようだ。<ボランティアの訪問時には,太鼓で迎えていただき,ギター演奏を聴かせてくださった。シート記入の上,お部屋でお話し伺い。>

・70代女性。夫婦2人暮らし。垂水区で半壊。仮設住宅には入っていない。家主が取り壊すというので,民間の賃貸住宅への入居や,子どもとの同居を考えたが,この復興住宅を申し込んだらすぐ当たった。この復興住宅に入居して15年。竣工後すぐ入居した人より少し遅れての入居だった。高齢者として優先される年齢ではなかったため,下層階ではなく,高い階へ入ることになった。ここには仕事を辞めて入居した。震災で被害を受けながらも,事業継続していた部署へ配置転換してもらって続けていたところだった。この復興住宅に来て最初はバス停までの坂道が苦痛だったが慣れた。仕方ない。ヘルパーは頼まず,買い物も自分でしている。自治会の用事も引き受けている。血圧が高いので,月1回はバスに乗って通院している。近くに住んでいる子どもが,面倒みてくれたり,旅行に連れて行ってくれたりする。近所づきあいはあいさつ程度。ここでの暮らしには慣れたが,人間関係はたいへん。面倒だが,いちいち気にしていたら住めないし…。昨2013年4月の淡路島地震の時は,けっこう揺れたが,特に問題はなかった。東日本大震災や最近の豪雨土砂災害の被災者もたいへんだろう。

・70代女性。長田区で全壊。古い家だったのですぐ壊れてしまった。近くの小学校に避難して,半年過ごした。体育館は危険で使えず,教室に入ったが,人が多くて,場所を確保するのがたいへんだった。まだ若かったので働いていた。会社が半壊ながら事業を継続していたので,避難所から通っていた。避難所ではみんなで助け合った。震災直後は葬式が多かったのを思い出す。この復興住宅に入居して15年。近所とはあまり話しをしない。最初は顔見知りになったが,少し経ってくると…。物騒だから扉は閉めているが,暑いときなどは廻りに水を撒いたりもしている。年には勝てない。親や友人が亡くなって寂しい。毎日が一生懸命。白内障でちょっとづつ見えにくくなってきていて,手術しなければならなくなるのが怖い。買い物は医者に行った帰りにしている。バス1本で行ける便利な所にしている。

・70代女性。中央区で半壊。「被災した場所は中央区です。家はこわれなかったのですが50%でした。家主がこわすと言ったのです。●●に避難していました。(平成)7年の7月頃までです。仮設住宅はポートアイランドに友人と一緒に行く箏が出来ました。4年間いました。台風のときが大へんで友人の所に行って一緒にいました。そして今の住宅が当たったのです。この住宅は坂があってたいへんですが,当時はまだ若かったのでうれしく,家も広いですし,有難く思っています。今の健康状態はまあまあです。少し足が痛い時がありますが,何とか生活は出来ています。」<自身でシート記入>

・70代女性。夫婦2人暮らし。垂水区で被災。住んでいた公団住宅はとくに被害がなかった。水や電気が止まったが,建物の上に給水タンクがあったので(給水車に並んで水汲みに行くなどの苦労はせず)困らなかった。この復興住宅に入居して15年。(被災者に割り当てた後の)残りが当たったので,皆より少し遅れて入った。身体はどこも悪いところはなく,元気。近所づきあいは,隣とも親しくしている。

・40代女性。この復興住宅に入居して5年。神戸市内で被災して,この復興住宅に入居して15年になる母と同居している。近くで亡くなった人もいる。<インターホン越しに応答。予定時刻を遅れて訪問>

・70代男性。「どういう御用?(支援シート)まだ書いてへん。また連絡させてもらう。」<玄関に出てこられて応答,「お話し伺い」を主としていることなどを説明。予定時刻を遅れて訪問>

・60代女性。「ちょうど今,出かけました。」<インターホン,玄関扉内のよろい戸越しに応答。予定時刻を遅れて訪問>

・70代女性。須磨区で被災。この復興住宅に入居して15年。「特にありません」<自身でシート記入>

・80代男性。中央区で被災。「(お困りのこと,心配なことは?)めぐすり」<自身でシート記入>

・40代女性。「けっこうです。」<インターホン越しに応答。予定時刻を遅れて訪問>

・60〜70代男性。「あ,うち,大丈夫です。」<ドアを開けて応答>


・70代男性。予告ビラ投函後にお会いしたので,当ボランティアの活動の趣旨や方法などを説明させていただきながら,お話し伺い。この棟の住民のお世話をしている。敬老の日にあわせて,(当ボランティアとは)別の聞き取り調査の訪問が入るのだが…。

・70代男性。予告ビラ投函後,玄関前の廊下に出てこられ,当ボランティアの参加者募集が「神戸新聞」に出ていたのをみて,訪問活動を知っていたので,いつ来るかと待っていたとのことで,ボランティアの活動の趣旨などを説明させていただいた。

・80代男性。予告ビラ配布時,玄関前の廊下で座っていたところ,「●●です。」と,私たちに声をかけてくださったので,ボランティアの訪問活動の趣旨などを説明させていただいた。

2014-10-10 ↑TOP


第37(新生162)回訪問活動準備 (2014/08/29) レポート〈夏の終わりに〉

訪問準備日の神戸市営住宅・ベルデ名谷 2014/08/29毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧くださいまして,まことにありがとうございます。

2014年の夏季も,神戸・週末ボランティア 新生では,「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」というテーマのもとで,阪神淡路大震災の被災者が暮らす,神戸市郊外の復興住宅(神戸市営住宅・ベルデ名谷,垂水区)への訪問活動をさせていただくことにしました。今回も,訪問活動前の準備をレポートしたいと思います。

今シーズン後半の訪問活動は,暑さもおさまった8月末〜9月上旬の週末に行いました。

「神戸新聞」掲示板紹介 2014/08/27 忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から当ボランティアでは,訪問活動のスケジュールを決めるのとあわせて,参加のご案内をさせていただいていおります。それは主にウェブサイトやSNSでいち早くかつきめ細かにさせていただくとともに,これをご拡散いただいたり,在神各紙にプレスリリ−スを出して,ご紹介をお願いしています。

そうしたところから,参加者とのマッチングをはかりながら,訪問先を選定していくことが可能になっています。

配布した予告ビラ 2014/088月30日からの訪問予定のお宅への予告ビラ投函作業を,地元からの参加者の協力を得て行いました。7月の訪問活動にあわせて改良した予告ビラに,ボランティアの心がヨリ伝わるよう,さらに改良と工夫を加えました。

比較的外出しやすい気候と時間帯にお伺いしたこともあって,今回もまた,予定した「お話し伺い」以前に,対話を実現し,当ボランティアの活動の趣旨や目的について理解を深めていただく機会となりましたことに感謝したいと思います。

神戸市営住宅・ベルデ名谷2番館前の花壇。この日1日で,4回の訪問活動でお伺いする予定のお宅全戸に予告ビラを投函することは出来ず,準備作業の一部は,8月30日・31日の訪問活動の合間にも行いました。それぞれの日の参加者にも,「お話し伺い」−傾聴ボランティアにとどまらず,当ボランティアの活動の流れや方法についても体験していただける機会となりました。

ご参加,ご協力いただいた皆さんをはじめ,弊サイトThis is 神戸・週末ボランティアや,MixiコミュニティMixiページFacebookページtwitter - welove_kobeを通じてご縁をいただいております,すべての皆さんとともに,成果を分かちあえますことに感謝したいと思います。


この日伺ったところの概略です。

・80代男性。エレベータで乗り合わせたときにお声がけ。この復興住宅の棟の前にある花壇の世話をしていて,そこに向かうところとのことで同行。心筋梗塞で入院して,退院してきたら,目が見えにくくなった。薬の副作用のようだが…。「80もすぎて,身体も悪くなってきた,70代のようにはいかん,花も知っとる」。(何も植わっていないところを指して)「ここを世話していたおばあさん亡くなった」。「見えにくい」といいながらも,道具を使わずに,素手で雑草を抜いていた。<予告ビラ入れをしているときにお会いしてお話し伺い>

・70代女性。長田区で全壊。西区の仮設住宅を経て,この復興住宅へ入居して16年。同じ仮設住宅から一緒にここへ来た人もおり,今もつきあいがある人もいれば,亡くなった人もいる。仮設住宅ではボランティアがよくしてくれた。一緒にご飯をつくって食べたのがいい想い出になっている。震災のことは,もう20年も経っていて,忘れたことも多く,思い出したくないこともある。他に同じように思っている人も少なくないはず。<予告ビラ投函時にお会いしてお話し伺い>

・80代女性。「遅くまでご苦労さまです」とお声がけくださったので,ボランティアの趣旨を説明。毎日この復興住宅の建物の廻りを散歩していて,何度も休憩しながら,足が悪くならないようにしている,病院にも毎日通っている,とのこと。活動紹介のビラなどを差し上げ,「お伺いするときにはよろしく」といって別れた。<予告ビラ入れをしているときにお会いしてお話し伺い>

・40代男性。西区で被災。この復興住宅に入居して2年。震災時にはとくに被害はなかった。ここへ来てまだ日が浅い。とくに困っていることはない。作業着姿で,仕事帰りだとのこと。<予告ビラ投函時に出会い,ボランティアの趣旨を説明しつつ簡単なお話し伺いに>

・70代?女性。「結構です。変わったとありません。特にお話しすることありません。」<予告ビラ投函時,玄関ののれん越しに姿が見えたのでお声がけ,ボランティアの趣旨を説明>

・70〜80代女性。身体の調子が悪いので,あまり話したくないので結構です。他には困っていることはない。<予告ビラ投函時にお会いしてお話し伺い>

・80代女性。友だちの所から帰ってきたところ。<予告ビラを投函しているところにお会いしたので,ボランティアの趣旨を説明し,ビラを手渡し>

2014-10-07 ↑TOP


第36(新生161)回訪問活動 (2014/07/13) レポート〈「評価」する姿勢はダメ、《新生》市営住宅訪問1000戸超〉

神戸市営住宅・ベルデ名谷。毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧くださいまして,まことにありがとうございます。

2014年の夏季も,神戸・週末ボランティア 新生では,「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」というテーマのもとで,阪神淡路大震災の被災者が暮らす,神戸市郊外の復興住宅(神戸市営住宅・ベルデ名谷,垂水区)へ,前日(7月12日)に続いての訪問活動を行いました。前日までの晴天と違って,薄曇りでしたが,それなりの暑さでした。

垂水駅前では,当ボランティアが集合場所にしている東口のほかにも,もう1箇所駅前広場があり,その間を商店街が結んでいますが,両方の広場で,前日に続き,舞子高校防災科の生徒さんらが東日本大震災の支援募金を呼びかけ,教職員の方が見守っていました。

垂水東口・いかなご広場。今回もやや遅れての現地到着,訪問開始となりましたが,まず,前日,近隣の方から,見てあげてほしいとの依頼があったお宅を再び訪ねてみました。お出でいただけなかったものの,心配して見守っている人々がいることを,知っていただく契機になれば幸いです。

訪問箇所は,前日と同じ棟・ブロックで,お住まいになっている方々の傾向としては共通しているはずですが,土曜日と日曜日とでは,雰囲気が違うところもありました。

2014/7/12・13、神戸新聞「掲示板」阪神淡路大震災お話し伺いボランティア募集。神戸・週末ボランティア新生「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」これまで数回にわたって,中高層階をお訪ねする中で,高齢者の姿をお見かけすることが多くなっています。といっても,平均すれば70歳を少し超えたぐらいのようで,この復興住宅に入居された当時は,まだ高齢者ではなかったため,入居にあたって優先されることなく,出入りに便利な低層階(既にかなり高齢の方や障害をお持ちの方が優先されていた)に入れなかったなどの事情があった中で,この地でお年を重ねてこられ,今日に至ったのでしょう。

神戸・週末ボランティア 新生 復興住宅訪問予告ビラ。2014年7月、ベルデ名谷。住宅への出入りの坂道が大変なことが,そのさいたるもので,かつて旧グループでは「ちょっとカー」という移動支援サービスを手がけたことがありました。

加齢とともに,視覚においても,老眼以外にも,白内障(糖尿病によるものも多い)や緑内障を患う方が増える中,私たちボランティアがお入れする「予告ビラ」においても,そうした方が読みやすくなるような配慮や工夫も課題でしょう。

「お話し伺い」させていただく方は人生の先輩です。どのような経歴の方であれ,人生経験を通じて,人となりや態度はよく見ていらっしゃることでしょう。あるべき姿勢・態度を学ぶ上で,刺激となり励みとなるものです。

神戸市営住宅・ベルデ名谷。6番館自治会新年度役員選出せずの貼紙。かつてはボランティアを経験され,現在はしてもらう側という方が,以前の自身を省みる姿は,まさに,当ボランティアが基本にすえている,「自分が相手の立場だったらどうなのか?」と問う「役立ちと学び」の姿勢でした。

またある方から,お店を経営していたときに,従業員に,お客さんの悪口を言わないよう指導していたことを伺いました。これも「お話し伺い」にも通じることでしょうが,さらに踏み込んでみたいと思います。

悪口・陰口がダメなのは当然として,そうでなければいいのでしょうか?

確かに,一方で,いいところを見いだすことも一つの態度・姿勢でしょう。だがそれは,お話を伺う相手にすることでしょうか?

そうしたいなら,たとえば,活動の後,ボランティア参加者間で,お互いのいいところをほめあう気風をつくればいいでしょう。

神戸市営住宅・ベルデ名谷。住宅入口のモニュメントにのびる朝顔のつる。しかしながら,ボランティアをさせていただく相手に対してそうすれは,利害・享楽のために,相手を利用する態度になってしまいます。まさに品性が問われます。

それ以上に問題なのは,これが評価する姿勢・態度になることです。そうした関係性になることは,「傾聴」にふさわしくないばかりか,カウンセリングや「心のケア」にいたっては相反するものです。

これは一種の権力作用となるものであり,尊厳を見いだすこととは真逆と言わねばなりません。

こうした基本を忘れず,心がけたいものです。

この復興住宅をお訪ねする中で,訪問を心待ちにして,「(入居以来)15年待った」とおっしゃる方や,約10年前,旧グル−プで訪問させていただいた際,好印象を持ってくださっていた方に出会うことができました。

予告ビラにおいては「宗教や政党などまったく関係のない民間のボランティア」との原則を大書するほか,「寄付や署名の要請、投票依頼、販売行為などはいっさいしませんので、ご安心ください」と,これまでより平易な表記にして,信頼関係の構築を図っています。あわせて,

「この訪問活動は、10年ほど前に、「お話し伺い」に廻ったグループ「週末ボランティア」の有志である主宰者が、新たなグループとメンバーで始めたものです。
神戸市内各所の仮設住宅や復興住宅を廻ってきた経験を顧みて活かしたいと思います。」

と,当ボランティアのあり方を自己紹介しています。

神戸・週末ボランティア 新生 復興住宅訪問予告ビラ。2014年7月、「顧みて活かし」という言葉に違わぬよう,いいところは受け継いで発展させるとともに,過ちは改め,克服し,或いは断ち切って,そうした期待にこたえたいと思います。

既にご報告しましたように,当ボランティアでは,2014年3月30日旧グループ以来の仮設・復興住宅訪問通算600回に達したとともに,〈新生〉以来の訪問も1000戸を超えましたが,今回の訪問で,神戸市営の復興住宅に限っても1000戸を超えました。

これは,昨2013年12月6日,今2014年1月11日12日に行った70戸余の訪問が,URから神戸市が借り上げ借り上げ復興住宅であったことと,今回の両日で60戸余をお訪ねしたことによるものです。

神戸市中心部と郊外といった,対照的な情況にある復興住宅をお訪ねしていますが,現代における都市型災害における最大規模のものであった阪神淡路大震災の被災地に在る者として,これからも,都市に視座のベースをおき,都市と郊外を対照する方法で,深め広げてゆくことが,課題になると考えます。

同時に,早くから,郊外の仮設・復興住宅にお訪ねしてきたものとして,これもまた重要なファクターとしなければなりません。今後も,同住宅への訪問を続けるとともに,各所の復興住宅をお訪ねし,経験を積んでいきたいと思います。

今回も,有意義な訪問活動,貴重な「お話し伺い」ができましたことに感謝したいと思います。

ご参加,ご協力いただいた皆さんをはじめ,弊サイトThis is 神戸・週末ボランティアや,MixiコミュニティMixiページFacebookページtwitter - welove_kobeを通じてご縁をいただいております,すべての皆さんとともに,成果を分かちあえますことに感謝したいと思います。


この日伺ったところの概略です。

・80代女性。長田区で全壊。築8年の3階建てだったが,隣の2階やが倒れかかってきたため,倒壊した。1階のガレージに,以前,喫茶店やスナックを経営していたときに使っていたものを保管していたが,結構なくなった。住居部分では,トイレが残ったのに,風呂桶がなくなった。何時間か家具の下敷きになっていたが,倒れてきた家具の中には三面鏡もあったが,鏡が割れて飛散することはなかったので,ケガはしなかった。非常時に備えて,持ち出せるように準備していても,押しつぶされたり,飛ばされたりして,取ることができないと思う。近所の高校生に助けられた。うちの入口で「どこどこの○○と申します。入らせていただきます。」と言ってからやってきたので,きっちりしつけができていると感心した。家具に足を挟まれていた息子さんが「中に年寄りが(いるので先に助けてほしい)!」と言ったので「誰が年寄りか」と怒った。避難しようとしたら,着るものが見あたらなかった。小さい頃,空襲で逃げ回り,やっと防空壕に入ってやりすごしたら,その前で,人が黒焦げになって倒れているのを見ていたのが,フラッシュバックした。空襲のあとの惨状など,小さいときに見たものは,恐怖とともに,一生鮮明に覚えている。近くの学校に1日避難した後,駆けつけてくれた,別居していた息子のもとへ。小さい家で居づらくなったので,中央区内でアパートを探して移った後,ポートアイランドの仮設住宅で3年半暮らした。(街から離れ港に近かったことから)盗難などに悩まされ,恐怖でもあった。トラックの音や振動も恐怖で,地震でグォーッという音がしたのを思い出した。仮設住宅には,隣近所の人が皆いなくなってから出たので,最後までいた。この復興住宅に入居して16年になるが,竣工当初ではなく,皆より半年ぐらい遅れて入った。復興住宅は,三宮付近ばかり申し込んでいたので,全然当たらず,今度当たらなかったら,自分でマンションを借りるよう,神戸市の人に言われて渋々申し込んだので,ここはイヤ。ベランダが広いのはいい。建物はしっかりしているが,昨2013年4月の淡路島地震のときはけっこう揺れた。忘れているようでも,身体は震災のときのことを覚えている。ドアを開けるなど,逃げられるような態勢を取ったが…。息子が近くにいるのが心強い。退屈なときは,一人カラオケに行ったりする。息子とホテルのバイキングに行くのが楽しみ。小学には孫が皆遊びに来てくれる。この棟の同じ階での近所づきあいは少ない。井戸端会議で陰口や悪口を言ったり聞いたりするのがイヤなので,自分は加わらない。とくに,嫁の悪口を聞いたりするのがいや。店を経営していたとき,従業員に客の悪口を言わないよう指導し,しつけていた。声を掛けても返事や反応がない人もいる。若い人は返事しないし,エレベーターで乗り合わせたり道ですれ違っても反応がないのは高齢者に多い。何となしに日々が楽しい。何事にも,気長で気楽にと心がけている。身体,とくに足・腰・膝は大丈夫で,4時間正座しても大丈夫なほどだが,震災後,手が震えるようになり,神経から来ているのだろうか,検査しても解らない。低血圧だが,早起きが苦手なことはなく,いつも早起きしている。<お部屋に上げていただいてお話し伺い>

・60代女性。長田区で被災。復興住宅を申し込んでもなかなか当たらず,西区の仮設住宅で5年目まで過ごした。仮設住宅では,たくさんの人にお世話になった。北関東のある私立大学の学生有志にはよくお世話になった。この復興住宅に入居して15年。仮設住宅から出て行く先としては他にはなく,ここしか入れる復興住宅がなかった。同じ仮設住宅にいて交流があり,同じくこの住宅に来た人とは,今も親しくしている。今は一人暮らしだが,前は寝たきりの母がいて,ずっと介護していた。思う存分世話したので,後悔はないし,先に送る覚悟もできていた。仮設住宅のときから母を往診してくれた医師が,復興住宅にも来てくれ,親切にしてくれた。膝が悪く,痩せるように言われている。坂道を歩くのがたいへんだが,座ることはできる。車の運転ができるので,買い物も行けるし,仕事もでき,新長田まで通院もしている。今は週に3回ヘルパーの仕事をしている。ほとんどが(家事補助の)掃除の仕事で「ヘルパーといっても掃除婦」。2年前から高血圧に加え糖尿病になり,今では朝夕薬を飲んでいる。今のところ,合併症はない。食べ過ぎないよう言われている一方で運動するようにも言われている。食べないと仕事も出来ないし…。年金ももらえるが,働いていると,家賃が高くてたいへん,辛い,切実。この先食べていけるか不安になる。この住宅の廻りを朝夕歩いている人もいるが,エライと思う。先に竣工した棟に入っている方は,お歳召して気の毒。以前は一時期,移動サービスの「ちょっとカー」もあったが,今はもっとたいへん。
「震災のときは?長田。震災後ご苦労されたことは?住宅が長い間当たらず大変でした(5年目にて入居)。少ない年金生活。仕事をしていると家賃が上り困っています。その他何でも:仮設の時に、ボランティアの方々に、お世話になった事、忘れません。今もおつきあいさせて頂いております。その方は、今又、岩手県の方に行かれ、又ボランティアをなさっておいでです。頭が下がる思いです。神戸の震災で入居は5年かかりました。東日本の方々は、もっと時間が係る事と存じます。ゆっくりと、進んで、行って、頂きたいと思います。」<自身でシート記入の上お話し伺い>

・70代女性。垂水区で一部損壊。この復興住宅に入居して15年。申し込んだらすぐ当たった。入居当時は,ぎりぎりで申し込める年齢だったので,自分がもっとも若かったが,最近は若い人が増えてきた。同じ復興住宅の別の棟に妹さんが住んでいて,それぞれ一人暮らし。この部屋にしょっちゅう来てくれる。この数年間,暮らし向きに変化はない。被災以来,とくに何もしてもらっていないが,以前,高齢男性の訪問ボランティアが来てくれたことがあった。この部屋は,西日が差して,夏は午後から暑くなる。風もよく通り,ベランダを開けたら,ものが飛んでいく。糖尿病のため,自分でインシュリン注射をするほか,食事も自分で作る。白内障も患っている。足は筋肉痛で,湿布薬を貼っている。歩くのは不自由していないが…。去年の夏,病院に行く途中,熱射病になりかけた。20何年も通っていて,バスで近くまでは行けるところだが…。天気が悪いときは出歩かないが,病院には行かねばならず,しんどいときはタクシーで行く。1400円ぐらいかかるのでたいへん。

・10代女性。この復興住宅に入居して10年。姉と暮らしている。生まれも育ちも神戸だが,震災のときは生まれていない。小学校は垂水区内で,6年間ずっと,1月になると,地震のことを習って,「しあわせ運べるように」を歌った。今日はアルバイトが休みで,うちにいた。<ドアポストに予告ビラが残されていたが,インターホン越しに応答>

・70〜80代女性。「別に話すことありません。身体の方は大丈夫です。」<インターホン越しに応答>

・70〜80代女性。「今ちょっと体調崩して,寝てますので…。」<インターホン越しに応答>

・80代?女性。「忙しいので。とくに話すことないです。」<インターホン越しに応答>

・70〜80代女性。「(身体は)大丈夫です。結構です。」<インターホン越しに応答>

2014-08-11 ↑TOP


第35(新生160)回訪問活動 (2014/07/12) レポート〈夏が来る前に〉

ベルデ名谷・予定時刻を過ぎて訪問終了。(神戸市垂水区))毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧くださいまして,まことにありがとうございます。

2014年の夏季も,神戸・週末ボランティア 新生では,「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」というテーマのもとで,阪神淡路大震災の被災者が暮らす,神戸市郊外の復興住宅(神戸市営住宅・ベルデ名谷,垂水区)への訪問活動をさせていただきました。

神戸・週末ボランティア 新生 復興住宅訪問予告ビラ。2014年7月、ベルデ名谷。3月下旬から末にかけて以来,3ヶ月余りをおいての訪問活動となりました。スケジュールを決めたところ,台風8号が本州を縦断して通過しましたが,週末近くには近畿地方から遠ざかるとの予想のもとで,予定通りに行うこととしました。

暑さが本格化する前にと思いましたが,梅雨明け前ながら既に猛暑となり,須磨海水浴場の海開きが行われた直後の週末の復興住宅訪問活動となりました。

2014/7/12・13、神戸新聞「掲示板」阪神淡路大震災お話し伺いボランティア募集。神戸・週末ボランティア新生「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」予告ビラの投函など,神戸市営住宅・ベルデ名谷(垂水区)現地での準備が前日に,「神戸新聞」神戸版「掲示板」でのご案内が,当日の朝刊の掲載になるなど,ぎりぎりのタイミングでの準備となりました。

垂水東口・イカナゴのモニュメント。神戸・週末ボランティア新生の集合場所の近くで,兵庫県立舞子高校環境防災科生徒らが東日本大震災支援の美金活動ボランティア参加者の集合場所とした垂水東口では,兵庫県立舞子高等学校環境防災科の生徒さんが,東日本大震災支援の募金活動をしていました。暑い中,また期末テスト直後の中,ご苦労さまです。

そばでは,保護者や教職員の方が見守っていました。わずかな時間ではありましたが,そうした方とも対話を実現し,その中で,阪神淡路大震災20年になる今年1年間は,阪神淡路大震災にこだわり,集中的に取り組んでいるとのことでした。ちょうど地元で,阪神淡路大震災の被災者が,今なお難儀していることを,もっと知ってほしいと思っていただけに,頼もしい限りです。

そうして,やや遅れて現地入りし,予定より1時間以上遅くに終了するまで,この日の「お話し伺い」をさせていただきました。遅くに訪問させていただいた方には申し訳ありませんでした。

神戸市営復興住宅・ベルデ名谷。7番館低層棟屋上部にある「秘密の花園」。この日の訪問は,3月に引き続き,中高層階としましたが,3月とは別の棟・ブロックに伺いました。前日の予告ビラ入れなどの準備の過程で,対話を実現できたことで,ある程度バックグラウンドや周辺の情況などを理解した上で臨むことができました。

今回も,充実した訪問活動になりましたことに,また,貴重な「お話し伺い」をさせていただいたことに,感謝したいと思います。

ご参加,ご協力いただいた皆さんをはじめ,弊サイトThis is 神戸・週末ボランティアや,MixiコミュニティMixiページFacebookページtwitter - welove_kobeを通じてご縁をいただいております,すべての皆さんとともに,成果を分かちあえますことに感謝したいと思います。


この日伺ったところの概略です。

・70代男性。兵庫区で全壊。かつては「洗濯屋してて,アイロン振り回してた」。兄弟2人と母を亡くしたほか,仮設住宅になかなか入れなかったことから,子どもも独立させたので,震災で家族バラバラに。近くの小学校の避難所に行ったらいっぱいで入れず,保育園を併設している寺院へ行き,5月終わり頃までいた。西区の仮設住宅には4〜5年いた。最後までいて,孤独死などもたくさん見てきた。1年に4〜5人亡くなっていた。尼崎からおばちゃんのボランティアが来てくれていた。この復興住宅に入居して15年。同じ仮設住宅から来た人が何人かいるが,部屋が近い人とは親交がある。一人暮らし。元気な人が次々死んでいく。みんな一人で死んでいく。近くの部屋でも亡くなる方がいて「隣のおばさん,前日まで元気にしとったのに…」。震災以前から背中を痛めていて,手術をしたら,主治医にとっても,それまで経験したことのないたいへんなものだったようだ。今でもいろいろな薬を飲んでいる。きついのでいや。今ではもらってきた介護用の電動ベッドを使用している。出かけることは少なくなってきている。支えがあれば立っていられる。外出用などに4本の杖を使い分けている。手先は大丈夫。身のまわりのことは自分で出来る。できる間は自分でしようと思うので,ヘルパーは入れていない。4年ほど前,市からもらってきた「あんしんかん」(茶筒のような無塗装の缶に,名前や緊急連絡先,かかりつけ医などを記入しておくもので,写真も貼っている)を配って,自分の分も記入した。「遺言,はよ書かな…」。今の楽しみは「テレビに突っ込み入れる」ことだが,東日本大震災で大きな津波が押し寄せたときの,防波堤の無力さや,避難の仕方に,自身の被災体験を照らしあわせて,疑問を覚えたことも。住んでいる棟の屋上部には植木などがあるが,予算削減で市が管理しなくなったので,週1〜2回,2〜3時間かけて,枯らさないように手入れするほか,無農薬の大葉を栽培し,ほしい人には分けてあげている。<玄関内でお話し伺い>

・70代女性。兵庫区で全壊。垂水区内の仮設住宅に入ったが,周囲を住宅地に囲まれた,40数戸しかないところで,最寄り駅から10分ほど歩いたが,坂道がたいへんだった。この復興住宅に入居して16年。ここでも坂道がたいへん。その上膝を悪くしてるので,歩けても座り込んだりすることが多く,正座ができない。階段を上るよりも降りる方がたいへんで,ゆっくり気をつけている。この復興住宅で近くの部屋に住んでいた人も1/3ぐらい亡くなった。自分で声を上げられない人はもっと苦労していると思う。50代後半で入居したので,優先されたこともなく,家賃も高くなってきた。長く一人で暮らしを支えてきた。定年まで駅の売店で販売員をしていて,あの頃は身体も頭もよく動いた。素早い動きと計算ができたのは,お得意さんがいつも買う品物と値段を覚えていたから。若い人ももっと働けば…。さまざまな病気して薬が増えた。最近も入院した。動物がすきで,ここへ来てすぐ2匹の猫を拾ってきて育てた。犬に噛まれても好きで,大型犬も穏やかなのがわかっているので怖くない。いなくなってペットロス症候群のような感じに。総合運動公園のスタジアムからの花火が見えるほか,好きなアーティストのライブが微かに聞こえてくるのが楽しみ。
「50代後半でこの市住に住んでいますが、坂道が年々きびしくて、16年立ちましたが住めば都にはなりません。腰痛、膝痛持ちですので坂がない市住に移りたいと何度思ったことか…。それと今言われている貧困女子家庭にすっぽり入り、厚生年金と国民年金合わせても……では、これ以上家賃が上がったらどうしようと思う今日この頃……食べるだけなら犬猫と一緒と思えてなりません。私以上の遺族の年金もらってる人でも……遺族年金があると思えば一生懸命働いて税金納めていたのに、なーんか淋しい限りです。」<自身でシート記入の上お話し伺い>

・90代女性。長田区で全壊。当初は半壊扱いされたが,住める状態ではなかった。仮設住宅には入らず,名古屋の市営住宅に4年4ヶ月住んだあと,この復興住宅へ入居して15年。被災前からここに来るまで同居していた息子さんも10年前に亡くなり,今は一人暮らし。一人息子で優しくしてくれた。ここへ入居するのも息子さんの薦めで,申し込みなどもしてもらった。90歳まで元気できたと思ったら,最近2回立て続けに転倒して,足もヒョロヒョロ。以来あちこち痛くなったり悪くなったりしている。腕が痛い,頭痛,神経痛と,神経がつながっているので,身体はあちこちガタが来ている…。声は元気だが,耳が少し聞こえにくい。最近は,テレビやエアコンのリモコンを手に取るのも面倒で,何でも「もうええわ」になってきた。ちゃんと水分をとるように言われているが…。エアコンは嫌いで,今年入れたものの,小さな扇風機で済ませていることが多い。(高層住宅なのに)ムカデがベランダや玄関から入ってくる。ヘルパーに通院に付き添ってもらったり,買い物してもらったりする。最近も友人が亡くなった。この復興住宅の棟でも,空室には30〜40代の若い人が入ってきている。道で会って声をかけてくれる人もいるが…。階下のポストが高いところにあるので,腕が上がらないと開閉や鍵がしにくい。好きな民謡歌手が出るテレビ番組を見るのが楽しみ。字を書くのも好きで,買い物の記録を兼ねて日記を付けたり,新聞に載っている川柳で気に入ったものを書き出したりしている。イラストレーターだった息子さんがデザインした「こうべ花時計」の新聞記事を切り抜いたものなど,想い出の品を大切にとっている。「私の目の黒いうちは…」と,息子さんが震災前日にも乗っていた自転車を玄関においている。<御部屋にあげていただいてお話し伺い>

・80代女性。中央区で全壊。住み込みで手伝っていた施設が全壊したが,倒れてくるものがなかったので,ケガなどはしなかった。普段寝るところにはものが落ちていたが,その日はたまたま別のところにいたことも幸いした。隣にの部屋でもものが散乱していた。三田にいる娘と2年同居。一時は遠方に住む娘のもとに身を寄せたが,西宮で一人暮らしを2年。仮設住宅には入居しなかった。この復興住宅に入居して15年。ここができるのを知って申し込んだ。震災後色々たいへんだったので,ここへ来たときは天国に思えた。同じ階に親しい友人がいて,おかずをもってきてくれたりもっていてあげたりしている。ドアを閉めればつきあいがない中,恵まれている。ここには地震で色々な経験をした人が来ているので,話すとスゴイ。色々と関連した思い出話が出る。隣近所の部屋で亡くなった人も。買い物は,住宅入口のコンビニのほか,少し離れたスーパーにも行くが,週2回来てくれるヘルパーに頼んだりするほか,友人に頼んだりする。身の回りのことは自分でする。外出するとタクシー代がかかってたいへん。腰を悪くして,立ち止まっているのも辛いのが悩み。難病を患い,注射するとよくなるが,注射で吐きそうになったことも。今年に入って,住宅のそばの病院に2回入院した。まだ退院して1月経っていない。遠方に住む娘さんとは,電話料金が安くなるサービスを利用して話している。ちゃんと薬を飲んでいるか,心配して聞いてくる。<玄関内でお話し伺い>

・80代女性。東灘区で全壊。北区の仮設住宅を経て,この復興住宅に入居して15年。ここで孤独死した人を見てきた。被災後、灘区に避難したが,入院したりした。同じ東灘区内の仮設住宅を希望したがあたらなかった。仮設住宅でも復興住宅でも,端っこの部屋を希望してきた。避難先や仮設住宅で親交があった人とは今もつきあいがある。身体のあちこちが悪く,三日三晩寝ていない。色々なたくさんの薬を飲んでおり,それでお腹いっぱいになって食事が十分取れず,身体が弱ってしまう。外出していないから(季節感などは)よく解らない。足が悪く,病院に行くのもしんどい。糖尿病で,血糖値がたいへん。白内障で,1週間ほどおいて2度にわたって両目の手術を受けていたが,仮設住宅でコンタクトをなくした。やっと治ったと思ったのに…。お腹も手術した、心臓の検査も受けてきた。しんどいし,病院をたらい回しされたことも。友人が亡くなった病院に行くのはイヤ。何度も手術で「あちこち切りまくった」。今も入院するほか,定期的に通院したりしている。<お部屋でお話し伺い>

・70代女性。兵庫区で全壊。地震の時,電気が止まったため,住んでいたビルのドアが開かず,外に出られなくなってしまった。神戸から離れたところに入院した。この復興住宅に入居して15年。以前はボランティアをしていたこともある。被災前に住んでいたあたりの障害者施設でバザーをしたりして,想い出がいっぱいある。「ありがとう」といってもらえるのは嬉しかったが,今してもらう側になると,ほんとうに喜んで感謝してもらえたのかと思ったり,辛いものがある。今は一人暮らし。1日4回、決まった時間に自分で透析をするほか,インシュリン注射もしなければならない。薬と注射で生きている。最重度の障害認定とのこと。腹膜透析に必要な薬液が,1月分届けられたばかりとのことで,廊下の壁一面に積み上げられていた。手がしびれ,立っているのもたいへんとのことで,玄関に置いてある椅子に座って,「お茶もお菓子も出せなくてごめんね」と,夕食と透析前の時間にお話し伺いに応じてくださった。<玄関内でお話し伺い>

・70〜80代女性。垂水区で一部損壊。被災時から一人暮らし。被災後間もない頃は,水を運んだり,須磨区の息子さん宅で入浴したりした。避難所暮らしや仮設住宅への入居はせず,この復興住宅に補欠で入居して15年。ここは坂が多くて,買い物に行くのがたいへん。それでも住宅から少しあるスーパーまでがんばって行っている。コープの個配はまだ利用していない。そのうち利用するかも。この日は垂水まで美容院に行ってきた。2〜3ヶ月前,入院したら,足が少し弱ってきた。手術した膝のほか、腰も痛めている。リハビリを兼ねて,今もバスで通院している。

・70〜80代女性。須磨区で全壊。近くの学校に避難した後,須磨区内の仮設住宅へ。仮設住宅はよかった。長屋みたいな人間関係があって,おかずが行ったり来たりしたものだった。この復興住宅に入居して15年。ここでも隣近所でよくしてくれている。昨年膝の手術をした。いくらか楽になったものの,痛みはある。外出がたいへんになった。とくに坂がたいへん。バスはの乗るのはまだいいが,降りるのがたいへん。買い物は人に頼んでいる。新たにスーパーができたりして,便利になったが…。

・80代女性。「今のところ何とか元気でやっていけてます。自分で身の回りのことはしているので結構です。」<インターホン越しに応答>

・30〜40代女性。「困っていることはないです。被災者じゃないので…。子どもの世話で忙しいので…。」<インターホン越しに応答>

・40〜50代女性。「あ,それ,いいです。」<玄関ドアの網戸越しに応答>

・70代?男性。「ワシ解らん。留守番や。」<インターホン越しに応答>

2014-08-08 ↑TOP


第34(新生159)回訪問活動準備(2014/07/11)レポート〈日々新面目あるべし〉

神戸市営住宅・ベルデ名谷。住宅西側の川沿いから毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧くださいまして,まことにありがとうございます。

2014年の夏季も,神戸・週末ボランティア 新生では,「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」というテーマのもとで,阪神淡路大震災の被災者が暮らす,神戸市郊外の復興住宅(神戸市営住宅・ベルデ名谷,垂水区)への訪問活動をさせていただくことにしました。今回は,訪問活動前の準備をレポートしたいと思います。

前回,3月には,集中して4回の復興住宅訪問活動を行い,その中で,3月22日には「産経新聞」・「神戸新聞」・「毎日新聞」3紙に同行取材していただき,翌23日の「産経新聞」をはじめ各紙朝刊神戸版で紹介していただきました。そして3月30日には,旧グループ以来の仮設・復興住宅訪問通算600回を達成したのとあわせて,〈新生〉以来の訪問戸数も1000戸を超えました。以来3ヶ月あまりを経て,それまでの教訓を活かすべく,万全を期して,今季に臨むこととしました。

神戸市営復興住宅・ベルデ名谷。夏前の夕方のひととき。2013年,夏の終わりに,神戸市郊外にある復興住宅・ベルデ名谷への訪問を始めた際,夏の暑さの中で亡くなられた方の後片付けをされているところに出会ったことから,今2014年は,1回でも,暑さが本格化する前にお訪ねしたいと思っていました。

これは,お訪ねする側のボランティアの健康・安全管理にもなりますが,一方で,学生・生徒の皆さんにとっては,夏休みなどの時間が取りやすい時期ではなく,その前後の多忙な時期に活動スケジュールを組まなくてはならないことから,参加しにくくなってしまっていることは,申し訳なく思っています。

ニーズとのマッチングを図るという場合,これはいかんともしがたい面で,旧グループでの経験からしても,学校の長期休暇のほか,行楽シーズン,連休,年末年始,お盆休みなどの時期は,被災者・住民の方の在宅率が下がっていたり,平素別居している親戚の方などとの団欒の妨げになることが,往々にして見られ,敢えてその時期に訪問をすることに躊躇せざるを得ないものがありました。

今季の訪問活動は,当初7月第1週に計画しましたが,主宰者の都合により第2週の週末に変更し,あわせて,8月末〜9月上旬と,昨年同時期の訪問も計画しました。

引き続きのテーマのもと,フライヤーも制作しました。3月の掲載紙面を入れ,文言も簡潔を心がけました。

2014/7/12・13、神戸新聞「掲示板」阪神淡路大震災お話し伺いボランティア募集。神戸・週末ボランティア新生「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」そうしたところ,7月第2週前半〜半ばには,台風8号が日本列島を縦断するとの予報が出ましたが,週末までには近畿地方を通過しているとの予測のもとで,行うことにしました。

一応早めにプレスリリースをしましたが,参加者募集のご案内が,訪問活動初日の朝刊への掲載となりましたことにつきましては,ご容赦ください。

神戸・週末ボランティア 新生 復興住宅訪問予告ビラ。2014年7月今回は,訪問先のお宅に差し入れる「予告ビラ」をリニューアルしました。4月からの新たな連絡先電話番号メールアドレスを大書したほか,3月の掲載紙面を入れ,文言も解りやすく,誠意が伝わるようにしました。若干文字が増えて余白が少なくなったことから,実際の訪問時に伺ったところから,8月以降については,さらに改良することとしました。

まさに「日々新面目あるべし」です。

これは,秋艸道人の号をもつ歌人で東洋美術史研究者であった會津八一が,学生に示した心構え『学規』の一節です。

秋艸道人(會津八一)『学規』 「一 ふかくこの生を愛すべし  一 かへりみて己を知るべし  一 学藝を以て性を養ふべし  一 日々新面目あるべし」   学規
 一 ふかくこの生を愛すべし
 一 かへりみて己を知るべし
 一 学藝を以て性を養ふべし
 一 日々新面目あるべし
     秋艸道人
 

役立ち学ぼうとする者として心がけるとともに,皆さんにも是非味わっていただきたいものです。

現地での訪問活動の準備は,訪問前日の7月11日(金曜日)の午後に,地元からの参加者の協力のもとで行いました。

予告ビラへの宛名書き7棟1000戸近くの同住宅のうち,これまで訪問したのは380戸ほどで,そのほとんどが低層階で,3月の訪問から中高層階をお訪ねしていますが,今回は,3月にお訪ねしたのとは別の棟・ブロックの中高層階にお訪ねすることとしました。同じ階層であっても,性格の異なった複数箇所をお訪ねするのは,これまでと同様です。

現地での準備のメインが,予告ビラの投函です。まずは階下のポストでお名前やお部屋の配置などを確認させていただき,さらに玄関前の表札とあわせて,お名前が解れば,予告ビラに宛名書きします。

神戸・週末ボランティア 新生 復興住宅訪問予告ビラ。2014年7月、ベルデ名谷。それとあわせて,主宰者名も自署しています。こうして,是非お話しを伺わせてほしいとの,熱意と誠意をアピールするとともに,怪しい者ではないということを解っていただいて,ボランティアとしての信頼関係の構築の端緒になればと思います。

そうして住宅内を廻らせていただく中で,何人かの方にお会いしました。訪問予定先の方もいらっしゃれば,それ以外の方もいらっしゃいました。お会いした方にお声がけしながら,適宜現況などを伺いながら,ボランティアの活動の趣旨を説明し,理解を深めていただき,お伺いした際に安心していただければ幸いです。

実際にお伺いする前に,こうした対話を通じて,私たちボランティアを認識していただき,信頼関係もつくられてゆき,それがやがて充実したものにつながってゆく手応えを感じます。

ご参加,ご協力いただいた皆さんをはじめ,弊サイトThis is 神戸・週末ボランティアや,MixiコミュニティMixiページFacebookページtwitter - welove_kobeを通じてご縁をいただいております,すべての皆さんに感謝したいと思います。


この日伺ったところの概略です。

・80代女性。住宅内をぐるっと回ってきて,ここで休んでいるとのこと。ボランティアの趣旨と,今からそのための予告ビラを入れに行くことなどを説明。3月に新聞3紙で紹介されたと言ったら,興味を示されたので,記事のコピーがあるフライヤーを差し上げた。お住まいを訪ねたら,まだ訪問していないところだったので,伺う際はよろしく,と言って別れた。<住宅内の坂道の途中におかれているベンチで休憩のところにお声がけ>

・70代男性。この復興住宅に入居して15年。「とくに困っていることはない」,「別にええで」とのことだったが,入浴用品を持っていたので,「お風呂に行かれるのですか?」と尋ねたところ,そうだとのこと。自宅の風呂は壊れていて,神戸市に言っても修理してくれない。修理を依頼すれば,費用は全部自己負担になってしまうので,修理できないし,しない。<階下のポスト前でお会いしたところで,訪問活動の趣旨を説明>

・70代?男性。階下のポストに付けている南京錠が固くて施錠できないので,押し込んで締めてあげた。訪問活動の趣旨を説明,まだ訪問していないところだったので,伺う際はよろしく,と言って別れた。<階下のポスト前でお会いしたところで,お声がけ>

2014-07-22 ↑TOP


第33(新生158)回訪問活動 (2014/03/30) レポート〈仮設・復興住宅訪問通算600回&〈新生〉訪問1000戸超:再生への新たな展望〉

神戸市営復興住宅ベルデ名谷,山陽バス神和台口に咲く桜から毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。

2014年の3月,神戸・週末ボランティア 新生では,「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」というテーマのもとで,4回にわたって,お訪ねさせていただき,今回はその第4回目となりました。

2013年のパワープレイ〜ヘビーローテーションほどではありませんが,今2014年の3月も,集中しての訪問活動を行いました。場所は,同じ神戸の復興住宅でも,昨年同時期の神戸市営筒井住宅(中央区)とは対照的な,神戸中心部から離れた,垂水区の山中にあるベルデ名谷で,同住宅への訪問も12回目となりました。

ベルデ名谷・2番館前に咲く桜神戸の桜が平年よりやや早く満開になろうといる中での訪問活動となりました。

消費税の税率引き上げを翌々日に控えての訪問活動でした。当ボランティアとしても,増税後の経費増を考慮して,なるべく3月中に行っておきたいという事情もありました。増税の影響としては,それ自体にとどまらず,一方で年金や生活保護費の減額・切り下げなどがあるなかで,「お話し伺い」では,それへの備えや対抗策もまた採りにくいとの声も聞かれました。

そして今回はとくに,旧グループ以来の仮設・復興住宅訪問が600回に達したほか(支援活動としては620回),新たな活動主体である神戸・週末ボランティア 新生以来の訪問戸数が1000戸を超えました。

もちろん回数だけを問題にしていては意味はありません。その中身が問われます。当ボランティアでは,毎回の活動に当たって,そのとき,その場所ならではの意味,ミッションを明確化することを,大切にしてきました。

ベルデ名谷・桜越しにみる3・4番館あわせて,旧グループにおける,それ以前についても,それまでの経験を活かし,よいところは受け継ぎ伸ばすとともに,過ちは改め断ち切ることを,追求してきました。

その上にたっての600回であり1000戸超だといわねばなりません。

さらには,神戸中心部から離れた郊外の不便なところへの取り組みは,再訪問・巡回訪問はせず,全参加者で新たな訪問先を開拓してゆくこととあわせて,旧グループにおける,活動の原点といえるもので,これへの立ち返りを実現したことの意義もまた,忘れてはならないでしょう。

もちろん,単なるリバイバル版や復刻版ではなく,新たな時代情況にふさわしいものものでなければなりません。そうしたところから,継承・発展だけでなく,復興・再生への,新たな展望が開けてきます。

55.5° 山口牧生 ベルデ名谷 1番館横当ボランティアは,不定期でささやかな活動ながら,阪神淡路大震災の被災地にあって,おそらくは最後になるであろう新規プロジェクトとして,その有終の美を為さんとする気概を持って,取り組んできました。

それまでには少なかったところの,20代から40代の若い参加者の皆さんに恵まれたおかげで,たいへんなときにも,若さとパワーで,前進することができたほか,その問題意識と感性で,広く深い,充実した「お話し伺い」が実現したと感謝しています。

そうしたところから,従来,中心的としてきた高齢者世代よりも,若い世代や各層の抱える,現時点的な問題の発見と課題の共有,さらにはソリューションへの取り組みが,よりいっそう可能になってゆく手応えを感じます。

震災20年を控え,これまでの活動の継承や世代交代が課題とされている中,いち早く成功的に実現できたのではと思います。

あわせて,弊サイトThis is 神戸・週末ボランティアをはじめ,MixiコミュニティMixiページFacebookページtwitter - welove_kobeといった,WEBやSNSを通じた情報発信と交流においては,阪神淡路大震災関連では最大のものもあり,安心感と信頼できる交流の場と輪を,これまた成功的につくり出してこられましたことに,改めて感謝したいと思います。

こうした中,実際の活動としては,できることは限られ,その難化もまた不可避です。やりたいことはまだまだあります。今までできなかったこと,してこなかったことを,やっておきたいという希望は,ふくらむ一方です。

その可能性への展望が,開けてきたように思います。

これまでご縁をいただいたすべての方に感謝し,阪神淡路大震災の被災地の最深部から,東日本大震災の被災地・被災者をも展望しつつ,改めて「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」と呼びかけたいと思います。

なお,次回の復興住宅訪問活動夏季を予定しています。それまでしばしごきげんよう。


この日伺ったところの概略です。

・70代男性。須磨区で全壊。揺れに見舞われたものの,すぐには倒壊せず,もう大丈夫と思ったところ,ぐしゃっと潰れて,一気に全壊してしまった。住んでいた家は解体した。住めなくなったのでしゃあない。支援資金はもらった。義援金ももらったが,わずかしかなかった。近くの集会所に避難した。西区の仮設住宅で3年暮らした。何とか身体壊さない程度にやっていけた。その頃はまだクルマをもっていて,被災前に住んでいた近くまで運転して通勤して,靴の裁断の仕事をしていた。うまくできる人が限られることから,高くとれた。ガレージ車検などをやって抑える努力もしていたが,維持費が高くて,子どもに譲った。この復興住宅に入居して15年余り,ここへ来て1年後に妻を亡くし,以来ずっと一人暮らし。この復興住宅に来た頃からちゃんと定期検診を受けるようにしており,病気で寝込んだことなどもなく,身体悪いところはない。健康だけは自信ある。地震の後からはよく寝られず,以前住んでいたあたりに薬を出してもらいに行っている。早寝早起きするようにしている。この部屋は朝日が入って暖かく,西日がささない。寒いときは(遅くまで起きていると,暖房の)灯油代が高くつくし。身の回りのことは自分でやっている。できるだけおさえているが,タバコは1日に最低2箱吸う。(相次ぐ値上げや増税のため)タバコを50個買いだめしているが,ふかしているだけで,深くは吸わない。娘・息子2人とも大学を出したら,お金がなくなった…。ここは静か。今年はちょっと寒かったかなと思うが,雪も降らなかったし,こたえなかった。もうすぐ桜が観られる。ここでは買い物には不自由していない。天気がいいときは,近くの山を歩くこともある。私たちのボランティアが紹介された新聞記事は見た覚えがない。訪問時,野球中継を観ていた。巨人ファンとのこと。テレビ見たり将棋のゲームをしたりして過ごすことが多い。ウサギを一時飼っていた。妻には多少なついたが,自分が抱くと嫌がって,指を噛まれたこともある。猫も好きで,娘にかわって世話していたもので,なついたら可愛かった。最後は葬儀屋に依頼して,きちんと葬式を出してあげた。近くのスーパーのペット売場で犬を見たら,10万とか12万とか,高いのがいた。出かけるとき,垂水はちょくちょく行くが,名谷の方がよく行くかも。<お部屋に上げていただいてお話し伺い>

・80代女性。長田区で全壊。家にいたらドシンと落ちた感じだった。暗かった中,手探りで脱出した。ケガなどはしなかった。当時同居していた息子が東京出張で不在で,被災時は一人だったので怖かった。バラックから興して築きあげた自宅兼工場は,焼けなかったが,家財はすっかり盗られてしまい,何もかもなくしてしまった。近くの学校の避難所や娘宅に一時身をを寄せたあと、西区の仮設住宅へ。グラウンドに造られた仮設住宅は大規模なところで,駅からはバスに乗って,さらにかなりある金場ならず,家に帰るのに迷った。この復興住宅に入居して15年。ここへ見学に来て入居を決めた。娘が時々世話をしに来てくれる。孫が近くにいる。杖や押し車の歩行器がないと歩けないが,この住宅の周囲を散歩する。買い物は,週1回、コープの「個配」を利用するほか,急ぐときは娘が単車でもってきてくれる。ここは静かでいいところ。震災で貧乏して,お金はあまりないが,気楽に居れて幸せ。階によっては空き家が目立つが…。淋しいときは息子に電話する。持病のため,定期的に通院している。バスで移動していたが,転んで子どもに迷惑をかけてはいけないと思い,やめた。(最寄り駅である)名谷駅からこの復興住宅までタクシーで2000円くらいかかる。隣の人とは仲良くしている。近所づきあいはあるが,認知症の人もいたりしてたいへん。同じ階で亡くなる人も多いし,子どもと同居する人も…。4人の子どもは皆いい子に育ってくれてよかった。皆孝行してくれて幸せ。<玄関内でお話し伺い>

・70代女性。訪問の1週間以上前,予告ビラ投函時にお会いしたので,活動の趣旨を説明したところ「ご苦労さんです,すいません,(訪問当日)家にいたらね」。訪問時ベルを鳴らしたところ,「何屋さん?」と聞かれたので,先日お会いしたボランティアである旨説明。「今,身体悪くして寝てるところ。ごめんね。」<インターホン越しに応答>

・70〜80代女性。(震災の時のことや今お困りのことなどをお尋ねしたところ)「年もいっているので,そんなややこしいこと…。穏やかに暮らしています。」<インターホン越しに応答>

・60代女性。エレベーターに乗り合わせたところ,抱いている犬に向かって「アホ,アホ」と言うので,わけを尋ねたところ,老犬で認知症だとのこと。それでも散歩に連れ出している。

・70代女性。(お困りのことは?)「ないです。身体は大丈夫です。」(地震の時のことは?)「ちょっと都合悪いので…。」<インターホン越しに応答>

・40代女性。この復興住宅に入居して10年以上。一般入居で,被災者ではない。高齢者うちにはいない。<インターホン越しに応答>

・30代?女性。この復興住宅に入居して5年。一般入居で,被災者でもなければ,震災の経験もない。もともと神戸の人ではない。

・70〜80代男性。「体調悪いので横になってます。」<インターホン越しに応答>

・30〜40代女性。「すみません。大丈夫です。」<インターホン越しに応答>

・60代男性。(お困りのことは?)「いいです。」<インターホン越しに応答>

・少年。「親いないので解らない。」<インターホン越しに応答>

・70代女性?「問題ないです。」<インターホン越しに応答>

・70代女性。長田区で被災。<自身でシート記入>

2014-06-30 ↑TOP


第32(新生157)回訪問活動 (2014/03/29) レポート 〈仮設・復興住宅訪問通算599回:臨場感を! 方法と過程の提示〜姿勢と態度〉

ベルデ名谷・3番館横に咲く桜毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。

2014年の3月,神戸・週末ボランティア 新生では,「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」というテーマのもとで,4回にわたって,お訪ねさせていただき,今回はその第3回目となりました。

前の週の土曜日曜に続いて,この週末も,垂水区の山中にそびえる神戸市営復興住宅・ベルデ名谷への訪問活動を行いました。好天に恵まれた中で,神戸の桜も満開近くになる中で,復興住宅の周辺でも,桃にかわって,何本かを観ることができました。

PLAZA FISH 川口 彰久 垂水東口都心から離れた分,自然に恵まれているとも言えるでしょうが,むしろそれよりは,その厳しさと不便さの方が大きいというのが,正直なところでしょう。住宅内でも,花壇をつくったりして,花や木を丹精されている方の姿をみてきましたので,ともあれ,季節の変化を愛で楽しめているようです。

昨年の同時期に行ったパワープレイ〜ヘビーローテーションほどではありませんが,集中的な訪問となりました。正直なところをいうならば,経費の都合上,消費税引き上げ前の3月になるべくしておきたいという事情もありますが…。

この週の訪問予定先への予告ビラ投函は,前週分同様,21日に行いましたので,1週間以上の余裕があることになります。23日朝刊3紙でご紹介いただいたのとあい前後したことから,「ひょっとして,新聞の?」と仰った方もおいででした。

ベルデ名谷・2番館前ここで問われるのが,姿勢と態度であり,あわせて求められるのが,方法と過程の提示でしょう。

そうしたメディアを通じて信用してくださる方がいらっしゃるのはありがたいことですが,それに甘えず,またおごることなく,「宗教や政党など全く関係のない民間のボランティア」ならではの態度・姿勢で臨むことの重要性を,自戒を込めて確認しなければと思いました。

先頃以来,作曲家・佐村河内守が,ゴースト・ライターに代作させていたのに加え,全聾を詐称していたことが暴露され,さらには,音楽を志す障害者の尊厳をふみにじる言動をもってしたことも伝えられ,非難を浴びました。

ベルデ名谷・住宅裏の公園に咲く桜それに続いて,神戸医療産業都市構想のもと,その中核施設のひとつとして,ポートアイランドに誘致された,理化学研究所 発生・再生科学総合研究センターにおいて,小保方晴子・研究ユニットリーダーらによって,ノーベル賞級の世紀の大発見といわれた「STAP細胞(刺激惹起性多能性獲得細胞)」が発表されるや,程なくさまざまな方面から疑惑が浮上し,一転して,データや画像の捏造・盗用が指摘され,過去の論文における捏造・盗用の暴露に及び,さらには,それを許してきた理研の体質や組織的責任までもが,問われるに至ったことは,周知の通りです。

専門家の間での議論や論文作成では,方法や過程を提示しなければなりません。どのようにして,その結果・結論を導き出したのかを示し,同じ条件があれば,再現できることが求められます。自然科学ではそうですが,人文・社会科学では,対象への影響についても考慮しなければなりません。

当ボランティアでも,せっかく伺ったことを,しっかり受け止め,きっちり残し,役立ちと学びに供するためには,それが,どのような状況で,どのような方法・過程でなされたことを示しておくことが望ましいと考えます。それは,成功的なケースに限らず,不成功や失敗とってもいいケースについても,示していきたいと思います。

その場の雰囲気やニュアンスまで,どれだけ伝えられるかはともかくとして,長時間にわたる「お話し伺い」だけでなく,インターホン越しなどの短いやりとりであっても,極力記録して公開するのは,そのためです。

55.5° 山口牧生 ベルデ名谷 1番館横自らの姿勢・態度を顧みることは,方法や過程の提示,対象への影響の考慮について示すのと同じく,理解を助け,説得性・信憑性を高めることでしょう。

こうした,個別具体的な内容だけでなく,その背景や,周囲の情況もあわせて伝えてゆくことで,自分がその立場だったら…と考える学びの姿勢や問題意識も,ヨリいっそう深まるでしょう。そうして,「お話し伺い」の臨場感を伝え,成果を共有できればと思います。

翌日・次回の訪問活動では,仮設・復興住宅訪問通算600回,〈新生〉以来の訪問戸数1000戸超を達成することになりました。それについては,おってレポートしたいと思います。


この日伺ったところの概略です。

・70代女性。垂水区で半壊。この復興住宅に入居して13年。一般入居だが,補欠の1位になっていたので,1回の抽選で入れた。住み慣れた地にあった当時の家は,壁にひびが入ったりしたので,一時避難した。高いところだったので,一時水道も止まり,ガスが早くに回復しても使えず,妹宅で入浴させてもらったことも。健康状態は大丈夫。(この復興住宅では,1〜7番館の棟ごとに自治会があるが)回り持ちなので,この棟の自治会長をしたことがある。姪も東灘区で全壊し,少しの間避難所暮らしをしたが,すぐマンションに入った。当ボランティアを紹介した新聞記事は見ていない。孫がいるが,こちらに遊びに来るのではなく,こちらから出かけていく。<「お話し聞いてもらうだけでしょ?」との問いに,話すことで気持ちがすっきりして明るくなっていったり,考えがまとまっていったりしてもらえればとい思ってやっているほか,求められればアドバイスもしますと,ボランティアの活動の趣旨を説明>

・80代女性。垂水区で被災。揺れはあまりひどくなかったが,倒れてきたものもあった。車2台をダメにしたが,身体は大丈夫だった。この復興住宅に入居して13〜14年。竣工してしばらくしてから,一般で入居した。訪問した日の午前中,お腹がきりきりと痛くなったので,痛み止めを飲んでいた。普段から周囲の物音が気になって,気分が悪くなることも。体調が悪く,あまり外出はしない。買い物は,住宅下のコンビニで済ませる。ちょっとしか持って帰れない…。あまり人と話すことはなく,懇意なつきあいもない。
<「体調悪いのでおことわりします」と,自身で記入された支援シートを用意されていたが,玄関口でのお話し伺いに応じてくださった>

・70〜80代女性。灘区で全壊。近くで亡くなった人もいた。西区の仮設住宅を経て,この復興住宅に入居して15年。(ボランティアや訪問の趣旨を説明したところ)「今頃こんなの聞きに来ても遅い」。介護サービスをたくさん利用している。外出時には手押し車の歩行器を使用している。困ったことは,平日に常駐しているLSAやケアマネージャーを通じてやってもらっているので大丈夫。押し売りなどで困っているので,訪問者には厳しい態度を取っている。<出かけるところながら,玄関前でお話し伺いに応じてくださった>

・20〜30代女性。震災時は垂水区にいた。震災は子ども心に怖かった。同じ垂水区からこの復興住宅に入居して6〜7年。子どもが大きくなって,ここを申し込んだ。よく出かけていたからか,何かに紛れたのか,先週投函したはずの予告ビラは見覚えないとのこと。みんな健康状態は大丈夫。子どもが「おしっこ!」とのことで切り上げ。<玄関先でお話し伺い>

・60〜70代男性。震災には関係なく一般入居でこの復興住宅に入居して3年。申し込んでもなかなか当たらず,これまで17回も落ちた。周りはお年寄りばかり。80代ばかりか,中には90代もいる。<廊下で出会ったところに,ボランティアや訪問活動の趣旨を説明してお話し伺い>

・80代女性。中央区で全壊。「土曜日は娘の家に行きます。帰りは買物(スーパー)をする予定が、先週から約束していて、娘の仕事の都合に合わせていますので、留守になります。折角こられますのに、誠に申訳ございません。」<自身でシート記入>

・70〜80代女性。「ご苦労さまです。」(ボランティアや訪問の趣旨を説明したところ)「まだ大丈夫やで。(ゼスチャーで示しながら)こねなったらお願いします。」<エレベーター附近にてお話し伺い>

・70〜80代男性。(ボランティアや訪問の趣旨を説明したところ)「大丈夫です。元気です。」<ややしんどそうな声でインターホン越しに応答>

・70〜80代男性。(震災の時のことについてお尋ねしようとしたところ)「悪いけど,今は静かにさせといてくれ。」<インターホン越しに応答>

・30〜40代男性。母親が入院中で,自分は留守番なので,(震災の時のことや今お困りのことなどは,)何もわからない。<ドアを開けて応答>

・70〜80代女性。(お困りのことは?)「ないです。」(健康状態は?)「元気でやってます。」(震災の時のことは?)「もういいです。」

・50代女性。「すみません。今誰もいてないないので…。」(お留守番の方ですか?)「ええ。」<インターホン越しに応答>

・70〜80代女性。(ボランティアや訪問の趣旨を説明したところ)「ああ,よろしいです。」<インターホン越しに応答>

・少女。(ボランティアや訪問の趣旨を説明したところ)「いいです。」<インターホン越しに応答>

・70代女性。「足悪くて出れないので結構です。」<インターホン越しに応答>

・70代女性。「いいです。」<インターホン越しに応答>

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第31(新生156)回訪問活動 (2014/03/23) レポート〈仮設・復興住宅訪問通算598回:現在も大切に〜「産経」・「神戸」・「毎日」3紙に紹介されました〉

ベルデ名谷:シルバーハイツ運用されている早期竣工した1・2番館毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。

2014年の3月,神戸・週末ボランティア 新生では,「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」というテーマのもとで,4回にわたって,お訪ねさせていただき,今回はその第2回目となりました。

春分の日に続く連休で,彼岸でもありますが,前日の3月22日に続いてこの日も,桜のつぼみもふくらんでくるような好天の中,神戸市垂水区にある復興住宅・ベルデ名谷への訪問活動を行いました。

ベルデ名谷・2番館前 早春お留守の方も目立つ一方で,長時間にわたる充実した「お話し伺い」も実現し,有意義なものになりました。貴重な役立ちと学びの機会となりましたことに感謝したいと思います。

既に説明しておりますように,当ボランティアでは,旧グループの仮設住宅訪問活動以来,訪問予定のお宅に,チラシを投函して,訪問をお知らせしてきました。連休初日で春分の日である21日という,ほとんど直前になっての,予告ビラ投函となったこともあって,お出かけの方も多かったのではと思います。

旧グループで定期的な復興住宅訪問活動を行っていた際にも,連休にかかる週末はお留守が目立つ傾向にありましたので,新たな活動主体となってからは,なるべく避けてきましたが,3月については,昨年同様今年も,他行事とのかねあいでスケジュールを調整しながら,集中して訪問活動を行う関係上,この時期にお伺いさせていただきました。

訪問時にドアに差したままになっている予告ビラも目立ちました。訪問当日にドアに差してある予告ビラは,裏面のシートへの記入の有無にかかわらず,確認と防犯の観点から回収しています。なお,ご記入くださった場合は,受領した旨のメモを入れております。

前日3紙の同行取材がありましたが,この日の朝刊の神戸版で,写真入りでご紹介いただきました。いずれも,単に活動が行われていることや存在証明的なものにとどまることなく,当ボランティアの活動の内実や今日的意義・課題などについて,報じていただきました。

産経新聞神戸版:「時間重ねて見える問題も」復興住宅訪問600回に 神戸のボランティア団体 20140323また,同じ取材源であっても,各紙のスタンスや記者の問題意識から,それぞれの特色を持ったものになりました。それによって,訪問活動〜「お話し伺い」の意義や充実ぶりを,なおいっそう明らかにしてくれました。

産経新聞神戸版:
時間重ねて見える問題も」復興住宅訪問600回に 神戸のボランティア団体
この記事では,この3月下旬の4回の訪問活動で,旧グループ以来の通算600回に当たることのほか,「東日本大震災の発生後は東北の復興に関心が移る中、阪神大震災当時の勤労世代が引退を迎え、経済的に苦しんだり健康を損なったりして問題は山積している」と,この数年来訴えてきた,当ボランティアの中心的課題について,真っ正面から紹介していただきました。

神戸新聞神戸版:
住民の悩み聞き続け 神戸・週末ボランティア 新生 「将来の一助に」 復興住宅訪問、仲間募る
この記事では,当ボランティアの現在の活動のありよう,主宰者とその問題意識などについて,丁寧に紹介していただきました。

神戸新聞神戸版:住民の悩み聞き続け 神戸・週末ボランティア 新生 「将来の一助に」 復興住宅訪問、仲間募る 20140323毎日新聞神戸版:
「神戸・週末ボランティア新生」、被災者訪問30回目/兵庫
この記事では,今月中に,重複なしの実数ベースで訪問戸数が1000戸を超えようとしている,新たな活動主体の独自の歩みを,その内実と意義について,紹介していただきました。

訪問先の方だけでなく,それ以外の住民の方からも「今朝新聞で見たよ」とお声がけいただきました。

毎日新聞神戸版:「神戸・週末ボランティア新生」、被災者訪問30回目/兵庫前回から中高層階への訪問を始めましたが,この日は前日と同じ棟の,ほぼ同じ階層への訪問となりました。低層階でもそうでしたが,よりいっそう,棟ごと,ブロックごとの違いが,顕著になっているのを感じました。

こうしたボランティアといえば,必ずと言っていいほど,高齢者を対象としたものとのイメージで語られ紹介されます。もちろん,高齢者,とくに独居の方が多いなかにあっては,それが中心的な取り組みになるのですが,決してそればかりではありません。

もちろん,阪神淡路大震災被災者支援として始めたものですから,必ず一度は,震災についてお伺いしていますが,そればかりでもありません。

実際,近年になって,この復興住宅に入居された方の多くは,市営住宅として一般入居されているわけで,子育て世代,ファミリー世帯の方も目立ちます。そうした方々の中には,ボランティアは必要ないのではと思われる方もいます。

当ボランティアでは,震災のこともさることながら,暮らし向きや健康状態など,現在のことについてもお伺いしています。

新たな活動主体となって以来,20代から40代の若い参加者とともにお伺いしていますので,そうした世代ならではの視点や立場も共有できればと思っています。それをも含めて,広く人生について学ぶ機会になっていければと思っています。

そして,「時間重ねて見える問題も」という場合,そこにはさまざまな意味があります。

直接的には,新たに発生した,或いは最近になって深刻化したものをいうのですが,一方で,一般的・基本的な問題,古くて新しい課題もあります。時間軸のなかで,それを位置づけて想起することの意義を,忘れてはならないでしょう。

さらには,長年そうした情況の中に在って生きてこられたことに思いを致すこと,長年さまざまな活動に関わりながら,学び成長してこられた先達に,リスペクトをもって学ぶことの意義を,ここで改めて訴えたいと思います。

「お話し伺い」に応じてくださった方々をはじめ,弊サイトThis is 神戸・週末ボランティアや,MixiコミュニティMixiページFacebookページtwitter - welove_kobeを通じてご縁を戴いておりますすべての皆さんに感謝したいと思います。


この日伺ったところの概略です。

・70〜80代女性。東灘区で全壊。近くの学校の避難所に避難したが,夏まで半年以上いた。ポートアイランドの仮設住宅で4年過ごした。みんなが出ていったあと,棟で最後まで残っていた。仕事があったので,なかなか移れなかった。この復興住宅に入居して15年。ちゃんと元気な人もいれば,身体悪くなる人も,ヘルパー頼んでる人も。周囲の人がしっかりしていれば,色々なことを教えてくれるのだが…。1人だと,自分の考えだけできたから,老後になると不安が…。ここへ来てよかったかと言われると…。ちょっと不便かな。大勢だと近所づきあいも難しい。静かに暮らしたい。怖いと思いながら生活するのはイヤ。変に声を掛けてトラブルになるといけないので,話さないようにしている。若い人は怖い。これも震災が発端や。(被災者が優先入居する復興住宅である以前に)市営住宅に住むことの難しさもある。ここに来て14年してから,しあわせの村で行われている老人大学に行き始めた。週2回で3年以上卒業になる。福祉に関する科目を受講し,それを活かして老人ホームでのボランティアをしている。以前は,被災時まで住んでいたあたりの医者に通っていたが,最近は復興住宅の近くにしている。自分も年を取ったが,医者も高齢で辞めてしまったためだ。だんだん話題が少なくなっている。年なんで…。私たちのボランティアのことが新聞に出ていたので,安心して話せた。ボランティアに話しておけば,何かあったとき伝えられる。東日本大震災で被災した東北の人も大変だろう。若い人は外へ出られるからまだいいが,年を取ってもっと大変になるのは,自分たちと同じだろう。従来神戸市から高齢者に配られていた,喜寿や米寿などのお祝いがなくなってきた。来年以降の人は気の毒。長生きの楽しみがカットされてきた。まだ歩けているが,もうちょっとしたら杖とか要るようになるだろう。できるだけ自分でできたら幸せと思っているが,(この住宅から一歩出ると)坂だから…。頭と身体がついていかない。杖をついては,荷物を持って上がってこれない。宅配・個配もあるが,自分でみて選べない。今度地震が来たら,坂が大変なことを,考えてあげてほしい,教えてあげてほしい。坂が身体にこたえてくる。便利な街中に何十年も暮らしていたから,住んでみるまで考えられなかった。この部屋は,西日がささないのはいいが,風が抜けない。寒さの方がこたえる。寒いときは,朝ゆっくりしている。早く起きても暖房代がかかるだけなので。暑さはまだ我慢できる。このまま老いていくのはイヤ…。震災のあとや仮設住宅にいた頃は,こういったことは考えられなかった。もうすぐ消費税が上がるが,持って帰るのも大変だし,買い込んだらたくさん消費しそうなので,買いだめは考えていない。4月に入ったら花見に行く予定。

・80代女性。夫(80代)と夫婦2人暮らし。須磨区で全壊。築80年の2階建ての家だった。着の身着のままで,近くの学校に避難した。たまたま翌日に予定していた行事のためのお菓子が食料になって喜ばれた。近所の人が供出してくれたストーブで暖を取ったりと,協力してくれて助かった。避難所ではトイレの世話などをさせていただいた。息子が迎えに来てくれ,娘のところに10ヶ月身を寄せて,仮設住宅を申し込んだ。西区の仮設住宅では,自治会の立ち上げなどもした。餅つきをしたときは40kgもつくった。婦人会のつてボランティアもお願いした。小学生も訪問してくれた。同じ仮設住宅に暮らした人たちとともに,その人たちにまた会いたい。おぜんざいの会やふれあい喫茶のようなものもした。比較的小さい仮設住宅だったが,海外からも視察に来た。西区内の6000戸の被災者を訪問した。何度も行ってやっと話しをしてもらったりしたのも,いい想い出。仮設住宅に3年暮らした頃,子どもが家を建て,同居をすすめてくれたが,結局,復興住宅を申し込んで,夫と2人で,ここに入居した。ボランティアをして色々勉強になった,自分にとっての成長期だった。復興住宅に来てからも色々お世話をしてきたが,一昨年体調を崩し,役を退いた。元気だったことのありがたさをしみじみ感じる。ここはよかった。色々な人たちが集まって,想い出ができた。訪問して,色々なことを吸収しできたのも,震災のおかげと感謝している。若い頃からボランティアなどをしてきて,苦しいことや,楽しかったこともあった。色々な想い出もある。この復興住宅の棟では,最初から住んでいる人は1/3以下になった。1人になって話す相手がなくなり,認知症になる人も。ここへ来た初めの2〜3年は,人間関係も難しく,なかなかまとまらず,大変だったと思う。ここで亡くなる人などは,すぐ対応してきた。備え付けてあるAEDの使い方を教えたりした。東日本大震災で被災した,東北の人の気持ちも解る。できることをしてお役に立てれば…。
「御苦労様でございます。おはなしは、山ほどございますが、…インターネットは止めましたので表記の連絡は出来ません。週末ボランティアさんには、15年間,1度もお越しいただいておりませんが…。」<自身でシート記入の上でお話し伺い。仮設住宅や復興住宅でお世話をしてきたときの想い出の品などをみせていただいた。>

・80代女性。灘区で被災。須磨区のワンルームマンションに入ったが,家賃が高かったので,市営住宅に申し込んだ。この復興住宅に入居して15年。ここへはいちばんに入った。初めは閉じこもりがちだったが,長い間かけて,少しずつ出るようになった。毎日買い物に出かけるのは大変で,こけないか心配。とくに天気が悪い日は。少しでも歩かないと,足が悪くなっていくので,リハビリをかねて,1日1回は外出するようにしている。ここでは住民の入れ替わりが多く,旧い人は少ない。となりの人とは仲良くしていて,何かあってもすぐ来てくれる。親の代から神戸にいる。同じ小学校の友人も,震災後はいっそうバラバラになり,亡くなった人もも多く,同窓会も行きづらい。<玄関前の廊下にて。訪問日は,この棟の総会があったため,終了を見計らって,遅めの時間帯に訪問。戻られて程なくしてのお話し伺いに>

・80代女性。垂水区で被災。震災後も,一時子どものもとへ身を寄せたが,しばらく住んでいた。この復興住宅に入居して2年。ここは隣近所がいい人でありがたい。以前に転んで圧迫骨折して,やっと治ったところなので,注意している。さっきは買い物に出かけていた。これからまた用事で出かけるところ。<訪問時お留守だったため,自身で記入したシートを回収。その後帰宅されたところにお話し伺い。再度お出かけになるところ,仲良くされている近隣の方とともに,さらにお話し伺い。>

・70代男性。須磨区で半壊。被災後苦労したのは水。家が高いところにあったので。この復興住宅に入居して15年。来たときは夫婦2人だったが,ここで妻に先立たれた。以来一人暮らし。今は(介護保険やヘルパーを利用せず)まだ自分でやっている。だいぶ前,近くで孤独死があった。身体悪いところはない。<ドアを開けて応答,玄関でお話し伺い>

・30代?女性。子どもは春休み中。特に困っていることはない。<(予告ビラ裏面のシートに)「何も書いてないんですけど…」と言いながら,インターホン越しに応答>

・「震災わ受けてませんので申しわけないですがお話することがありません。」<自身でシート記入>

・40〜50代女性。「今回はちょっと体調悪いので,いいです。」<インターホン越しに応答>

・30〜50代女性。「はい,大丈夫です。みんな元気です。」<インターホン越しに応答>

・70〜80代女性。「いいです。」<インターホン越しに応答>

2014-06-28 ↑TOP


第30(新生155)回訪問活動 (2014/03/22) レポート 仮設・復興住宅訪問通算597回:忘却に抗して〜「産経」・「神戸」・「毎日」3紙に同行取材していただきました

20140322「産経」・「神戸」同行取材分毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。

2014年の3月,神戸・週末ボランティア 新生では,「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」というテーマのもとで,4回にわたって,お訪ねさせていただき,今回がその第1回目となりました。

1月後半以来,約2ヶ月ぶりに,垂水区の山中にある神戸市営の復興住宅,ベルデ名谷への訪問活動を行いました。1月は,「希望の灯り」の分灯をもっての訪問でしたが,今回は従来通りのスタイルで,まったく物的支援を伴わず,「お話し伺い」に専念しました。また,厳寒の2月は,住民の方と私たちボランティア双方の負担を考慮して,見送りました。

これまで8回の訪問活動では,各棟の低層階を中心に廻らせていただきましたが,今回からは,中高層階にお住まいの方をお訪ねすることにしました。その際,これまでと同様,同じ訪問活動日に,別の棟3箇所ほどから,各々数戸〜10戸ずつ,計約30戸を,お訪ねする方法を,引き続き採り,なるべく多彩な情況に出会えるようにしました。

産経新聞神戸版:「時間重ねて見える問題も」復興住宅訪問600回に 神戸のボランティア団体 201403233月といえば,震災と同じ1995年の地下鉄サリン事件や2011年の東日本大震災などのため,阪神淡路大震災の被災地・被災者にとっては,忘れ去られる月でした。そうした中,あえてこの地で活動を行うにあたっては,こうした忘却の流れに抗して,今一度改めて,関心を取り戻していくことも,ミッションの一つといわねばならないでしょう。

さらにいうなら,阪神淡路大震災から20年目となった今2014年の3月という時期に,長年住み慣れた地や環境から,郊外の離れた地に,切り離されたまま,歳月を経た被災者の現状に光をあてるべく訴えていくことの意義は,とりわけ重かつ大だといえるでしょう。

この3月は,4回の集中的な訪問活動の中で,旧グループ以来の仮設・復興住宅訪問通算600回,〈新生〉以来の,重複なしの実数ベースで訪問戸数1000戸超を達成する見込みをもっての取り組みとしました。

そうした中,この日は,早くから問い合わせをいただいた「神戸新聞」社会部のほか,「毎日新聞」神戸支局,「産経新聞」神戸総局の記者も加わって,3紙の同行取材となりました。

神戸新聞神戸版:住民の悩み聞き続け 神戸・週末ボランティア 新生 「将来の一助に」 復興住宅訪問、仲間募る 20140323集合場所としている,垂水駅東口のいかなごのモニュメント前には,ボランティア参加者に加え3紙記者も順次加わって,盛況の観をなしました。かつて旧グループでは,駅前などの集合場所で,事前レクチャーを行って,仮設・復興住宅の現地へ向かっていましたが,ちょうどそれが復活したような雰囲気でした。さらには,現地へ向かうバスの中でも記者たちの質問に答えながら,予定よりやや遅くなっての訪問開始となりました。

「こんにちは。ボランティアの者です」との声にドアを開けてみれば,一時はボランティアを上回る大勢の報道陣の姿に,驚かれたかもしれませんが,快く「お話し伺い」に応じてくださったことに感謝したいと思います。

毎日新聞神戸版:「神戸・週末ボランティア新生」、被災者訪問30回目/兵庫各社の原稿締切の時間と,当ボランティアの訪問先・順序の選定の関係もありましたが,この数年来,問題提起し,それを伝えていくことの重要性を訴え,それをミッションの一つとしてきたところの,被災当時の現役世代が高齢化してきて深刻化した問題について,伝えていただけたことに,また,弊サイトThis is 神戸・週末ボランティアをはじめ,MixiコミュニティMixiページFacebookページtwitter - welove_kobeといった,WEBやSNSの活用など,〈新生〉の活動方法,情況,内実,意義,旧グループとの異同など,それぞれの視点から,好意的に取り上げていただいたことに,感謝したいと思います。

ベルデ名谷・7番館低層棟屋上「秘密の花園」今回は,住民の年齢層がとりわけ高い,シルバーハイツとして運用されている,早期に竣工した棟への訪問を最後にしたため,「時間切れ」となって,一般的に考えられているような復興住宅の高齢化という観点からは,十分な同行取材ができなかったと思われたかもしれません。しかしながら,それがかえって,現時点的な,新たな問題・課題を浮き彫りにできた面もあったかと思います。

この日の訪問活動は,翌23日各紙神戸版朝刊で紹介していただきましたので,既にご存じの方もいらっしゃると思います。

産経新聞神戸版:復興住宅訪問600回に 神戸のボランティア団体
神戸新聞神戸版:住民の悩み聞き続け 神戸・週末ボランティア 新生 「将来の一助に」 復興住宅訪問、仲間募る
毎日新聞神戸版:「神戸・週末ボランティア新生」、被災者訪問30回目/兵庫

各紙で紹介されている分も,いない分も,それぞれに貴重な,有意義な「お話し伺い」をさせていただきました。それぞれあわせてご覧くだされば幸いです。


この日伺ったところの概略です。

・70代男性。夫婦2人暮らし。須磨区で全壊。西区の仮設住宅を経て,この復興住宅には,竣工後ほどなく入居。ベルを鳴らしてから,しばらく待って,玄関口まで出てこられたところ,立っているのが大変とのことで,お部屋に上がらせていただく。若い頃携わった鉄工関係の仕事では,1800度に溶けた鉄を型に流し込んでいた。神戸ポートタワーに使われているパイプもつくっていた。10年やっていたら腰を痛め,1年入院した。さらに,長年仕事で高熱に晒されたり,色々な粉塵や有害物質などを吸い込んできたため,呼吸器系や内臓を痛めている。肺気腫やその合併症などのため,とくに,お腹が大変だとのこと。結石ができて,ものすごい痛みがして,いっぱい石が出たこともあった。肺は真っ黒で,レントゲンを撮れば,かなり重度なのは解るが,40歳ぐらいから発症し重症化した糖尿病のため,医者が手術などをしてくれない。この近くを初めとして,神戸内外の主な病院はほとんどダメだった。震災後は,西区の仮設住宅やこの復興住宅から,長田区の職場まで通勤して,ムリを重ねながら,60歳まで仕事を続けた。退職した日から電動車イスに。ベッドの上に座って話されるのを,お部屋とその前の廊下に腰を下ろして,お話しを伺った。(ベッドの上に)こうして座っているのもつらい。寝ていても腰骨とかが痛く,どちらも大変。外出は電動車イス。建物のすぐ外から坂なので大変。デイサービス,移動サービスを利用。今日の体調は普通。奥さんはずっと神戸の人,夫婦ともに糖尿病で大変…。<お部屋に上げていただいてお話し伺い。>

・70代女性。垂水区で一部損壊。この復興住宅に入居して5年。ここに入るまで市営住宅に7回申し込んだ。被害はとくになく,1日避難したぐらいだったが,水道とガスが5ヶ月も使えないままだった。かなり離れた北区まで入浴に行った。以前は中央区で仕事をしていたが,震災後仕事がなくなり,失業保険を受給した。その間に取得した資格を活かして,今は,それまでとちがって,看護助手(介護)の仕事をしている。近所づきあいはほとんどなく,隣近所の顔も名前も知らない。話をする人と言えば,仕事先の人やの人や自治会長さんぐらい…。老人会などにも参加していない。どんな人が住んでいるのか解らないので不安。今はまだ元気だからいいけれど,倒れたときなど,何かあったらと思うと…。(以前住んでいた公団住宅では全世帯の名簿があったが)ここには住民の名簿がないばかりか,表札も出していないところが多い。棟によって違うようだが…。
「ご被災状況:水、ガス、5ヶ月使えない。お疲れ様です。震災の時皆様大変でした。今は東北の皆様はもっと大変ですね。テレビ見まして涙がでました。震災後、大切な人や、友だち皆んな天国に行ってしまい一人になり、淋しいです。生活は病気になり、苦しいけど、しかたない、しゃーない。生きてなければと思います。皆様表札がないのでお隣さんの名前も顔も解りません。せめてこの棟だけでも名前(名簿)が知りたいと思います。やはり認知症が心配です。」<自身でシート記入の上,玄関内でお話し伺い>

・70代女性。80代夫と2人暮らし。垂水区で被災。住んでいた民間マンションに被害はなく,ケガなどもなかったが,テレビが落ちてきたり,仏壇が倒れてきたりするなど家の中はグシャグシャだった。,結局何もかも捨てた。公団住宅を経て,この復興住宅に入居して5ヶ月。近所づきあいは少しあり,住人に親しい人もいる。身体に優しい,バリアフリーな住宅に移ろうと,市営住宅を申し込んで,ここに来た。心臓で2回手術し,腰痛に苦しむ夫の介護をしてきて,自分もそれに近付いてきたように思う。このあとの生活が,どのように暮らしていけるのか不安。(これ以上)何もしてあげられないし,何かあったらと思うと不安。

・70代女性。兵庫区で半壊。震災時は2階建てのアパートに住んでいた。他の住人は皆仮設住宅に入ったが,自分は一人でそこに住み続けた。北区の市営住宅に8年住んだあと, この復興住宅に入居して3年。仕事を辞めてここへ来た。ここの方が住居費が安い。冬も暖かく,ここの方が楽。お出かけはたまに。病院はきらいなので,かかっていない。親しい人とはたまに電話で話す。友だちもだんだん減ってきた。あちこちかわってきたから,どうということもない。

・60代女性。中央区で被災。「三宮で飲食店経営。住まいは大丈夫でしたが店は半壊。6ヶ月後に再開したものの、実母がその半年後に脳梗塞になり、半身不随で5年介護。派遣で働いていますが、社会保険に入れてもらえず、国民健康保険はもっと高く、働いた収入の1割近くの支払い。働く意欲がなくなってくる。収入が不安定。健康状態は良好と思うが、気にかかる病がひとつあり、病院にも行けない。」<自身でシート記入>

・70〜80代女性。「身体しんどい…。」<「いいです」とのことながら,ドアを開けて応答>

・40〜50代女性。「今,食事の準備してますので…。」<ドア越しに応答>

・50代?女性。「ごめんなさい…。」<インターホン越しに応答>

・60〜70代女性。「いいです。」<インターホン越しに応答>

・60〜70代女性。「結構です。」<インターホン越しに応答>

2014-06-27 ↑TOP


神戸・週末ボランティア 仮設・復興住宅訪問活動600回に際して

20140323産経・神戸紹介記事 2014年3月30日、当ボランティアは、仮設・復興住宅訪問活動600回をむかえました。

当ボランティアの前身は、阪神淡路大震災後の1995年1月28日、避難所で行った支援活動を出発点とし、5月まで20回にわたって行った後、神戸市内各所の仮設住宅への訪問活動を始めました。その中で、土曜日の午後に行うことが定着したことが「週末ボランティア」とされるようになったゆえんですが、その後復興住宅への訪問活動へと移行し、2001年4月からは、毎月第2・第4土曜日に行ってきました。

 こうした仮設・復興住宅訪問活動は、2012年末までに567回を数えるに至りました。

 もっとも、こうした活動のすべてに参加した者もいません。また、その中で、感謝の言葉をいただくこともあれば、叱責を賜ることもありました。さらには、まったく受け入れられないこともありました。これまでのすべてが、被災者に寄り添い、支援活動としてふさわしい、有意義なものであったか、謙虚かつ率直に顧みなければならないでしょう。それらを教訓とし、それを活かそうとする者だけが、通算回数を標榜できると考えています。

 それとあわせて、それまでの活動に関して、水増しが目立ち実態にもそぐわなくなっていた延べ参加者数や、同一箇所への反復が増えたことから実数との乖離が顕著になった延べ訪問戸数については、以後累加しないこととしました。


 これに続いて2013年からは、新たな活動主体、神戸・週末ボランティア 新生のもと、リフレッシュしてスタートしました。

 これまでの活動において、いいところは受け継いで発展させるとともに、過ちは改め、克服し、或いは断ち切り、原点に立ち返って、基本を大切にするべく、「宗教や政党など全く関係のない民間のボランティア」たる原則を堅持し、「自分が相手の立場だったらどうなのか?」と問う「役立ちと学び」の姿勢を基本にすえてきました。


 〈新生〉のもとでは、形式的に漫然と継続するのではなく、毎回時季に応じたテーマを設定して、問題意識を高め、ミッションを明確化し、ニーズとのマッチングを図り、限られたリソースを最大限に活用することを心がけています。訪問活動のスケジュールは、訪問先の住民の方々の負担を配慮して、厳寒酷暑を避けたりするほか、他の活動・行事とのかねあいもあって、不定期になりましたが、時には集中的に取り組んだり、従来の土曜日を中心に、日曜日も加えるなどしています。そうすることで、これまでの被災地に深く根ざし、従来の「週末ボランティア」にはなかった、多角的な視点を獲得しています。

産経新聞神戸版:「時間重ねて見える問題も」復興住宅訪問600回に 神戸のボランティア団体 20140323 web 訪問先の選定に当たっては、まず、旧グループでの活動で芳しい成果を得られなかったところに、あえて飛び込むことから始めました。そこで、毎回を顧みて、大小の改良を積み重ね、あるべき姿を模索し続けてきました。それに続いて、もともとの訪問活動が、市街地の被災場所から離れた郊外の仮設住宅や復興住宅で不便・難儀されている被災者をお訪ねするものであったことに鑑み、その精神を、今日的な目的意識と課題のもとで再興し、継承・発展するべく、前者と対照的な環境において取り組むこととし、現在に至っています。いずれにおいても「一期一会」を大切にすることに変わりはありません。

 あわせて〈新生〉以来15ヶ月の訪問戸数も、重複なしの実数ベースで1000戸を超えました。


 これに先立ち、昨2013年4月13日に行った復興住宅訪問は、「週末ボランティア」(旧)が、阪神淡路大震災後、避難所で取り組みを始めて以来、通算600回目の支援活動となりました。

 この日は、早朝に淡路島を震源とする地震があり、神戸においても阪神淡路大震災以来の大きな揺れとなりました。これは、阪神淡路大震災以来、さかんに言われるようになった「心のケア」のあり方はもちろん、この間追求してきた、被災者に寄り添うにふさわしい者たる姿勢への、一つの試金石となるものでした。これを試練と受け止め、平常心で臨んだことにふまえ、訪問に応じてくださったことに感謝し、特別なことはせず、改めて謙虚さをもってすることにしました。それはまた、真の志は謙虚さより出ずるとの信念からでもあります。

 支援活動通算600回から1年近く、さらに「Cool Head,but Warm Heart」を想起し、実践と検証を重ねて、今日に至りました。さらには、これまでの被災地に根ざして身を置くなかから、改めて、東日本大震災についても、思いを致してきました。


 阪神淡路大震災20年を前に、このたび仮設・復興住宅訪問600回をむかえて、改めて「忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸から」と、呼びかけたいと思います。

2013年4月2日
神戸・週末ボランティア 新生  主宰者

2014-04-02 ↑TOP


第29(新生154)回訪問活動 (2014/01/19) レポート 〈阪神淡路大震災19年の神戸から〉

「1.17希望の灯り」分灯&ベルデ名谷毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。

2014年の1月,神戸・週末ボランティア 新生では,「「1.17」を忘れない!「希望の灯り」とともに 2014というテーマのもとで,4回にわたって神戸市内2ヶ所の復興住宅に,お訪ねさせていただき,今回がその最後となりました。

この一連の復興住宅訪問活動では,震災祈念・慰霊行事の要素も含めましたが,「希望の灯り」の分灯とともにお訪ねする以外は,通常の訪問活動と同様としました。

前日に続いて,垂水区の山間部にある神戸市営住宅・ベルデ名谷への訪問で,訪問先の選定などは,従来と同様の方針で行い,昨秋の訪問開始以来,2013年中に一応全7棟を廻らせていただいたのに続き,この2回で,戸数が多い棟をさらに廻ることで,ある程度まんべんなく,この住宅群の現況を,窺い知ることができました。

この住宅群をお訪ねするにあたっては,1年前,「枕で口と鼻をふさいだ」93歳の母を殺害、68歳の娘を兵庫県警が逮捕(2013.1.11 産経新聞)という記事を目にしたことも理由の一つでした。この住宅にお住まいだった60代の娘さんが90代のお母さんを介護に疲れて殺してしまったというものでした。介護が必要になった当初はまだ,娘さんは高齢者ではなかったでしょうから,これを高齢者の問題したり,時間軸から切り離して「老老介護」の問題とするのは,一面的・皮相的でしょう。

ベルデ名谷6番館高層から明石海峡方面&夕陽これは,この数年間,折に触れて述べてきたように,セイフティ・ネットから抜け落ち、「自助努力」を強いられた,震災当時はまだ現役世代で,後に高齢者の範疇に入った世代の問題なのです。また,これは阪神淡路大震災の仮設住宅で「孤独死」が多かった世代でもあり,震災関連以外で例を挙げるなら,各地で相次いでいるように,生活保護受給を不当に拒否・廃止されて餓死や凍死,自殺に追い込まれることが目立つ世代と言っていいもので,広範に見られ,顕在化しつつある問題なのです。

この復興住宅の近況・現状については,東日本大震災の被災地のメディアも注目しています:コミュニティー崩壊 交流希薄に、募る不安(2012.5.2 岩手日報)。1000戸近い大規模集合住宅で,高齢化が進み,住民の出入りも激しい中では,住民の自治活動で,情況を把握することは難しく,しかもそうした数・率が多い中では,どうしても,孤独死−孤立死などといった,現象の一部分,氷山の一角にしか,目がいかなくなってしまいます。

復興住宅において,被災者が,被災周辺者や非被災者(住宅や生活に困窮するなどの一般的な公営住宅入居者)のなかで,相対化され,さらには,マジョリティですらなくなってしまい,ついには解消されていこうとしていると言ってもいいでしょう。

特定の人や団体・組織がすべてを担うのは無理で,それはボランティアとて同じです。そうした中で,できることは何か? ミッションは何か? といったことを,同時性においてとともに時間軸の中において,深く掘り下げてとともに,一歩引いたところからも,考えてみたいと思います。春期以降の,この復興住宅群への訪問活動では,中高層階への訪問を考えていますが,これまでをしっかり振り返り,教訓として活かしていきたいと思います。

以上のように,2014年1月の4回の訪問活動を終えた時点で,昨2013年1月以来の,〈新生〉として独自の訪問活動は,29回を数え,訪問戸数は約900戸となりました。

旧グループ以来の累計では,参加者数は,実態に即した信憑性のあるデータがないので,継承しませんが,支援活動としては通算616回に,また,仮設・復興住宅訪問に限っても通算596回になっています。

春期については,3月後半に集中しての訪問活動を考えています。その中で,桜の花咲く頃,仮設・復興住宅訪問通算600回,〈新生〉以来の訪問戸数1000戸を達成したいと思っています。

「1.17」前後ということで,阪神淡路大震災についての関心が高まり,訪問活動についてのお問い合わせをいただきますが,2月は,厳冬期であることから訪問先の方への負担に配慮し,行わないことにしました。3月については,東日本大震災と関連付けての行事が増えていることから,「3.11」に近い前半期は避けて,寒さも和らぐであろう下旬に集中して行うこととしました。

追って詳細をお知らせしますので,1回だけでも、初めてでも、お気軽に、お運びくだされば幸いです。

3月2日には,ご好評におこたえして3回目になりました,1.17をわすれない〜帰ってきた1日だけの音楽喫茶が,13時30分から,リバティールーム・カーナ(神戸市須磨区寺田町1-2-1)で行われます。元気村・移動サービス主催のひょうご安全の日関連指定事業で,主宰者も協力させていただきます。是非お越しください。


この日伺ったところの概略です。

・80代女性。灘区で全壊。木造の2軒続きの2階建てに住んでいて,2階が1階の上に落ちてきた。既に起きていて,こたつに入ろうとしたらぺしゃんこに。情況は何も判らなかった。近所で亡くなった方もいるようだが,詳しいことは判らない。かなりの時間,片足を挟まれた状態で生き埋めになっていて,救出されて病院に行ったところ,あと1時間遅かったら挟まれた足を失っていたかも知れないとのことだった。骨折だけでなく溜まった毒が身体に回っていったのを,点滴などでおさえていったが,被災地外の設備のきちんとしたところに転院したりした。被災者ということで見せ物みたいな感じもしたが,みなよくしてくれた。退院後は以前の職場に半年ぶりに復帰。通勤も大変だったが,これもリハビリになったかも。治療とリハビリのおかげでだいぶよくなったが,もう一方の足に負担がかかって,一時はそちらも悪くなった。そのせいで,今でも閉所恐怖症で,トイレはドアを開けて入るし,家の風呂が苦手で銭湯通いしている。カラオケの個室もダメ。西区の仮設住宅では4〜5年過ごした。ボランティアのお世話になった。息子と嫁がよくしてくれたことに感謝感謝。自分でも声を上げ,新聞に何度か投書した。最後近くまで残っていた。この復興住宅へ入居して14〜15年。入居当初は低く抑えられていた家賃も,2年に1度上がっている。一方で年金は…。今日ある命のありがたさを思い起こし,今日あるのは,あのとき助けてくれた人たちのおかげと感謝している。1月17日に行われる東遊園地の集いには毎年いっている。自分なりに冥福を祈っている。「家賃、公共料金の値上り、年金受給額の減額その他,物価高にお手上げです。悩まされております。」<玄関内でお話し伺い&自身でシート記入>

・70代女性。長田区で被災。住んでいたマンションで地震に遭った。仮設住宅を経て,この復興住宅に入居して14〜15年。入居当初は元気だったが,何年かして,だんだん弱ってきた。今も寝ている。心配なので見に来たという息子さんに,訪問の趣旨を説明し,お話し伺い。被災当時や仮設住宅の時は,出張など,あちこちに行っていて,あまり面倒を見てあげられなかった。ありがとうございます。ご苦労さまです。<ドアを開けて応答>

・70〜80代女性。須磨区で全壊。仮設住宅は西区の,テレビなどでも何度も映った大規模なところの端っこだった。ボランティアの訪問もあり,よくしてくれた。感謝している。この復興住宅に入居して15年。もう慣れた。元気にしている。特に困っていることはない。初めは「結構です」とのことだったが,訪問の趣旨を説明し,被災状況などを伺った。<インターホン越しに応答>

・50〜60代男性。兵庫区で被災。西区の仮設住宅を経て,この復興住宅に入居して14〜15年。ここには最初から入っている。今は不平不満もなく,家族共々元気で暮らしている。達者でやっている。<インターホン越しに応答>

・70代?女性。「今、手が離せない。ちょっとご飯の支度してるところ。」(お体の具合は?)「大丈夫。元気です。ありがとう。」<インターホン越しに応答>

・60〜70代女性。この復興住宅へ入居して14〜15年。「ここにはもう慣れた。最初から入っているので。」<インターホン越しに応答>

・20〜30代女性。この復興住宅に入居して4〜5年。地震の時のことは覚えていない。今日は仕事は休み。<ドアを開けて応答>

・70代?女性。「ボランティア?」(訪問の趣旨を説明すると)「結構です。」<インターホン越しに応答>

・50〜60代女性。「今,ご飯の用意で忙しいので…。」<インターホン越しに応答>

・50〜60代女性。(訪問の趣旨を説明)「困っているとない。」<玄関先で応答>

・60〜70代男性。「結構です。」<インターホン越しに応答>

2014-02-26 ↑TOP


第28(新生153)回訪問活動 (2014/01/18) レポート 〈「希望の灯り」とともに・山へ〉

「1.17希望の灯り」分灯&ベルデ名谷毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。

神戸・週末ボランティア 新生では,「1.17」の翌日から2日間,ベルデ名谷(垂水区)への復興住宅訪問活動を行いました。

前週11・12日には,Seaside Versionということで,「希望の灯り」をもって,最も近いところにある復興住宅の一つをお訪ねしましたが,この翌週は,Mountain Versionということで,神戸市内でも,もっとも離れたところの一つに伺うことにしました。

こうした,郊外の復興住宅の一般のお宅に,「希望の灯り」が入ったのは,これが初めてでしょう。

この住宅群へは,昨2013年秋・冬に引き続いての訪問で,訪問先の選定も,継続性をもたせた方針で行いました。

垂水東口・いかなごのモニュメント今回は,旧グループでの訪問活動に,この復興住宅の入居開始初期に参加した方が来てくれました。15年近くの変化は,どう映り,どう感じたことでしょう。

今回も,「1.17」を忘れない!「希望の灯り」とともに 2014というテーマのもとで,「希望の灯り」の分灯とともにお訪ねさせていただきました。ここでも例に漏れず,数年前から震災祈念・慰霊行事ができなくなったり,縮小されたりしていますが,それも単に高齢化や被災者の転出といったことだけによるものではないようです。

そもそも神戸市内各所の被災地から集まってきた(長田区・兵庫区などが目立つ),西区・北区・垂水区などの仮設住宅においてと同様,各々異なった地で,各々異なった被災状況にあった人々が,被災者として一括りにされることに無理があった面もあるのに加えて,1人で静かに祈りたいというのが率直な気持ちという方もいらっしゃるなど,さまざま面に出会いました。

そういった事情も,「希望の灯り」とともに,震災祈念・慰霊行事の「出前」をしながらの「お話し伺い」を通じて,浮かび上がってきます。

近年になって増加しているのがファミリー世代の入居ですが,子どもの誕生・成長を機に公営住宅へ入居するという,一般的な理由からですが,入園・入学や子育て環境に関することなど,そうした世代・家庭ならではの事情も,あわせて伺うことになりました。

被災場所から切り離された地にあって,学校・地域・家庭での震災・防災教育において,震災をどのように教わり,語り,受け止め,理解し,活かしていくか,また,訪問するボランティアとの対話を通じて,双方の理解を深め,相互ケアになってゆくような関係の構築を,あるべき結びあうかたちとしていくことが,課題であると言えます。

新たな活動主体である,神戸・週末ボランティア 新生のスタート以来,活動案内・参加者募集活動報告・記録は,ウェブサイトとSNSのウェイトが高くなりました。あわせて神戸新聞での紹介も,効果的な手応えを感じております。

学生〜40代を中心に,旧グループよりも若い世代の参加も増え,年代的にも広がってきています。震災当時子どもであったり,被災していてもあまり記憶がないという人や,当時,学生・生徒で,震災が人生の転機になったという人も少なくありません。

そうした世代の参加者が,自分自身にとっての被災経験を見つめ直したり,周囲の人を含めて,理解を深めたりする上で,貴重な機会になっているのを実感しています。

自分自身が子育て世代に近かったり,訪問先でたまたま出てきた子どもが,震災当時の自分自身に近かったりすれば,同じ目線で聞き,話し,相互理解を深めていく好機になり,ボランティア参加者と訪問先住民−被災者に互恵的関係が,つくられていくのを実感します。

若者にも被災者支援の輪 神戸市民グループ「週末ボランティア」予告ビラやウェブサイトなどの新聞記事「若者にも被災者支援の輪」は,こうした〈新生〉の歩みの中で,いっそうの進化と発展を遂げています。うした機会と場を創造するのも,今日的ミッションでしょう。

お話し伺いに応じて下さった皆さん,ボランティアに参加してくださった皆さんに,改めて感謝したいと思います。

弊サイトThis is 神戸・週末ボランティアをはじめ,MixiコミュニティMixiページFacebookページtwitter - welove_kobeを通じて,交流させていただいております皆様方とも,こうした輪を広げ深めていきたいと思います。


この日伺ったところの概略です。

・80代女性。灘区で全壊。30〜40年住み慣れた,表通りから少し入ったところの,車が入れないところだった。結婚以来住み続け,子どもたちもそこで育て上げた。息子が何時間もかけてやってきてくれて,よくしてくれた。電話が通じなかったので,息子は自分が生き埋めになってもうダメかもと思ったらしい。娘も単車で駆けつけようとしてくれたが,途中で進めなくなったとのこと。区内のグラウンドに避難,近くの人で固まっていられたのが助かった。住んでいた家を解体するとき,立ち会うつもりでいたが,気遣う娘の家にいて,息子が撮ってきてくれた写真を見せてもらった。4月からは仮設住宅で過ごしたが,坂が大変なところだった。仮設住宅からが長く大変だった。あの時の寒さが忘れられない。灘区内の復興住宅は全く当たらなかった。この復興住宅に入居して15年。西日が入るが,夏は涼しい。この棟の住人はみないい人で,よくしてくれる。夫婦2人とも,身体の方は大丈夫。膝も大丈夫で,どこへでも行ける。このあたりの土地勘が泣く,,買い物などはバスで名谷まで行くが,友人3人で垂水まで歩いていったことも。この復興住宅に来てからは,いい病院が解らなかったり,行くのが大変だったりしたことから,何度か救急車を呼んで,近くの病院に連れて行ってもらったことも。また,一時入院したことも。被災時まで居たところは,長く住み慣れたところで,想い出もあるが,ここに来てからは1回しか行っていない。近くでたくさんの方が亡くなったし,かつての近所もバラバラになって,すっかり変わってしまった。慰霊行事なども今更…という感じで,足が遠のく。神戸で地震に遭うなんて思ってもみなかった。自分自身の歴史を戻すことが出来たら…。

・20代女性。垂水区で被災。当時はまだ小学生だった。怖かったのを覚えている。2階にいたが,何とか1階に降りて,玄関の近くで家族みんなで固まっていた。落ちてきたものを片付けたりするのが大変だった。住んでいたあたりでは大きな被害はなく,避難もしなかった。学校では給食に変化があって,牛乳が瓶から紙パックに代わったのを覚えている。1月17日が近付くと黙祷したりするようになったが,「しあわせ運べるように」は習わなかった。この復興住宅に入居して4年。高層住宅に住むのはなじめてなので,まだ慣れない。上の子どもが4月から幼稚園に。公立幼稚園を希望していたが,通園に不便なところしかなく,近くまで送迎バスが来る私立幼稚園に決めた。2歳になった下の子どもの保育園を決めるより大変だった。<玄関前でお話し伺い>

・60代女性。西宮で全壊。家から脱出して表に出たら足がつったのを思い出す。翌日からの門戸厄神の厄除け大祭のために出ていた露店などがメチャメチャになったのを覚えている。電話は通じてもものが送れなかった。近くの小学校に避難した。震災の3日後には姪の結婚式があり,三田をまわって大阪まで出て出席した。罹災照証明もらうのが大変だった。仮設住宅では訪問ボランティアをした。炊き出しをしたことも。この復興住宅に入居して1年。1月17日が近付くと震災を思い出して,フラッシュバックすることも。ニュースの写真・映像など同じものを眼にすることもあれば,こんな事もあったの?という感じのものも。東日本大震災では,こんな大災害はもうないと思ったのに,まさか東北で起こるとは…。<玄関前でお話し伺い>

・「本日は用事が出来外出いたしております。近隣の方々とも、親しくお付き合いさせていただき、今のところ、元気に毎日を過ごしております。ご訪問いただき、ありがとうございました。」<シートに代えてお手紙>

・70代女性。地震の時は5*歳だったのに今では70代。19年経つと…。<廊下で通りがかったところにお話し伺い>

・10代女性。学校で震災について習った。「しあわせ運べるように」歌っていた。<インターホン越しに応答>

・70〜80代女性。(訪問の趣旨を説明したところ)「いいです。元気です。」<ドアを開けて応答>

・70〜80代女性。「ボランティアさんですか? いいです。」<インターホン越しに応答>

・「なにもお話しする事はありませんのでお断り致します。」<自身でシート記入>

・50〜60代女性。「別に困ったことありません。」<インターホン越しに応答>

・40〜50代男性。「今風呂入ってるので出られない。」<中から窓越しに応答>

・50代女性。「うちはいいです。」<インターホン越しに応答>

・60〜70代女性。「結構です。」<インターホン越しに応答>

・60〜70代女性。「いいです。」<インターホン越しに応答>

2014-02-25 ↑TOP


第27(新生152)回訪問活動 (2014/01/12) レポート 〈借り上げ復興住宅の現在〉

「1.17希望の灯り」分灯&HAT神戸脇の浜住宅毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。

神戸・週末ボランティア 新生では,前日,1月11日に続いて,同じくHAT神戸・脇の浜住宅への復興住宅訪問活動を行いました。

前日同様,行事としてのファクターも加えつつ,「1.17」を忘れない!「希望の灯り」とともに 2014というテーマのもとで行うことにしました。

HAT神戸・脇の浜住宅へは,旧グループで数年間お訪ねしてきたところですが,今回は初めて日曜日の訪問となりました。神戸市営住宅・兵庫県営住宅及びUR賃貸住宅と,異なった運営主体が混在する,この住宅群の中でも,この両日お訪ねしたのは,神戸市が被災者向けにURから20年契約で借り上げた,いわゆる「借り上げ復興住宅」に当たるところです。

旧グループで2012年9〜12月にお訪ねしたうち,借り上げ復興住宅に当たるお宅にお訪ねしたのは,前日と同様ですが,これまで,もっぱら土曜日に行っていた訪問ではお会いできなかった方とも,対話を実現し,改めて現状を深く知る機会となりました。

HAT神戸脇の浜住宅;モニュメントこの住宅群での借り上げ復興住宅は,棟ごとではなく,特定の棟の一部の居室についてで,同じ棟はもちろん,同じフロアでも,UR賃貸住宅として直接契約して入居された方と,復興住宅として市が借り上げたところに入居された方とが,一緒に暮らしています。

竣工当初に入居された方は,UR賃貸住宅においても,被災者(罹災証明をもった方)が優先されていましたが,その後に入居された方は,いずれにしても,空室への一般入居となっているため,住民全体として,被災者のウェイトが下がっています。

阪神淡路大震災の被災地の各処にある借り上げ復興住宅は,地方自治体がUR(住宅・都市整備公団→都市基盤整備公団,現・独立行政法人都市再生機構)や民間地権者から賃貸契約を締結したもので,契約期間は竣工から20年となっており,早いところでは2016年ぐらいに満了するところもあり,2020年前後に期限が来るところが多いようです。

期限前数年となった頃から,住民の不安が高まる中,借り上げた自治体の対応に温度差が顕在化し,なかでも,多くの借り上げ復興住宅を抱える神戸市が,個別的に「説明」したとして,強引な移転促進策をおこなうなど,被災者−住民に,とりわけ厳しいものになっていました。一方で,最後まで住み続けることを求める住民の闘いも続けられていました。

そのような,当事者−被災者−住民の事情・意志とは乖離したところで,事態が進行してしまうという情況にあって,旧グループにおいて,これを請願運動へと切り縮め,翼賛運動へと歪曲するという政治的介入・利用を許してしまったことを,看過できません。

かかるものとは断乎と訣別した上で,改めて,虚心坦懐に「お話し伺い」させていただき,その中からあるべき姿を共に構築していくことが,新たな課題となりました。そのためにも「宗教や政党など全く関係のない民間のボランティア」としての原則を堅持することが,何にもまして求められました。

そしてこれは,「傾聴ボランティア」としての経験を積み,スキルアップを目指す参加者と共にあることにおいても,大切にすべきもので,その基本を大切にし,初心を忘れない姿勢が,求められるものでした。

そごう神戸店・サンファーレ広場改めて伺った,率直かつ切実な声は,決して,請願・翼賛運動で現実化されるべきでないことはもちろん,かといって,単に住み続けさせろといった,空疎なスローガン的なものによってもできません。

いかに自らの主体性のもとにあり続けるかという,もっとも基本的な問題から,問い直さなければなりません。

バイアスから自由になったナマの声,率直なお気持ちを,心を開いて寄せてくださった,意義を確認し,すべての方に感謝し,それを最大・最良に活かして行きたいと思います。

ここは,直接的には,この日の訪問活動をふり返るものですが,現下の情況の中で改めてとらえ直し,今後の取り組み直しのあり方を模索したいと思います。

実際のところ,こうした形・方法で,復興住宅にお訪ねし,被災者に寄り添うことが有効で可能な時間は,限られているでしょう。そうした中で,2年続けて,神戸中心部近くにおいて実現できたことに,感謝したいと思います。


この日伺ったところの概略です。

・70代男性。灘区で全壊。うちの周囲一帯もみな倒壊した。近くの公園に避難して,バラックを建てて雨風をしのいだり,川の水を確保したりしていた。避難所で物資がいっぱい来ると贅沢になったり,お金がいるとなると来なくなる一方でタダだと来るなど,人間の汚さをいっぱい見た。ポートアイランドの仮設住宅では自治会長をして,みんなのお世話をしていた。移転先を知っていて,つきあいも続いたが,震災17〜18年を経て,亡くなる人も多くなってきた。仮設住宅には最後までいた。不便なところに,まださほど高齢でない人が押し込められたため,孤独死を何人も見てきた。そういう人に限って,テレビもなく,ガスも使わなかった。なるべく車を使わず自転車に乗るようにするなど,身体を動かすように心がけてきたが,ここ数年,身体の調子が悪い。この部屋は,広いベランダがあるので気に入っている。物置をおいたり,園芸をしたりしている。復興住宅に入ってから,自分で部屋を片付けない人もいて,代わりに片付けてあげたことも。日曜大工で手すりや棚を作ってあげたことも。震災関係での交流も薄れていて,年取って亡くなった人も。学生など若い人のボランティアはいなくなった。以前はふれあい喫茶をしていたが,来る人が決まってきて,それ以外の人が引きこもるようになってしまったので,やめた。飛び降り自殺も見てきた。ずっと前から知り合いから相談受けたりして,生活が苦しい人と役所に一緒に行ってあげて生活保護を受給させたことも。行政は事務的で動かない。一般の民間人やボランティアなど,誰かが代わりに動いてあげないと…。以前はラジオ体操をしていると,人が出てきたが,やがて出てこなくなるなど,近所同士で顔を合わせる機会が少なくなってきた。以前,1月17日が近付くと,ローソクを浮かべる竹筒を切ったりしていた。復何があってもビックリしない。あの時を考えたら…。復興行政では,国や市はもっとお金の使い方を考えるべき。20年期限の借り上げ復興住宅の問題では,もっと声を上げるべきだった。同じ住宅にいても,残る人と出て行く人との間で…。県は毎月,市は年4回,移転のための書類を送ってくるが,それよりも,住民の意見をしっかり聞く体制をつくるべき。<お部屋に上げていただいてお話し伺い>

・70代女性。尼崎市で全壊。ベッドの上で左右に激しく揺られた。家具が倒れたり,シャンデリアが落ちてきたりしたが,玄関の戸が開いて,脱出できた。娘はスキーツアーの帰りで,大阪あたりで地震に遭い,歩いて帰ってきた。初めは壊れた借家を修理して住んだが,水道が出ず大阪府下まで入浴に。大阪府下に避難,娘2人はそこでガールスカウトに加入,物資配給や入浴などのボランティアをしていた。その後長く夫の故郷で過ごし,近くに来た方がいいとの息子らの勧めで,この復興住宅に入居したのは昨年。脳梗塞で倒れ,車イス生活を送る夫と共に暮らすには,坂道がなくて,通路や歩道が広いところは,便利で助かる。震災時は息子夫婦も西宮で被災。東日本大震災もたいへん。大きな火災とか津波とか,この世のものかと思うほどだった。米・サンフランシスコの地震もたいへんだろう。

・70代女性,夫(80代)と2人暮らし。長田区で半壊。被災後は車いす使用の高齢の母とともに避難生活を始めたが,やがて神戸市内外の子どもの家に。安い住居を探して,この復興住宅へは一般入居で入って,9〜10年になる。最初の頃はバスがなく不便だったが,今はバスも増えて,近くにスーパーもできて便利に。1月17日に向けて,老人会でローソクを灯す行事をしていた。最初は忙しいのて断っていたが,誘われて参加した。震災からの19年はあっという間だった。借り上げ復興住宅の問題では,せっかく慣れて,近所の人たちとも仲良くなったのに,年をとってからの移動はたいへん。<玄関先でお話し伺い>

・40〜50代女性。須磨区で全壊。近くで火災が発生したところもあったが焼けなかったが,住んで1年で被災して全壊してしまった。垂水区内の仮設住宅を経てこの復興住宅へ入居して14年。借り上げ不kjこうじゅうたくであることが,不安といえば不安。なるべく早くに出たい,出なければと思っている。できることなら,被災1年前まで住んでいたあたりに戻りたいと思っており,(前年11月に行われた移転先優先入居の)市営住宅の申し込みはせず,自分で探している。<インターホン越しに応答>

・70代女性。垂水区で被災。ここへ入居したら,借り上げ復興住宅なので,また出なければいけない…。震災後,近くの被災された方をお世話したり,三宮で掃除のボランティアを10年ほどしたりと,以前はボランティアもできたのに…。今日もこれから元町方面に出かけるところ。古い友人と会って新年会をする予定。<いったん訪問したときはお留守だったが,程なく帰ってこられたところに出会い,廊下でお話し伺い>

・70代女性。東灘区で全壊。夫が壊れた家の下敷きになったが,回復し,今は大丈夫。この復興住宅に入居して14年。借り上げ復興住宅の問題では,住み替えなどは考えていない。市や民間ボランティアからの案内や書類などには,あまり関心を持ってみない。外出していることが多く,見たりあったりする機会がなかった。移転先の市営住宅の申込みはせず,他の方法を考えたい。

・30代女性。灘区で全壊。身内に犠牲者・負傷者はいなかった。仮設住宅には入らず仮住まいをした後,この復興住宅に入居して14年。借り上げ復興住宅だが,移転先のことはまだ考えていない。今回の市営住宅の申し込みもしなかった。<買い物から帰られたところに出会い,廊下でお話し伺いに。急いでいるとのことで短時間で切り上げ>

・50〜60代女性。長田区で被災。仮設住宅には入らず,この復興住宅へ。前年11月の移転先市営住宅の申込みは外れた。行きたいあたりの市営住宅の申込みはしたが,借り上げ復興住宅のため20年でここを出ていかないと思うと…。<来客中のため,短時間で切り上げ>

・60代夫婦2人暮らし。灘区で全壊。「二人共に病院通い。やっとこの地になれたのに、借上げ住宅であと5年と早く出る様言れ困っています。この一点だけが心配で毎日なやみます!」<自身でシート記入>

・60〜70代男性。ドアポストに入れてあった予告ビラを2つ折りにして差し出して「それ、ええわ。」<ゴミを出しに出られるところにお話し伺い。予定より訪問が遅くなったことをお詫び>

・50〜60代男性。灘区で被災。この復興住宅に入居して14年。(被災情況をお尋ねしたところ)「アンケート? うちええわ」。(「希望の灯り」を見て)[「宗教?」<ドアを開けて応答>

・男性。この復興住宅に入居して4〜5年。被災者ではなく一般入居。現在は働いている。ドアポストに入っていたはずの予告ビラは見ていない。<インターホン越しに応答>

2014-02-19 ↑TOP


第26(新生151)回訪問活動 (2014/01/11) レポート 〈今年も「希望の灯り」とともに〉

阪神淡路大震災「1.17希望の灯り」採火 神戸新聞NEXT毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。

神戸・週末ボランティア 新生では,2014年第1回目の復興住宅訪問活動を,1月第2土曜日の11日に,HAT神戸・脇の浜住宅で行いました。

阪神淡路大震災から19年となった2014年,今年も1月の訪問活動は,被災者に寄り添う,被災地にあり続けるボランティアの原点に立ち返り,基本を大切にする姿勢を,心がけました。

そこで,行事としてのファクターも加えつつ,「1.17」を忘れない!「希望の灯り」とともに 2014というテーマのもとで行うことにしました。

新しい活動主体のもと出発した訪問活動の初めにと,昨2013年に続いて,今年も三宮・東遊園地の一角にともる「1.17希望の灯り」をもって,復興住宅にお訪ねするべく,訪問活動に先立って,1月10日午後,主宰者が採火式に臨みました。

マスコミ各社が訪れる中,他の支援団体等とともに,「希望の灯り」を囲んで,ろうそくで各自持参のランタンに分灯して持ち帰りました。神戸新聞NEXTの動画のほか,在阪・在神テレビに,同日夕方ぐらいの時間帯に,その映像が流されていたほか,神戸新聞記事では,主宰者のコメントも掲載されています。ご覧くださった方も少なくないのではないでしょうか? お目に留まっていれば幸いです。



「希望の灯り」は,東日本大震災以降,陸前高田やいわきなどにも分灯が運ばれて灯されており,神戸においては,KOBEとんぼ玉ミュージアムのワークショップに用いられるなど,新たな展開を見せています。

「1・17希望の灯り」分灯始まる 神戸新聞 2014/1/10そうした中,一般の被災者のお宅に入らせていただくのは,震災18年を経てからの,当ボランティアが,恐らく初めてでしょう。これまでの被災地に深く根ざし,これまでの被災者に寄り添うという姿勢を,新たな決意とともに示そうというもので,これは今年も同じです。

そしてまた,この数年来,住民・被災者の高齢化や移転が進んだため,震災記念・犠牲者慰霊行事の縮小・廃止が相次いでおり,それなら「出前」をしようということでもあります。

おかげさまで今回も,当ボランティアの訪問を暖かく迎え入れ,「お話し伺い」に応じてくださったことに感謝したいと思います。

あわせて,弊サイトThis is 神戸・週末ボランティアをはじめ,MixiコミュニティMixiページFacebookページtwitter - welove_kobeを通じて,交流させていただいております皆様方とのご縁に感謝いたしますとともに,本年もよろしくお願いいたします。

ここで改めて,数ある復興住宅の中から,どのように訪問先を決めているのかを,述べておきたいと思います。

HAT神戸脇の浜住宅;借り上げ復興住宅を含む棟本来,スタートした時点では,被災者がすべてもしくは大多数である復興住宅でも,やがて,被災者のウェイトは低下し,やがては一般の公営住宅などと変わらなくなってしまいます。それに伴い,被災者のコミュニティとして成立・機能しにくくなっています。

その中でも,とりわけ,20年の期限を前に,被災住民に移転が求められている,神戸市内の「借り上げ復興住宅」では,昨2013年の転出が多く,中には前半期のうちにほとんどが転出してしまったところもあります。

旧グループで2012年9〜12月にお訪ねしたHAT神戸・脇の浜住宅では,比較的多くの方が残っておられることが解り,昨2013年12月6日に,現状確認とあわせて予備訪問をさせていただいたのに続いて,対象となるお宅を,今回2回で,廻らせていただくことにしました。

以前の訪問から1年余り,これまでお会いできないままで,今回初めて対話が実現した方も少なくありませんでした。また,以前お話を伺った方からも,改めて近況を伺うことができました。


この日伺ったところの概略です。

・80代女性。東灘区で全壊。この復興住宅に入居して15年。「あいにく所用があり留守にしています。お訪ねいただきありがとうございます。この住宅に入居して今年4月で満15年になります。設備、日当たり、広さに満足しています。震災時は……木造二階建の、民間アパートの二階に母と二人で住んでいました。建物は倒壊せず,体は無事でした。同年4月に仮設住宅(東灘区)に入居するまで震災を免れた妹のマンションに3ヶ月間世話になっていました。仮設住宅には万4年間居ました。もっと大変な人も居られると思い、別に不便も感じませんでした。……今住んでるこの住宅は公団住宅よりの借り上げ期間が20年間となってまして、その時点で満85歳以上だと退出しなくてもよいとの事で安心していましたが、区役所の人に、そういう事になっているが、未だ決定してる訳ではないと聞いて不安を感じています。この点をはっきりしてほしいと思います。……年金で暮らしていますので、今度の消費税引き上げは本当に困ります。体調は…お蔭で達者です。寒い中ありがとうございました。」<自身でシート記入>

・70〜80代女性。借り上げ復興住宅のため,移転しなければならないことが不安。他の市営住宅へは,実質的には年1回しか優先申込みのチャンスがない。市からは,帰宅の山中の不便なところなら抽選なしで入れるといわれたが,そうしたところには病院もないらしい。身体はあちこち悪い,この復興住宅に来てから病院通いをしている。借り上げ復興住宅の問題では,ボランティアに話しても前進がないので,話してもムダかなと思うようになってきた。持参した「希望の灯り」の分灯を示しながら,今回の訪問の趣旨を説明。以前の「週末ボランティア」での訪問の際のことを覚えてくださっていた。<玄関前でお話し伺い>

・住んでいるところが借り上げ復興住宅なので不安だが,市からはとくに何も…(しつこい移転強要などはない)。一度役所に行って相談してみようと思ってもなかなか…。特別詳しいことは聞いていない。年金がもう少し高ければ,このまま居続けることもできるかもしれないが…。隣近所では出て行ったところも。ボランティアの趣旨や他での動向なども聞かれた。<玄関前の廊下でお話し伺い>

・80代女性。たまたまちょうどドアを開けてこられたので,配布中の予告ビラを示し,ボランティアの訪問活動の趣旨を説明し,近況を伺おうとしたところ,「1人で寂しい」とのことだったが,程なく同居している娘さんが帰宅。近くのスーパーに買い物に行っていたとのこと。薄着で出てこられていたため,風邪を引かないよう,早く家にはいるよう促し,別れた。<玄関前でお話し伺い>

・70〜80代女性。中央区で被災。この復興住宅に入居して14〜15年。借り上げ復興住宅のため,移転対象になっているが,1年半近く前に訪問したとき以降,市から移転についての説明はない。どうせ移転しなければならないのなら,被災前にもとからいたところの近くに引越したい。健康状態は問題ない。<インターホン越しに応答>

・高齢男女4〜5人。廊下に家財などの荷物や粗ゴミなどが出してあったので,引越の準備では?と,お声がけしたところ,「急いでいるので」。予告ビラを示し,訪問活動の趣旨を説明したところ,「結構です」。<玄関前の廊下〜エレベーターでお話し伺い>

・40〜50代女性。借り上げ復興住宅の問題は,状況に応じて考える。年齢もいっていないので,健康とかは問題ない。寒い中ご苦労さま。<予告ビラを示しながら,持参した「希望の灯り」について説明。ドアを開けて応答>

・30代女性。震災の時は西区にいたが,被害は特になかった。1年ほど前に一般入居でこの復興住宅に来た。まだ30代で,勤められるので,困っていることはない。うちは高齢者はいないので…。<インターホン越しに応答>

・30〜40代女性。1年ほど前に一般入居。空いていたから入った。神戸のものではないので,阪神淡路大震災での被災経験はない。<インターホン越しに応答>

・60〜70代男性。予告ビラを示しボランティアの趣旨を説明したところ,首を横に振り,困っていることはない模様。<ドアを開けて応答>

・70〜80代女性。「結構です。身体は大丈夫です。」<インターホン越しに応答>

・70〜80代女性。「今日,ちょっと気分悪い…。」<インターホン越しに応答>

・80代?女性。話し声がよく聞こえず。<インターホン越しに応答>

・70代女性。灘区で全焼。「震災前まで…」<自身でシート記入>

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あけましておめでとうございます。 2014年もよろしくお願いします。

1.17→3.11 kobe.jp あけましておめでとうございます。
 2014年もよろしくお願いします。

 1995年に支援活動を始めた神戸・週末ボランティアは、2013年、新たな活動主体、神戸・週末ボランティア 新生のもと、新たなスタートを切りました。

 宗教や政党など全く関係のない民間のボランティアの原則を堅持し、被災地に根ざし、被災者に寄り添うにふさわしい者たるべく基本を大切にし、阪神淡路大震災20年に向けて、これまでの活動を顧みて、経験・教訓を活かし、さらに役立ちと学びの輪を広げ深めていきたいと思います。

 2012年までのように、定期的な訪問活動ではなく、基本的には不定期になりましたが、 時にはパワープレイ〜ヘビーローテーションで集中的に展開し、2013年の1年間で、25回にわたり、770戸余をお訪ねしました。これは従来のグループでの1年間の訪問回数を上回り、戸数では1.7倍以上となったほか、内容的には3年分相当の充実した「お話し伺い」を実現することができました。

 神戸・週末ボランティア 新生では、毎回テーマを設定して、問題意識をもって臨み、理解を深め、様々な情況・環境のもとでニーズとのマッチングをはかり、ミッションを明確化することにつとめてきました。

 そうした中、2013年4月13日に行った訪問活動は、従来のグループの先輩たちが避難所での支援活動を始めてから、通算600回目の支援活動となりました。この日は早朝に発生した淡路島地震に鑑み、平常心をもって臨むことを第一にし、特に記念行事などは行いませんでした。

 2014年も引き続き、復興住宅訪問活動を展開していく所存です。

 1月は、「1.17」を忘れず、寄り添う姿勢を大切にする気持ちを新たにしたいと思います。近年、記念・慰霊行事の継続が難しくなってきていることから、ボランティアが出向いて「出前」をするようなものにしようと、2013年に続いて、「1.17希望の灯り」の分灯をもって訪問させていただくことにしました。

 春期は、なるべく3月中に集中して、引き続きの訪問活動を展開していきたいと思っております。神戸・週末ボランティア 新生としての訪問戸数1000戸、旧グループが仮設住宅への訪問活動を始めてから通算600回(支援活動通算620回)を、目標にしたいと思います。

 夏期には、これまでの神戸における役立ちと学びをさらなるものにするべく、東日本大震災の被災地への展開も、展望していきたいと思います。

 その後については、これまで神戸内外で活動が展開できていなかったところにも赴くなど、阪神淡路大震災20年に向けて、おそらくは最後に新規活動を始めるものにふさわしく、その有終の美をなす道を探求していきたいと思います。

 2014年 元旦   神戸・週末ボランティア 新生  主宰者

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