2013 神戸・週末ボランティア 新生
News and Reports
We love KOBE Weekend Volunteer

2013年、管理人主宰の神戸・週末ボランティア 新生が新たな活動主体になりました。
Blog This is 神戸・週末ボランティアもよろしく!

(年別に古い記事から順に番号をつけていますが,新しい記事が上になるように配置しています。)
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第25(新生150)回訪問活動 (2013/12/08) レポート 〈東日本大震災被災地にいちばん近い神戸の復興住宅から〉

旧道神和台口からみたベルデ名谷毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。

12月8日は,新たな活動主体神戸・週末ボランティア 新生最初の年である2013年の最後の復興住宅訪問活動となりました。

前日に続いて,神戸市営住宅・ベルデ名谷の同じ棟・箇所をお訪ねしての「お話し伺い」ですが,同じ「週末ボランティア」といっても,土曜日と日曜日では,かなり違った反応もいただき,両日の訪問の意義も明らかにできたと思います。

訪問先の選定と予告ビラの投函は,5日(木曜日)に,プレスリリースの反応も予測しつつさせていただきましたが,その際に見たよりも,紅葉がいっそう鮮やかになって,季節の移り変わりを感じることができました。例年より早い紅葉と冷え込みの一方で,この時期としてはやや暖かな中で,お伺いすることができました。

ベルデ名谷7番館高層棟から新たな参加者とともに,垂水東口から現地の最寄り(若干離れていますが)まで路線バスで向かう途中,多くの高齢者が乗り込んでこられ,そのうち何人かが,私たちと同じバス停で降りられ,住宅入り口前で信号待ちをしている間にもお声がけし,その場で早速お話を伺うことができました。

また,被災者として入居された方以外にも,通常の市営住宅として一般入居された方,小さな子どももいるファミリー世帯の方など,幅広く「お話し伺い」をすることで,ボランティアとの対話を通じて,震災や被災体験を,家庭や地域で,いかに伝えていくかという,問題提起になれば,1ヶ月余り先に「1.17」を控えたこの時期にお訪ねした意義が,さらなるものとなるでしょう。

初めてこの復興住宅を見たら,急斜面に高層が建つ姿の異様さに,だれもが驚くでしょう。新たに参加してくださった方に,訪問先だけでなく,住宅全体の概況を知ってもらうべく,広く見てもらいましたが,果たしてどのように映ったことでしょうか?

こうした活動は,在野精神やアマチュアリズムといった心構えを根底にして臨むものですが,関連したお仕事に携わる方のプロの技には,敬服させられ,できることなら少しでも学ばせていただきたいものだと,この日も改めて思いました。

この景観は,東日本大震災の被災地において,とりわけ,高台への集団移転を強いられている地において,これから現れようとしているものに,近いところがあるでしょう。各々のコミュニティ構成員のレベルにおいても,コミュニティの存在基盤の次元においても,生活の拠点・基盤から切り離されることの意味を,ここからも推し量ることができるでしょう。

阪神淡路大震災の被災地において,復興住宅が数多ある中で,東日本大震災の被災地におけるそれに,距離的には離れていますが,最も近い情況にあるのが,まさにここではないでしょうか?

その共通点とそれに臨むべき姿勢こそまさに,この間掲げてきた「息の長い支援」は神戸に聞こう! 切り離されて暮らすことは?というテーマなのです。

ベルデ名谷,最高層からしかしながら,その「切り離され」る内実は,現象的にも本質的にも,違っていますが,もともと東北に被災地では,過疎化・高齢化が進み,「限界集落」となったところもあり,東日本大震災以前からそうなっているところもあり,津波被害が甚大だった沿岸部だけでなく,内陸・山間部では,とりわけ顕著でしょう。

阪神淡路大震災の被災地・被災者においては,これまでの時間を経る中で生じ深化してきた諸問題が,東日本大震災では,いっそう早く,もしくは当初から,発生・深化しているといえるでしょう。

これまでの被災地に深く根ざした取り組みの中から,新たな被災地・被災者に,思いをいたすことができるでしょう。

新たな活動主体のもとでの最初の1年となった2013年は,25回の訪問活動で760戸余をお訪ねして,旧グループ3年分以上に及ぶ内実の「お話し伺い」をさせていただきました。これはひとえに,ボランティアの訪問を受け入れてくださった方々,訪問活動に参加してくださった方々,弊サイトThis is 神戸・週末ボランティアをはじめ,MixiコミュニティMixiページFacebookページtwitter - welove_kobeを通じて,交流させていただいております皆様方の,ご縁と,お力添えとご協力の賜物と,深く感謝いたします。


この日伺ったところの概略です。

・30代女性。垂水区で被災。この復興住宅に入居して5年。建物の被害やケガはなかったが,水道が止まったため,風呂などの生活用水に不便した。飲料水を取りに行くのが大変だった。支援物資の食料もかちかちに固まっていた。長田の方で火の手が上がっているのが見えた。通っていた学校は避難所になったり休校になったりはしなかったが,1月17日には黙祷したり,「しあわせ運べるように」を歌った。これは今でも歌える。子どもができ,家族が増えて,それまで住んでいた家が手狭になったので,親と別居し,子どもとともに市営住宅に移ることにし,空室募集の一般入居でここに。子どもが来年から通う幼稚園がようやく決まったところ。やや遠いが,送迎バスが利用できる。ほかにもそれよりやや近いところもあったが,通うのが不便なところなので…。<玄関先で,子どもさんも出てきてお話し伺い>

・60代男性。母親(80代)と暮らす。須磨区で全壊。避難所には行ったが,震災後間もない頃は支援物資も行き届いておらず,ほしいものはなかった。仮設住宅には行かず,近くで文化住宅を借りて住んだ。近くで家を探したが,結局,復興住宅への入居にあたっては,ここしか申し込まなかった。入居できてよかった。ここにはもう慣れた。家賃が高いのはやっぱり大変。被災時は母子とも高齢ではなかったので,入居には優先されず,家賃も高く,自分がリタイヤして多少安くなってもまた上がっていく点。買い物は,以前はもっと不便だった。今も住宅近くのコンビニで済ませることが多い。以前ボランティアが行っていた移動補助サーボス「ちょっとカー」のことは覚えている。役だった。ちょっとの間しかなかったが…。<外出から帰ってきたところに出会い,玄関前の廊下でお話し伺い>

・70代女性。訪問した棟の高層階に住んでいる。この復興住宅は,他の棟では友愛訪問活動がしっかりしているが,この棟は始めてすぐやめてしまった。シルバー向けの棟では,(平日昼間常駐している)LSAもいるので,見守り体制はしっかりしてもらっている。高齢の住民のお世話をしていたところ,当訪問ボランティアの予告ビラが入っているお宅と入っていないお宅があったが,なぜ?<訪問中に廊下でお話し伺い。ボランティアの訪問活動の趣旨と方法を説明>

・30代男性。灘区で被災したが,とくに被害はなし。水道が止まったが,近くの川の水をトイレとかの生活用水に浸かった。通っていた学校は,公邸に亀裂が入り,体育の授業ができなかったが,休講にはならなかった。避難者もあまりいなかった。地震に遭ったからといって免除されたりしなかったので,勉強がたいへんだった。この復興住宅に入居して1年。もともと山の方にいたので,環境はあまり変わらない感じ。

・80代女性。ここで自立生活を続けることが難しくなったので,あと1週間ほどで,施設に入ることになった。本人はここで頑張りたいといっていたのだが…。新聞と紛れてしまったのか,ボランティアの訪問についての予告ビラは見あたらない。<お世話してもらっている住民の方が,退去するための準備をしていた。お世話されている方からお話し伺い>

・80代女性。長田区で全壊。西区の仮設住宅に4年いた。この復興住宅にはできてすぐに入居。今日は,(この復興住宅からバスで少し行ったところにある)高齢者向け施設の行事で,食事会兼忘年会だった。この住宅の入口にある坂がたいへん。<バスを降りて,住宅に向かう途中にお話し伺い>

・60代女性。被災してこの復興住宅に入居,ここに来てもう長い。地震のことはもう思い出したくもないし話したくもない。困っていることもない。ボランティアの訪問についての予告ビラは見た。<ドアを開けて応答>

・70代女性。この3月に入居した。もともと西区に住んでいた。この部屋は西向きなので,夏は西日がさしてたいへんだった。鉄筋コンクリート造で端の部屋ではないので,冬は暖かいだろう。<ドアを開けて応答>

・70代男性。復興住宅への入居にあたっては,他の住宅も色々見にいって申し込んだりしてみたが,交通の便などのいいところは皆ダメで,結局ここに入居することになった。

・90代女性。長田区で被災。娘さん宅に一時身を寄せたが,西区の仮設住宅へ。この復興住宅へは息子と2人で入居したが,今は自分一人になった。

・60〜70代男性。特に困っていることはない。病気なども特にしていない。<ドアを開けて応答>

・「話しすることはありませんのでよろしく。」<自身でシート記入>

・60代?女性。「調子悪いので…。」<インターホン越しに応答>

・70代女性。体調はお変わりなく,元気。<ドアを開けて応答>

・60代男性。長田区で被災。<自身でシート記入>

2013-12-27 ↑TOP


第24(新生149)回訪問活動 (2013/12/07) レポート〈仮設・復興住宅訪問通算591回〉

ベルデ名谷2番館毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。

今回は,初秋の訪問活動から3ヶ月ぶりの復興住宅訪問活動となりました。

「宗教や政党など全く関係のない民間のボランティア」としての姿勢を明らかにするべく,神戸市長選挙近くは訪問活動を控えておりましたが,その後,寒さが厳しくなり,日も短くなってきましたので,年末で慌ただしくなる前に行うべく,なるべく早くに訪問活動をと思っておりましたが,主宰者の諸般の事情により,この時期になってしまいました。そうしたなかで貴重な,充実した「お話し伺い」ができましたことを感謝いたします。

ベルデ名谷7番館,高層棟と低層棟神戸市営の復興住宅としては最後に竣工した,急峻な斜面にある高層住宅群・ベルデ名谷への訪問活動は,今回で5回目となりました。現在の全般的な情況をお伺いするべく,各棟ごとに何戸かづつのお宅に伺うという方法をとり続け,今回で全7棟へ,何らかの形でお伺いすることができました。

この日と翌日は,住宅入り口近くに近い棟や,他の棟に1年ほど先行して竣工した棟を廻らせていただきましたが,後者では,元々高齢者が多く,既に亡くなられたり,自立生活が困難になって退去された方も多いとのことで,現下で深化しつつある問題が,さらに進行しているという面も窺えるものでした。

途中,訪問予定外の方とも,臨時に,お話し伺いをさせていただく,貴重な機会を得ましたが,前々日に「予告チラシ」を投函し,予定していたお宅への訪問が遅くなりましたことを,反省し,おわび申し上げます。

今回も,翌8日分も含め,引き続き,「息の長い支援」は神戸に聞こう! 切り離されて暮らすことは?というテーマのもとでの取り組みとなりました。また,「神戸新聞」でも,訪問の趣旨・テーマとあわせて,ご紹介いただきました。

「神戸新聞」訪問活動案内こちらをご覧くださった方からのお問い合わせもいただきました。

これまでに傾聴ボランティアなどをされている方からしてみれば,「切り離されて暮らすこと」は,ニーズの前提条件として自明のようなものでしょう。老人ホームや病院などにおけるそれと,被災者の場合との,意味と差異を問うことで,問題がはっきりし,被災者,とりわけこの復興住宅における方々の置かれている状況についての理解を深める一助になるでしょう。

また,そうしたやりとりを通じて,掲げているテーマや趣旨,改めて共に考える契機となり,自他への問題提起となったことでしょう。さらにはミッションについて,いっそう明確することにもなります。

そうした改善や改良にとどまらず,新たな役立ちと学びにつながる,機会とご縁に感謝したいと思います。

ベルデ名谷2番館前の花壇新たな活動主体神戸・週末ボランティア 新生となってからの同所への訪問では,ひとまず垂水にお出で戴くことにしたのですが,広い地域からの参加に便利になったことから,播州方面の方からのお問い合わせも多くいただきました。

旧グループでお伺いしたときは,神戸市営地下鉄・名谷駅に集合して現地に向かっていました。神戸中心部から西神ニュータウンにかけての地域からのアクセスには,ある程度便利でしたが,並行路線がなく,運賃が高いことや,スタジアムでの試合・イベント時の混雑や遅延などに悩まされることが多いものでした。またそれ以外の地域からのアクセスが不便であることも,心ある多くの方にお運びいただくにあたっての課題でありました。垂水への集合場所変更によって,バスの便の制約もあり,現地までの所要時間もかかりますが,一定の利便性確保とコスト面の改善にはなっているでしょう。

報道などからも,この復興住宅における高齢化の問題が言われて久しい中,一応,各棟ごとに自治会があり,役員をつとめている方もお出でのようですが,現状における活動実態には厳しいものがあり,とりわけ行事のたぐいは,この数年でなくなったり縮小したりしてるのがほとんどとのことです。そこで,訪問活動にあたっては,特別なことはせず,他の方と同様に接し,個人としてのホンネを語っていただこうと考えています。むしろ,過去に役員を経験された方や,その他の形で住民の方のお世話をされている方から,参考になる,貴重なお話を伺えることが多いように思われます。


この日伺ったところの概略です。

・60代男性。灘区で全壊。雷が落ちたような,陶器が割れる音がしたが,まだ外は暗く,ガスの臭いがしたり,近くに火の手が上がったりしたので怖かった。ベランダ越しに脱出し,2階建てだったのが1階がつぶれた近隣の家の樋を伝って降りて,公園へ避難した。その際にけがをしたが,痛みを感じなかった。簡単な応急処置をしてもらったが,病院で足がえぐれたようになっていたところを縫合してもらった。その傷口が開いたためか,避難所で40℃の熱を2度も出し,コンビニで氷を買って冷やした。避難所では2ヶ月過ごした。物資やテレビの音,傷のことなどを気遣ってくれる人もいた。大変だったが,仮設住宅は西区だった。空気もよく,ようやくほっとできたが,隣の木立で日が差さず,電気を付けっぱなしにしていた。ベニヤ板で仕切っただけで,隣の物音で眠れず,体調を崩すなど大変だった。朝5時に起きて北区まで通院したことも。もともと朝は苦手だったのに…。入院で仮設住宅にいなかった分,運がよかったが,体調が悪いときに復興住宅へ引っ越したため大変だった。自転車で最寄り駅まで買い物に行っていて,坂道の上り下りが大変だった。この復興住宅に入居して15年。入居して間もない頃,シックハウス症候群であろうか,目や頭が痛くなり,外へ出て歩くのも大変に。今も異状が残る。もっと下の(浜側の便利な)方にあるかと思っていたので,ここ1箇所しか申し込まなかった。坂道で外出が大変。近隣で亡くなった方が多く,葬式を5〜6回した。もともと人に頼ることはしなかった。なるべく自分でしたいと思っている。今年はいろいろな検査で大変だった。この夏の暑さで皮膚病になったが,薬でだいぶ治し,跡は残っていない。<お部屋にあげていただいてお話し伺い>

・70代男性。長田区で全壊。朝早くに仕事に出かけようとしたら揺れた。それでも職場の方に行こうと浜側にむかっていたら,途中,道路に段差ができていて,地割れしたところに落ちた。さらに行くと,尻池交差点付近で高架が倒れて道をふさいでいたので,進むのを断念。西代あたりを通る別ルートで家の方に戻った。大開通沿いから火が出て,それから追われるようだった。山側の揺れが少なく焼けなかったところでも,車が通れるほどの道幅が確保できず,迂回しなければならないところがあって,たいへんだった。地震の時ケガなどはせず,家族も無事だった。近くの学校の避難所へ。給水車を待って並んだりして,水を確保するのがいちばんたいへんだった。西区の仮設住宅へ。入居したのはいちばん早かったが,出るのは遅かった。ほかの住民が出て行くのを見届けて最後に出た。この復興住宅へは,先行して竣工した棟ができてまもなく入居したので,14〜15年になる。もともと住んでいたのはボロい,古い,貧乏人の家や。地震で一気につぶれた。こんな高いところに住んだことはあらへん。もといたところの住民とは今も交流があり,同る。もといたところのあたりは空き地に。この復興住宅では,階の人はまとまりがあったが,当初から居た人は,亡くなったり,施設に入ったりして,半分ぐらいになり,代わって子連れで入居する家族が増えた。この住宅の子どもも増えているように思われる。<玄関内でお話し伺い。予定時間より大幅に遅れて訪問>

・70代女性。長田区で全壊。西区の仮設住宅を経て,この復興住宅へ入居して15年。震災の時,たいしたケガはしなかったが,最近は(身体が)あちこち悪い。とくに足が痛くて,歩くのがたいへん。この復興住宅来たばかりの頃,住民の自治会総出で住宅裏の高台にある広い公園で盆踊り大会をした。住民以外の知人なども誘い合わせて盛大だった。斜面の階段状のベンチのところがスタンドみたいだった。いい思い出だが,だいぶ前になくなった。近年は高齢化で,様々な行事が途絶えてきた。1月17日早朝の慰霊行事もしていたが,中心になっていた人の都合で,ある年からぷっつりなくなった。10年ほど前に,ボランティアの訪問を受けた記憶も。たいへんだが,近くの病院に入院したときエライ目に遭ったので,病院は少し離れたところまで行っている。住宅入り口下のコンビニで弁当を暖めて買ってきたが,帰の坂が大変で,寒くて途中で冷えてしまうので,途中休憩して荷物を減らすために,途中の公園で休んで食べている。ボランティアやってて楽しい? 役に立つの? などと聞かれる。<楽しみのためとか,目先の利益を考えたらダメだが,それ以外で,人とのつながりができたり,誠実さや優しさに接して判ることがいいと回答。住宅横の公園でお話し伺い>

・80代女性。長田区で全壊。西区の仮設住宅には4年もいた。この復興住宅へ入居して14〜15年。古い家ですぐ倒壊したので、荷物を取り出すことはできず,全部あかんかった。夫婦でここに入居したが,夫に先立たれ,今は一人暮らしに。身体は特に悪いところはない。<予定時間より大幅に遅れて訪問>

・50代男性。兵庫区で全壊。この復興住宅に入居して15年。「(震災後苦労されたことは?)仮設住宅,寒さとトイレ,水。心配なことは何もない。(ご健康状態は?)良好です。(国・県・市などに望むことは?)別にありません。」<予定時間より大幅に遅れて訪問。自身でシート記入>

・70〜80代女性。震災のことや,この復興住宅に入居したいきさつは,(事情が)色々あって,言われへん。血糖値が高くて,身体がたいへん。<ドアを開けて応答>

・70代?男性。「よろしいですわ。」<ドアポストに予告ビラが残っていたが,念のためお声がけ。インターホン越しに応答>

・50〜60代女性。この復興住宅には5年前に入居。震災には関係ない。困っていることはない。<ドアを開けて応答>

・30〜40代女性。「大丈夫です。」<予定時間より大幅に遅れて訪問。インターホン越しに応答>

・20代男性。「今出かけるところなので…。」<玄関前で自転車を出していたところに出会った>

・60〜70代女性。「すみません。来客中でして…。」<インターホン越しに応答>

・少女。「お母さん忙しいので今は無理。」<インターホン越しに応答>

・50〜60代女性。「けっこうです。」<インターホン越しに応答>

・30代女性。「今忙しいので…。」<インターホン越しに応答>

2013-12-23 ↑TOP


第23(新生148)回訪問活動 (2013/12/06) レポート 〈借り上げ復興住宅 予備訪問〉

兵庫・キャナルタウン・ウェスト毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。

昨2012年9〜12月に旧グループでお伺いした,HAT神戸・脇の浜住宅のうち,URから神戸市が借り上げ復興住宅としている棟において,臨時に「お話し伺い」を実現しました。

先般,11月30日・12月1日に,秋季に続いて垂水区の復興住宅への訪問活動を計画していましたが,都合により1週間延期し12月7・8日に行うことにしました。そのための準備として,5日に訪問予定のお宅への予告ビラの投函を行ったのに続いてのものです。

2013年,新たな活動主体・神戸・週末ボランティア 新生のスタートにあたり,神戸市の復興住宅に暮らす被災者−住民の方の現状を広く理解し,阪神淡路大震災20年に向けての取り組みの基礎とすべく,神戸市営住宅への訪問活動を展開してきましたが,借り上げ復興住宅の問題もまた看過できないと考えて参りました。

今2013年に入り,神戸市の借り上げ復興住宅では,民間地権者からのもの,URからのものを問わず,被災者である住民の方の転出が進み,既にほとんどの被災者が去ったところも少なくないことは,ある程度存じており,改めて現況を拝見したところもありました。

ベルデ名谷5・6・7棟そうしたうちの一つ,兵庫区のキャナルタウンでも,退去が進んでいることが解る情況でした。また,これについては,既に市営住宅に移った方からも伺っていたものでした。

HAT神戸・脇の浜住宅については,旧グループにおいて昨年同時期に訪問させていただいた際のリストをもとに,階下のポストだけでなく,各階に登って玄関の表札などを拝見したところ,既に表札が変わっていたり,空室になっていたりするところなども,少なからずある中,他の借り上げ復興住宅よりは,若干まだ引き続きお住まいと思われる割合が高いのではと思われました。

そうしたところ,たまたまおいでの方に,活動の趣旨を説明するとともに,その場でお話し伺いになりました。昨年の訪問時にはお会いできなかった方からも,貴重なお話を伺うことができました。

個人が特定されてしまう可能性があるため,内容についてはここで紹介しませんが,近いうちに,[再]訪問を検討してみたいと考えています。

弊サイトThis is 神戸・週末ボランティアをはじめ,MixiコミュニティMixiページFacebookページtwitter - welove_kobeを通じて,交流させていただいております皆様方とのご縁に感謝いたします。

2013-12-12 ↑TOP


第22(新生147)回訪問活動 (2013/09/08) レポート 〈「二世被災者」のことなど〉

毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。

前の週末および前日に続いて,「息の長い支援」は神戸に聞こう! 切り離されて暮らすことは?というテーマのもとでの復興住宅訪問活動となりました。

猛暑もやわらいで一段落し,前日の雨も,この日の訪問活動までには上がり,蒸し暑さもさほどではないという,比較的過ごしやすい中で,この日の訪問をさせていただきました。

ベルデ名谷・住宅入り口附近のモニュメント先週・今週の訪問活動に先立ち,何度か事前に足を運んで準備をしてきましたが,時間帯や季節もあったでしょうが,道端や廊下で出会う方も少なく,本当に900戸近い世帯がお住まいなのだろうかと思ったこともありましたが,秋分を半月後に控え,日が短くなる中,ようやっとお見かけする方も増えてきたようでした。

前日に続いて,高齢の方が多くお住まいの箇所を訪問することになりましたが,そうした高齢の方の中でも,お耳が遠くなる方も目立ち,傾聴ボランティアとはいうものの,大きな声で話しかけ続けなければならず,声を枯らし,終いには,お会いした方とのあいさつもままならないほどになってしまいました。

今回の訪問は,予定していた午後2時から5時の間に,ほぼ収まるものでした。訪問活動の終了後,住宅の周りを改めてまわってみました。公園や住宅内の道路で遊ぶ子どもたちの姿も見られました。

この復興住宅内にも,学童保育のような場所が設置されているようで,この復興住宅の外にある比較的近い学校に通う子どが多いと思われますが,復興住宅・市営住宅とは違った世帯の子どもと遊び学ぶ中で,通学以外での,日常的なつながりはどうなのでしょうか?

ベルデ名谷・高曽公園一方,住宅近くの公園からは坂道の遊歩道で他の住宅地に隣接する公園ともつながっていますが,あまり交流はなさそうです。

復興住宅の高齢化が言われて久しいですが,高齢者以外の住民も少なくありません。子どもはむしろ増えているとも言われます。震災とは関係なく一般入居したファミリー世帯の子どもたちもいますが,少なからざる部分は,被災者世帯の子どもたちです。

幼少時に阪神淡路大震災を経験した世代は成人に達しようとしていますが,遊ぶ姿が見られたのは,復興住宅に入居した被災者世帯に生まれた子どもたちの,年少世代と言うことになるでしょう。年長世代はティーンエージャーとなっており,他の世代や被災者でない住民,住宅外の近隣市民との関係などで,心配されることも,訪問を通じて見聞きすることがありました。

被災者の高齢化,高齢被災者とあわせて,こうした「二世被災者」についても,思いをいたす必要があるのでは? と思われました。

ベルデ名谷・7番館低層エレベータこの間2週4回にわたって,この復興住宅・ベルデ名谷で,全7棟のうち5棟において,何らかの形で訪問させていただき,対話を実現してきました。今後は,未訪問の棟と,世帯数の多い棟への訪問を行っていきたいと思います。

旧グループ以来約10年ぶりとなった,このたびの4回の訪問活動において,「お話し伺い」に応じてくださったことに感謝いたします。

今2013年,新たな活動主体,神戸・週末ボランティア 新生のスタートにあたり,「宗教や政党など全く関係のない民間のボランティア」としての原則を堅持し,「寄付や署名の要請、投票依頼、販売行為などは一切行いませんので、ご安心下さい」と申し上げてきたところを,確実に信用していただくために,兵庫県知事選挙,参議院議員通常選挙の投票日(7月21日)までの1ヶ月ほどは,訪問活動を行わないことにしておりました。

そのため夏季の訪問活動の開始が遅くなりましたが,秋季においても,神戸市長選挙(10月27日投票)に考慮し,この訪問活動の続きは晩秋以降とし,それまでは,これまでを振り返り,教訓を活かすことにつとめました。


この日伺ったところの概略です。

・80代女性。中央区で全壊。入り口が壊れて,外へ出ることができた。西区の仮設住宅に4年以上いた。田舎だったが楽しかった。仮設住宅にいたときのつきあいはあったが,今はない。景色もよかった。ボランティアが来てくっれたのを覚えている。雨の時,窓ガラスにいた雨蛙がかわいらしく印象に残っているので,今も部屋にカエルのマスコットをたくさん飾っている。兄弟はみな病弱で早くに亡くなり,身内はいない。寂しいが慣れた。一人がいい。生まれも育ちも神戸で,若い頃から,神戸中心部でいろいろな仕事をするなど,それまではずっと都会に住んでいたが…。ずっと大きな病気などはしなかったが,最近は内蔵が弱ったようで,近くの病院に行く。転んで足が痛いのが気になる。灘区に父の代からお世話になっている電気店があって,今も何かあればすぐ来てくれる。この部屋のエアコンも付けてもらった。スポーツは野球やサッカーなどの団体競技をテレビで観るのが好き。昔、コーラスに入っていて唱歌などを歌っていたのが楽しかった。<玄関先から,お部屋にあげていただいてお話し伺い>

・80代男性。長田区で全壊。住んでいた家はぐしゃっとつぶれた。明石市に避難したので,神戸市営の復興住宅に申し込んでかなり待たされた。最後にできたこの復興住宅には,できて1年以内に入った。一緒に入居した妻は病死し,以来一人暮らし。被災時既に高齢で,子どももいないので,長田に戻るのをあきらめて,賃貸住宅に住むことにした。「この年になって,家よう建てへんし,しゃあない」。市から高齢者に年1回金一封がもらえる。今年ももうすぐだろうか。4月に手術をしたので,体調はまだもうひとつ調子ええことない。今も毎月通院している。高血圧の薬も飲んでいる。夕食はいつも弁当屋が持ってきてくれるので,自分では作らない。

・70代女性。須磨区で全壊。被災時は文化住宅に住んでいた。知人が住んでいた長田区の市営住宅に住まわせてもらった後,西区の仮設住宅で4年以上を過ごした。仮設住宅には最後までいてここに来たので,この復興住宅に入居して14年になるが,竣工当初から入居した中では,みんなより遅れた。ここには慣れた。(同じ被災者同士ということで)ここでも助け合って生きてきたのだけど,今この住宅に入ってくる人は…。若い人は仕事に出て行くので,いつも住宅にいるのは年寄りばかり。被災者としてはじめから入居した人の中には,子どもと同居したり,施設に入ったりして,もう出ていっている人も多い。今は家賃を少し滞納しただけで追い出される人も。以前からの仕事を今も少ししている。よく出歩く。

・70代女性。長田区で全壊。被災時は文化住宅に住んでいた。長くゴム製品の工場で働いていた。被災当時はまだ若く,優先されなかっかため,仮設住宅には入れず,市外へ移って4年過ごした後,この復興住宅へ入居して14年。(被災者でない住民の中にはトラブルにならないよう)物も言わないようにしている人もいるが,何軒かは付き合いしている人も。「市住いうたらええことない」。足が悪い。医療費が大変で,病気したら困る。ここから比較的近い病院で手術を受けたことがあるほか,外科は,かつて住んでいたあたりの医者も通っている。<「ご飯の準備してますから…」と切り上げ。玄関前でお話し伺い>

・60代男性。兵庫区で全壊。近くの学校の避難所に行ったが,子どもが小さかったので,母方の実家へ。母が亡くなり,入院中であった父の面倒を見る人がいなくなったので,神戸に戻ってきた。仮設住宅は六甲アイランド。この復興住宅に入居して7〜8年。家賃が高いので困っている。働いているところから取られていくので,何も残らない。配送の仕事をしていて,このあたりでも仕事があったときは,この近くにトラックをもってきていたが,今はなくなってしまい,トラックを置いている場所まで,玄関に置いてある単車で40分かけて通っている。もう年なのでつらい…。

・70〜80代女性。須磨区で半壊。借家だったので,住民はみな出された。近くの学校の避難所では,寝るとことはちゃんとあった。仮設住宅は,西区の大規模なところで,4年ぐらいいた。一番端っこだったので,好きなことをさせてもらっていた。今,困っていることはない。膝が悪く,急に歩けなくなったところ,たまたま上の階の人が通りがかって,近くの病院に救急受け入れを頼んでくれて助かった。<「具合悪いので…」とのことで短時間で切り上げ>

・60代女性。被災時は明石市にいた。家に被害はなく,ケガした人もいなかった。水道が止まったが,建物の上にタンクがあったおかげで,水をもらいに行かなくてよかった。電気なども大丈夫だった。仮設住宅が近くにできたことを覚えている。この復興住宅に入居して5年。ここにはけっこう慣れた。近隣はみな親切な人。以前生活していたあたりへ出かけるとお金がかかる。眼科に通うほかは特に身体に悪いところはない。

・50代男性。震災の時は西区にいて,特に被害はなかったが,一時水道が止まって,水をもらいに行ったことはある。この復興住宅に入居して13年。特に不便はない。会社員で土曜日も仕事に行くことが多いが,今日は休み。子どもは学生と社会人で,ここで育った。

・80代女性。足が悪い,痛い。少し先のスーパーまで行けば色々なものがあるが,行くのがエライ。住宅入り口近くのコンビニへ買い物に行くところで,「要るものあったら…」と,隣の方にお声がけ。<隣室の前の廊下で出会ったところでお話し伺い>

・70代男性,一人暮らし。被災者ではないが,この復興住宅へは申し込んだらスッと入れた。ほとんど毎日,介護保険によって介護を受けていて,今日もヘルパーに入ってもらっている。<「歩行困難なので…」とのことでインターホン越しに応答>

・70代男性。昔のことは覚えていない。ここの生活には慣れた。外出などはあまりしない。身体悪いところは特にない。<ドアを少し開けて応答。話をするのがつらそうなので短時間で切り上げ>

・少女。留守番中。学校で震災のことについて教わっているが、どんなことかと聞かれると「わからん」。親からも聞いていない。<インターホン越しに応答>

・80代女性。この復興住宅へは出来てすぐ入居した。足が悪い,痛い。耳が遠いので…。<階下の郵便受を見にいって戻ってこられたところへお声がけ>

・70〜80代男性。灘区で被災。今,困っていることはない。震災の時のことについて訪ねると「いいです。はい。」<ドアを開けて応答>

・60〜70代女性。ここで花を作らせてもらっています。<住宅脇で草引きをされているところにお声がけ>

・60〜60代女性。(今お困りのことは?)「はい,大丈夫です。」<インターホン越しに応答>

・70代男性。「今,妻がいないので,改めて来てほしい。」<ドアを少し開けて応答>

・70〜80代女性。「ちょっと風邪引いて寝てます。」<インターホン越しに応答>

・60代女性。「今,出かける準備してたとこなので…。」<ドア奥から応答>

2013-11-29 ↑TOP


第21(新生146)回訪問活動 (2013/09/07) レポート〈切り離されて暮らすことは?〉

毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。

前の週末に続いて,「息の長い支援」は神戸に聞こう! 切り離されて暮らすことは?というテーマのもとでの復興住宅訪問活動となりました。

猛暑はやわらいだものの,時折雨も降る不安定な天候の中での訪問となりました。神戸中心部などの市街地とは違っていることはかねてから承知していますが,山の天気だと,改めて思い起こされました。

旧グループにおいても久しく訪問していなかったところですので,引き続き,この復興住宅,ベルデ名谷の,現時点での全般的なありようを理解することに務め,前週の2回とは別の棟にお訪ねして「お話し伺い」をさせていただきました。また翌8日にも,この春季以来重ねてきたように,曜日を変えて同様の箇所をお訪ねするという方法を,ここでも採ることにしました。

2013/09/03「神戸新聞」神戸「掲示板」掲載分本日及び翌8日については,「神戸新聞」の神戸地域版の「掲示板」にてご紹介いただきました。

夏季までにお訪ねした筒井住宅と同様,このベルデ名谷においても,シルバー向けの部屋を備えた,高齢者が集まった棟があり,そうしたひとつの階下には,平日の昼間LSAが常駐して「見守り」体制としているほか,介護ステーションなどの施設も比較的近いところに設けられています。

阪神淡路大震災後,神戸市営の復興住宅としては最後に竣工したこの住宅は,もともと高齢者以外の世帯も一定程度含まれており,専ら被災者が入居するそれとはやや趣を異にし,一般的な市営住宅の性格も持ち合わせていました。こうした,高齢者世帯以外の世帯とともにあることで,地域で高齢者を支え,コミュニティを維持させようとの意図もあったのでしょう。

こうした施策も,その当初においてから,遠距離通勤を強いられる現役世代が地域・近隣を支える負担が過大であったりしたほか,年月を経る中で深化していった問題もあります。

ともあれその出発点において,共通していることを,先週の訪問で端的に語られていました。誰も「好き好んで来たんやあらへん」と。

竣工後間もない時期に,現役世代として入居した人の中に,高齢者の仲間入りをする人も少なくないのはもちろん,入居当初から高齢者であった人は,後期高齢者の仲間入りをして久しいといった状況にあります。

さまざまな事情で,住民の方の顔ぶれも変わります。少なくともここでは,被災者のあとに別の被災者が入居するということはほとんどなく,住民の中での被災者のウェイトは,下がることはあっても上がることはなく,やがては,住民の中で,被災者がマイノリティとなり,層としては解消してゆくのかも知れません。

被災者同士で寄り添い,ともにあるコミュニティの中で,終の棲家にすることは,どこまで可能なのでしょうか?

9月の雨の中で,そのようなことを考えさせられました。


この日伺ったところの概略です。

・80代男性。灘区で全壊。近くの鉄筋コンクリート3階建ての家に避難させてもらった。みんな年取っていくから,その家の人たちももういない。仮設住宅は六甲アイランド。六甲ライナーで住吉駅の下のスーパーまで買い物に行った。「あそこでよかった」。この復興住宅に入居して14〜15年。ここは間取りが広々している。ここに来た当初は杖をついていたが,最近は歩行器に。足が悪くなってきて,バスに乗るのもしんどい。被災して入って,最近亡くなる人も多い。空き部屋が多い。近隣の人の顔はよく知らず,つきあいはしていない。昔の近所の人たちと電話するが,会いには行けない。買い物は,週3回来てもらっているヘルパーに依頼。普段,土曜日はデイサービスに行っている。敬老の日が近く,特別サービスも。他の人はあまり知らない。みな行くところが違うから。来る人は大概みな90歳以上,一番若くて70代もいるかな? 九州出身で,神戸に来て,あちこち働いて,(高いお金がもらえるなど条件の)ええとこ回って,いろいろした。もう忘れた。家の中にいてもけっこう忙しい。することきりない。また地震が来るかもと思うと怖い。災害も自然だけにどうしようもない。電気ものは何かと怖い。もう私の時代は終わった…。<玄関内でお話し伺い,歩行器にもたれかかって「もうこのくらいにして」とのことで切り上げ>

・90代女性。長田区で全壊。神戸市から10万円もらったが,どこかにいってしまった。長く娘宅に身を寄せていたが,この復興住宅へはできてすぐ入居したので10何年になるだろうか。当たる率は非常に低いと聞いていた上,大阪府に出ていたので,まさか当たるとは思っていなかった。今も孫がよく遊びに来てくれる。昨日のことも忘れてしまうほど。最近のことは,なかなか思うようにはいかない。足が悪いし,腰も痛い。外出には杖を使う。元気よかった時が嘘みたいに思われる。これからは近くの病院に行こうと思っている。その病院には10日後に初めていく予定。4月13日の淡路島を震源とした地震が起こったときは,けっこう揺れてガタゴトいって怖かった。忘れていた阪神淡路大震災を思い出した。家具が倒れたりすることはなかったが,置いていたものが動いていた。買い物はコープさん(生協)の個配を頼んでいる。一番困っているのは保険がなくなっていること。80代・90代などの高齢になると入ることもできず保障もなくなってしまう。お金がかかって生きているだけで大変。この部屋は西日がしっかりよう当たる。しかも遅くまで…。夏は(熱中症などが)怖いから出歩かないようにしている。何でもよく食べている。<玄関ドアを開け,網戸越しにお話し伺い>

・80代女性。ここの住民はみな元気。みな何か病院に行ってるけど。90代など,年いったらみな(施設に入所したり亡くなったりと)よそへいく。隣近所とかではなく,つきあいのある人はある。この棟は,高齢者向けで,月〜金曜,9〜5時はLSAが常駐していて,何でもしてくれる。みなしっかりしているからボランティアは要らん。この棟はまだいいが,他の棟では子どがわるさするので怖い,治安が悪い。(予告ビラを見せて訪問活動の趣旨を説明すると,手にとって興味深げに見て)ありがとう。御苦労様。<訪問予定のお宅に来訪中のところ,玄関前でお話し伺い>

・40代男性,一人暮らし。東灘区で被災。当時は親と同居していた。家は(柱などが)斜めになったが,中は何とか暮らせる状態だった。電気や水が止まり,みんなで支援物資をもらいに行った。この復興住宅に入居して4年。申し込んだら割とすぐに当たった。掃除・入浴・食事など,週何回もヘルパーに来てもらっている。仕事以外はあまり外出しない。仕事は細かい作業で,周囲に女性も多い。この夏は暑かった。エアコンを使ってしのいだ。近所づきあいはまだ全然ない。<ドアを開けて応答>

・30代女性。中央区で被災。周りは被害が大きく,通っていた学校は避難所になった。電気・ガス・水道が止まり,水をもらいに行ったことも。避難所で寝泊まりしたり仮設住宅に入ったりはしなかった。西区へ移った後,市営住宅の抽選の落選はがきを10枚ためたことや,父が既に高齢であったことなどに配慮されて,やや優先されたのか,やっとのことでこの復興住宅に入居して10年。<ドアを少し開けて応答>

・80代女性。被災時は息子と嫁と一緒に住んでいた。誰もケガすることなく,家も被害がなかった。この復興住宅へ入居して10年以上。もう慣れた。困っていることはない。<玄関先でお話し伺い。親しくしている住民の方が来訪中のため手短に切り上げ>

・20代女性。西区で被災。この復興住宅に入居して10年ぐらい。地震の時は,そんな被害が出るような揺れではなかったような気がする。両親から震災のことについて,ほとんど聞いたことはない。学校でも習うには習ったけど,ほとんど覚えていない。

・60代女性。垂水区で被災。特にケガや損害はなかったが,一時水道やガスなどが止まったくらい。「ここがええ」という息子の勧めで垂水区内の市営住宅に申し込み,この復興住宅に入居して3〜4年。今困っていることは特にない。

・30〜40代女性。(よろしければお話を伺わせていただきたい)「今,忙しいので…」。(お困りのことは?)「ございません」。<インターホン越しに応答>

・70〜80代女性。「今,ちょっと主人を風呂に入れてるので,手が離せんのですわ。」<インターホン越しに応答>

・70〜80代女性。「今,具合悪くて横になっています。」<インターホン越しに応答。「お大事に」といって辞去>

・「訪問不要(特にお話する事はありません)」<自身でシート記入>

・60〜70代女性。「今,忙しいから…。」<インターホン越しに応答>

・70〜80代女性。「そんなんいいです。」<ドアを開けて応答>

2013-11-28 ↑TOP


第20(新生145)回訪問活動 (2013/09/01) レポート 〈関東大震災から90年〉

ベルデ名谷・進入路を見下ろす毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。

月はかわって9月になりましたが,前日に続いて,「息の長い支援」は神戸に聞こう! 切り離されて暮らすことは?というテーマのもとでの復興住宅訪問活動となりました。

日曜日の訪問活動は,新たな活動主体となった神戸・週末ボランティア 新生のもとで,3月から始めたものでしたが,同一場所に曜日をかえてお訪ねすることで,各々一定の成果を見込めるのみならず,それぞれの情況をより多角的に伺えることから,定着させてきました。

もちろん両日共に参加できなくても,いっこうに差し支えありませんので,少しでもご関心をお持ちくだされば,「1回だけでも、初めてでも、お気軽に」お運びいただければ幸いです。

現在,関西で都心に最も近い海水浴場である須磨海岸では,海水浴場での遊泳は8月20日まで,海の家などは8月末までとなっていますので,この日は既に過ぎ去った夏の景色でした。やや収まってきたとはいうものの,猛暑・酷暑は去りゆかない中での訪問となりました。

この夏をどのようにお過ごしになられたのかを気にかけての訪問でしたが,猛暑の中で亡くなられた方のお宅にも伺いました。もう1月早くきていれば…と悔やまれるところでした。

さて,この復興住宅・ベルデ名谷は,いずれも高層建築の全7棟からなりますが,その立地条件などから,棟ごとに違った環境・条件にあります。

ベルデ名谷・警告貼札ベルデ名谷・迷惑行為はやめましょうそこでまず,全般的な情況を伺うべく,全戸訪問を行うことが難しい中,各棟について,一定の戸数をピックアップして,それらをいくつか並行して伺うとともに,その中でもとりわけ,不便な場所で難儀されているであろう方に寄り添うことを活動の原点にしてきたことを想起し,ヨリ高いところで,奥まった場所にあるところから,お訪ねすることにしました。

あわせて,各棟から,訪問先のお宅を決めさせていただくに当たっては,高齢の方や,障害をお持ちの方も多いであろうということで,一定の低・中層階を中心としました。

そのため,訪問先での移動はけっこう大変で,若干予定の時間をオーバーしてしまったことについては,今後の反省点としたいと思います。

話は変わりますが,この日は,関東大震災からちょうど90年になります。近代日本最大の都市災害として,今日もまたこれから得ることが多いもので,そうした問題意識は,夏季までに行った,市街地の復興住宅をお訪ねした際に,心にとめておくことで,ヨリ学び活かそうとしたのでしたが,この地にある被災者の方々もまた「都市型災害」の被害者であることに違いはないのです。

今日,関東大震災の被災経験者から直接体験を伺う機会は,きわめて限られてきました:「防災の日:きょう 関東大震災被災、重なる「東日本」 99歳、備えこそ教訓 「慢心せず学び続けて」」(2013/09/01 毎日新聞)。

神戸の地にあって,阪神淡路大震災のほか,阪神大水害(1938年7月3〜5日),戦後高度成長期の2度の大きな水害(1961年6月24〜27日・1967年7月9日),都賀川豪雨(2008年7月28日)など,これまでの大小様々な災害を乗り越えて生きてこられた方から伺う機会は,まだあり,これまでとは違った位相・角度からの体験・経験も,まだまだ伺えます。

前日に続いて,充実した「お話し伺い」ができましたことに感謝いたします。


この日伺ったところの概略です。

・80代女性。長田区で被災。判定では半壊だったが,県の補助を得て解体した。大工を頼んで修繕してもらったばかりだった。近くの学校の避難所に3月までいた後,夫の故郷へ県外避難。県営住宅に入居できたが,賃貸住宅を借りて移転。どうしても神戸に帰りたいと,あちこちの復興住宅を申し込んで,最後にやっとここが当たった。この復興住宅にはできてすぐ入居。もう慣れたが,震災までずっと一軒家だったので,ここへ来てからよく夫に「大きな声出したらアカン」と叱られた。買い物は2〜3日に1度,バスで名谷まで行く。高齢ながらまだ運転をする友人の車に乗せてもらっていくことも。このほかコープさんの個配も利用。当時は農村だった神戸の郊外で生まれ育った。阪神大水害の時は,この近くの川も増水したが,その中を姉が背負って家に連れ帰ってくれた。戦時中は親戚が疎開してくることも。神戸空襲の時,山の向こうに見えた焼夷弾が,子ども心に,花火のようにきれいと思った。同じ頃,夫は空襲下の兵庫にいたという。<玄関先でお話し伺い>

・60代女性。被災時も垂水区にいた。マンションに住んでいたが,家の中はグシャグシャになり,怖かった。電気・ガスも止まったが,電気はすぐ来た。水道は10〜20日使えず,水をもらいに行ったり,風呂に入らせてもらったりするのが大変だった。耐震性の高いところに住もうと思っていたが,身体も悪くなり,子どもが独立して,自分一人で家賃を払っていくのも大変になったので,公営住宅を申し込んだ。この復興住宅へ来て7〜8年。ここは風呂やトイレが広くていい。近所づきあいはない。年齢が行くにつれて,不便することが多くなった。「困るのはみな困ってる」,「何とか最低限度の生活」。週1回ヘルパーに来てもらっている。外出時には杖を使用。神経を痛めていて,医療費や治療,投薬などでずっと大変だった。皆に心配されているが,なるべく歩くようにしている。<玄関先でお話し伺い>

・70代男性。長田区で全壊。被災時は知人宅にいて,そこも半壊扱いに。食べ物など不自由せず,電気・水道もすぐ来た。かつて住んでいた場所であり,近くの学校の避難所にいた人はなつかしいが,他所に行ったり亡くなったりしているので,もう一度帰りたいとは思わない。垂水区の親類宅に身を寄せた後,仮設住宅代わりの県営住宅に。この復興住宅に入居して12〜13年。手術してもうすぐ5年,術後の定期的な検査に通院するのが大変。ほかにも持病が。足が痛いが,ぼちぼちぐらいには歩けるとのことだが,やや時間をかけておいでくださった。<玄関でお話し伺い>

・50代男性。垂水区で半壊。被災時に住んでいた市営住宅では一時水道などが止まった。修繕後も住み続けたが,老朽化のため建て替えることになり,この復興住宅に入居して10年以上。子どものいたずらや迷惑行為がひどくなって困っている。警察も知っているが,何もしてくれない。手をいこまねいて我慢している。この間も玄関ドアの鍵穴に接着剤を流し込まれて開かなくなり,閉じこめられてしまった。何とかこじ開けて外に出られたが,交換するのにかなりお金がかかった。この並びだけでなく,上の階でも同様の被害者が…。<玄関前の廊下でお話し伺い>

・80代女性。兵庫区で被災。一人暮らし。8月上旬この部屋で亡くなり,半ばには葬儀を終えた。亡くなったとき,猛暑の中,エアコンをつけていなかったようなので,熱中症であろうか。外出に杖をついていたが,至って元気で,亡くなる3日前に,元町の百貨店に一緒にお食事に行ったところだったのに…。8月中に後片付けを終えようと,何度もここにやってきたが,まだ終わっていない。<後片付けに来ていた身内の方からお話伺い>

・70代男性。ドア横の窓の看板についてお尋ねしたら「これが仕事や。」と。被災場所はここから遠いか,とお尋ねしたら「遠いも近いもあるか」,(この復興住宅へは)「あてがわれ来た。好き好んで来たんやあらへん」,「みんな,昨日の(ことのように)震災を忘れてへんで」,「何を調べとるんや? もうええ。」<ドアを開けて応答>

・70代女性。兵庫区で全壊。建てて入居してまもなく被災した。直すこともできず,ローンも…。何度も申し込んで,やっとこの復興住宅に入居して10年以上。ここでの生活には慣れた。身体悪いところは特にない。<玄関前でお話し伺い,入浴前とのことで簡単に切り上げ>

・70代男性。地震の時のことは忘れた(話したくない)。この復興住宅は,申し込んだときに,市から勧められたもので,自分から来たいと思って来たのではない。身体は悪いところだらけ。もう少しで逝くやろうからほっといて。<玄関ドアを開けて応答>

・「御苦労様です。今の処何もお話しする様な事ございません。毎日が幸せな生活を過ごして居ります。今後健康に気をつけて頑張りたいと思います。有りがとうございました。」<自身でシート記入>

・少年。遊びに来ている友人と3人で留守番。(今困っていることは)「ありません」。明日から学校が始まるが,宿題はまだやっていない。

・20代女性。被災経験なし。予告ビラを見た覚えがない。困ったことないです。震災の時はよそにいた。<ドアを開けて応答>

・50〜60代女性。被災経験はない。「うちは今,そんなところじゃないので…。」<ドアを開けて応答>

・70代女性。訪問の趣旨を説明したところ「そんなん,私、具合悪いので…。」<ドアを開けて応答>

・「震災の影響はほとんどありません。ご心配ありがとうございます。」<自身でシート記入>

・50〜60代女性。「すみませんけど結構です。」<インターホン越しに応答>

・60代男性。(今困っていることは?)「そんなんないで。」<ドア越しに応答>

・30代女性。「わかりました。」<インターホン越しに応答>

2013-11-27 ↑TOP


第19(新生144)回訪問活動 (2013/08/31) レポート〈ベルデ名谷へ〉

ベルデ名谷・遠景毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。

1月から始めた神戸・週末ボランティア 新生では,18回にわたる復興住宅訪問活動で,夏までに,神戸市営筒井住宅の全戸の訪問を達成したのに続き,今回からは,同じ神戸市内の市営住宅でありながら,市街地中心部に近い東部と離れた郊外の西部,海に近い平地と奥まった山の急斜面など,これまでとは大きく違った,対照的な環境にある,場所に臨むこととしました。

ベルデ名谷・高層階からそこで訪問先に選んだのは,垂水区にあるベルデ名谷という復興住宅です。今夏の猛暑を考慮し,やや落ち着いてきてきてからの展開としました。

この復興住宅は,山間の急な斜面上にあり,阪神淡路大震災被災者向けの神戸市営の復興住宅としては,もっとも遅くに竣工したところです。周囲に,といってもやや離れたところですが,他にも住宅地がありますが,この復興住宅は,そうしたところから孤立したところといえます。このことは,地理的・環境的な面だけでなく,人々の意識の中においてもまた然りといえるでしょう。

そうしたところから,「息の長い支援」は神戸に聞こう! 切り離されて暮らすことは?というテーマを設定しました。

もともと「週末ボランティア」(旧)は,神戸市中心部から西側の,山間の離れた,西神地区の仮設住宅,続いて,名谷地区の復興住宅への訪問活動を行っていました。それは,長年生活の拠点・基盤であった被災場所から,地理的にも社会的にも,遠く切り離された被災者の方が,ヨリ不便・難儀されているであろうと考えてのことでした。

そうした被災者の方々は,同じ被災者でありながらも,仮設住宅・復興住宅の入居に際して優先順位的にも「後回し」にされて,いっそうの不便と孤立を強いられることとなったのでした。

この復興住宅にも約10年前にお訪ねし「お話し伺い」をさせていただきました。そのときには,お伺いしたところから,急坂ゆえに住宅近くのバス停まで行くのも困難な方が少なくないとのことで,乗用車による移動補助ボランティア「ちょっとカー」を始めたこともありました。

ベルデ名谷・5・6・7番館その当時は,神戸市営地下鉄の名谷駅に集合して現地に向かっていました。同駅前や周辺のショッピングセンターが,住民の方の買い物などの生活の上で重要な場所でもあったことにもよります。

今回は,JR・山陽電車の垂水から伺いました。バスの本数も少なく距離もあり不便なのですが,垂水区役所ほか,行政サービスなどはこちらが中心になっているほか,遠方から現地に向かう交通の便の関係でもあります。

今回の訪問活動では,被災以降,長い年月を経る中で,どのような変化があったかを,お伺いすることが重要となりました。

その一例を挙げるなら,復興住宅一般の問題として高齢化が進んでいますが,その中で「孤独死」の問題が採り上げられることもあります。しかしそれは氷山の一角で,高齢化が進む中で,住民自身による自治活動などが難しくなり,行事が廃止・縮小されることが,数年前から顕著になってきていたと伝えられています。また,この1月には「老老介護」の果てに痛ましい事件も起こっています。

また漸次,入居者の中に増えてきた,他の世代や,被災者ではない住民との関係のありようも,重要なファクターでしょう。

そうしたところから,今回は,まず,現時点における,全7棟からなるこの復興住宅群の,全般的情況を理解するようつとめました。

ともあれ,突然の,未知のヨソ者の訪問を受け入れ,「お話し伺い」に応じて下さったことに,感謝したいと思います。


この日伺ったところの概略です。

・80代女性。兵庫区で全壊。住んでいた借家は倒壊した。避難所に行っても,人が多くて居れなかった。子どもがむかえにきてくれたので,身を寄せた。垂水区の仮設住宅でも坂がたいへんだったが,まだ元気で飛び回っていた。この復興住宅に入居して14年。夫と一緒にここにきたが,今は一人暮らし。ここは坂が多くてたいへん。ここは近くの店がコンビニしかないので不便。買い物は,コープの個配を利用。足りなくなると買いに行かなければならなくなるのがたいへん。その他,子どもが買ってきてくれるが,1人で出かけるのは不安。坂道も怖いが地震も怖い。4月に淡路島を震源とする地震が発生したとき,ここもけっこう揺れて怖かった。(東日本大震災で被災した)東北のことを考えれば,神戸はまだマシ。(この夏の暑さはたいへんで,熱中症予防も大切だといわれるが)あまり暑さは感じない。医者に水分をちゃんととるように言われているが,トイレが近くなってたいへんなので…。1月に1月ほど入院して,退院したら足が弱って,ふらついたり,重心をとったりするのが難しく,歩くのがたいへんに。あとはちょっと耳が遠いぐらい。それ以外は悪くない。子どもがしょっちゅうきてくれていて,通院や買い物に付き添ってくれている。若い人はいい…。近年までは元気で,高齢者のスポーツ競技大会「ねんりんピック」でもらった盾を「私の誇り」と,飾っている。練習場所が遠いが,仲間との親交も。神戸市の老人大学をはじめ,詩吟,謡い,大正琴,手品,カラオケなど,あらゆることにチャレンジしている。わりと色んな人と出会って話しができる。

・70代女性。兵庫区で全壊。(家財なども取り出せず)何もかも失った。かつて子どもが通った,近くの小学校に避難。西区の仮設住宅を経て,この復興住宅に入居して14年。買い物は,重いものなどをまとめて持って帰るのが大変なので,1週間に1度のコープの個配を利用している。普段はテレビが好きでよく見ている。この夏の暑さは大変で,8月に入ってエアコンを使った。この棟はみな仲いい。身体の具合は大丈夫。夫を亡くし,子どももそれぞれ独立して,今は一人暮らし。一人になって淋しかったが,今は幸せ。音楽が好きで,昨年も交響楽団を聴きに神戸文化ホールへ行った。外へ出てみると楽しい。他人が来ても,ドアを開けずにインターホン越しに応答するようにしているとのことだが,ボランティアの訪問にはドアを開けていただき,玄関でお話し伺いに。最後に,ありがとうとの言葉をいただく。

・30代女性。西区で被災。被災当時はまだ高校生だった。休みになったことはなったが,学校が避難所にことはなかった。被害は特になく,不便したことは,一時,水道が止まったぐらい。そのときは友人宅にもらい風呂に。小学生の子どもは,学校で震災について教わっているようで,経験者に聞いたことを発表したりもしたようだ。夫も被災時西区にいたが,寝ていて地震に気付かなかったそうだ。西区のUR賃貸住宅にいたが,子どもができて家族が増え,家賃がたいへんになったので,この復興住宅に入居して2年。

・80代女性。兵庫区で全壊。済んでいた文化住宅が倒壊し,何一つ持ち出せなかった。西区の仮設住宅へ。公演の中に立てられた110戸ほどが集まったところだった。最寄り駅前のコープへ買い物に行くのに,自転車で坂を上り下りするのがたいへんだった。色々なボランティアがきてくれ,高校生がいい子だったのを思い出す。字や文章が下手で文通できなかったのが残念。この復興住宅に入居して14年。立ち上がって歩くのがたいへん。アベノミクスとかで税金ばっかり高くなっていくので困る。

・70代女性。兵庫区で全壊。古い家がつぶれて,周りが明るくなっていく中,1〜2時間して,もうあかんと思ったが,何とか助けてもらえて,よかった。背中や肩などを圧迫され骨折し,その痛みや後遺症は今も続き,そのための通院も続いている。これは一生続くだろう。西区の仮設住宅では,空気がよく,野菜を作ったりした。夏は暑く冬は寒かった。「週末ボランティア」の訪問活動の記憶はない。この復興住宅に入居して14年近く。

・70代女性。須磨区で全壊。自宅のあったところは更地に。子どものところに身を寄せた後,避難所へ。ボランティアがよくきてくれて,水運びなどをしてくれた。(便利なところではなく)ここへ申し込むよう,市からいわれた。この復興住宅に入居して14年。娘や息子が交代できてくれているので,今のところ困っていることはない。つい最近も電球を取り替えてもらったところだし…。

・60〜70代女性。長田区で被災。県外に避難した。この復興住宅に入居して1年ほど。夫が神戸に戻りたいのと,近くに娘がいるので,ここに超してきた。身体の調子は大丈夫。この復興住宅の棟毎にある自治会で,フロア別に役割を担当しているが,この階はほかにも役員らがいて,助かっている。もうすぐ出かけるところ。

・20代男性。西区で被災。被災当時は幼少で,ここと同じような団地に住んでいた。建物に被害はなかったが,家の中がグシャグシャになった。以後何度か神戸西部で引っ越した後,この復興住宅へきて10年。

・70〜80代女性。須磨区で被災。被災当時の記憶は不明。娘と同居しているが,今は外出中。ヘルパーにきてもらっているほか,訪ねてくる人もいる模様。2週間ほど前には市の人が調べに来たり,火災報知器を付けたりしたような気がする。<お部屋にあげていただいてお話伺い>

・70代男性。兵庫区で被災。娘がいた県外に出たが,娘と共に神戸に戻ってきた。この復興住宅に入居して10年ほど。近所づきあいはない。若い頃,神戸にきて,長く長田にいた。最近体調を崩して入院した。もう年やさかい…。<玄関でお話し伺い>

・60〜70代男性。この復興住宅ができた頃から住んでいる。ここではボランティアをみたことがない。心配事があったら相談したらええんか?<お出かけのところ,予告ビラを見せながら訪問の趣旨を説明>

・70代男性。(今お困りのことは?)「そんなもん,なんもあらへん。」(訪問の予告ビラについて)「そんなん,聞いてへん。」<ドア奥から応答>

・50〜60代男性。(お困りのことは?)「いや,ないけど…。」<ドアを開けて応答>

・「特にありません。御苦労さまでした。」<自身でシート記入>

・30代女性。「けっこうです。」<インターホン越しに応答>

・70代男性。「けっこうです。」<ドアを開けて応答>

2013-11-26 ↑TOP


第18(新生143)回訪問活動 (2013/08/04) レポート〈筒井住宅全戸訪問完了〉

春日野地域の盆踊り大会毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。

1月に始めた,神戸市営筒井住宅への復興住宅訪問活動も,18回目となる今回が最終回となり,お陰様で全560有余戸への訪問を達成できました。

前日は,この住宅の住民の方が主催してのカラオケ大会と盆踊り大会でしたが,続く今日は,近隣の春日野地域の盆踊り大会にあたっており,これに配慮して,訪問予定戸数を抑え,早めにするべくしていました。実際,早くから準備して,こちらに出かけられる方もおり,準備もたいへんなので,こちらと合同すればとのご意見も耳にしました。

訪問活動を終えてから,住宅近くの公園で行われた盆踊り大会を少しのぞかせていただきましたが,オープニングには,地元の市立中学校の吹奏楽部によるジャズのスタンダードナンバーの演奏がありました。さすがに日本のジャズ発祥の地のひとつらしい一齣です。

そうした状況から,前日と比べ,若干,「お話し伺い」に応じて下さる率こそ低かったものの,充実した内容もあり,有意義なものとなりました。

先週の2回及び前日と同様,「今、改めて「都市型災害」を神戸に聞こう!」のテーマのもと,目的意識的な自覚をもって臨みました。

こうした問題意識からの達成度と内実について,このあとまたふり返って検討していきたいと思います。

その方法としては,単にお伺いする側の姿勢にとどまらず,お話ししていただく方々とも,いかに共有できるかということもまた,新たな課題にではないかと考えています。

こうしたコンセプトと方法を共有することで,東日本大震災など,新たな被災者・被災地へのメッセージとなり,教訓や力になるとの展望を開くことができるからです。

この復興住宅は,数年前に旧グループにおいて訪問をしていたところなのですが,それについての肯定的評価はほとんどないという,極めて厳しい中での出発でもありました。そうした中で,試行錯誤を重ねる中での,新たなヨソ者に,心を開いて下さったことに,深く感謝します。

当初予定しなかった全戸訪問へと転換したのは,訪問の中で新たな課題を自覚したことにもよりますが,訪問させていただくお宅の選択のあり方については,今後の課題としていきたいと思います。

新たな活動主体である,神戸・週末ボランティア 新生の出発にあたっては,改良・改善のための自己変革は,全く厭うことなく,謙虚さと柔軟な対応をもってすることを心がけましたが,一方で,基本と原則は,いささかもゆるがせにせず,堅持してきました。

旧グループ再生への取り組み継続してきた中で,その必要性を痛感してきた,「役立ちと学び」の姿勢もまた,不断に問われるものであったと思います。これを受け付けず拒む者が,利用目的でやってきたニセモノに過ぎないことは明らかですが,ホンモノのホンモノたるゆえんを,その矜恃にかけて示すとなると,容易ではありません。

そうした「役立ちと学び」の基本は,自分が相手の立場だったらどうなのか?」と,自らに問いかけることから始まるものであり,情況に自己を投入することで可能になるものなのです。

そうしたなか,認識した対象を,自分と同じ次元に引き下ろしたり,切り縮めたり,してしまうこともありますが,それを克服することが,次に問われます。そうして,認識を深め,視野を広げ,展開させていくことで,成長のかてにしたいものです。


この日伺ったところの概略です。

・70代男性。灘区で全壊。避難所で半年過ごした。何度申し込んでもダメだったので,仮設住宅は加古川市に。仮設住宅にいた時,復興住宅の入居についての情報を、アンテナを張って,人に会って,収集することを心がけたので,苦労はしなかった。頭でっかちになってはダメ。この復興住宅で一人暮らしを始めて3〜4年。一遍にするとしんどいので,掃除はこまめにしている。熱中症の予防など工夫しないとダメ。散髪は自分でしていて,今,若い人がやっているような刈り上げ方も,昔からバリカンを使ってしていた。持病で,タバコはあかんけど…。近くに知り合いはいない。夏の盆踊り大会は,この復興住宅独自よりも,地域で合同でやった方がいいと思う。震災後多くのボランティアが来ていたが,モチベーションを維持するのは大変だったと思う。プライバシーよりもプライドを大切に。大きな被害を受けた長田では,再開発されて回りもきれいになっているが,商売になってへん,昔の賑わいや潤いがない,復興してへん。原発問題でも,専門家はみなウソばかり。奥尻でも防波堤がが役にな立たなかったのに,教訓が活かされず,東日本大震災の被災地でも同じ過ちが繰り返されている。自衛隊の災害派遣も理解しているつもりだが,これも性善説ばかりではダメだろう。自然破壊が心配。<お部屋にあげていただいて1時間余りお話し伺い,野球中継が始まるとのことで切り上げ>

・80代男性。中央区で全焼。仮設住宅などあちこち探したが,民間賃貸住宅に10年ぐらい住んだあと,この復興住宅に入居して4年。杖を持っている人が杖に頼るとダメになるのを見て,なるべく使わないようにして,歩くように心がけている。食事や掃除などは一人でする。一人はダメ,家族がいないと…。市からケアマネージャーを紹介してもらったが,なかなか思うようにはいかない。人間は根性や,やろうっていう根性が必要。朝起きたら喫茶店に行ってモーニングをいただいて,散歩して帰宅する。近くのスーパーにも買い物に行く。この夏の暑さの中,できるだけ自然の風でと,扇風機ですませ,クーラーは使わなかった。

・50〜60代男性。「(困っていることは)特にないです。」<ドアを開けて応答>

・50〜60代男性。「(話すことは)何もないわ。」<ドアを開けて応答>

・60代女性。「いいです。」<ドアを開けて応答>

・60代男性。「ええわ。」<ドアを開けて応答>

・60代女性。入浴中とのこと。

2013-11-23 ↑TOP


第17(新生142)回訪問活動 (2013/08/03) レポート〈今、改めて「都市型災害」を神戸に聞こう!〉

住民によるカラオケ大会&盆踊り準備毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。

月も変わって8月最初の週末となった3日は,先週に引き続き,「今、改めて「都市型災害」を神戸に聞こう!」のテーマのもと,猛暑の中での復興住宅訪問活動となりました。

夏祭り・盆踊りのシーズンで,今回もお訪ねした復興住宅・神戸市営筒井住宅でも,住宅に囲まれた中庭で,午後にはカラオケ大会が,夕方からは盆踊り大会が行われ,そのためのテントや櫓が設営されていました。

カラオケ大会は,訪問活動の時間と重なりましたが,合間を見つけてご挨拶かたがた伺いました。自治会役員総出で運営に当たっており,見知った方々の姿や歌声があり,多くの参加者があり,訪問予定以外の方々からも,お話しを伺う貴重な機会となりました。

夕方からの盆踊り大会は,訪問活動が終わってからの時間帯でしたので,少し拝見するにとどめましたが,浴衣姿の孫娘とおどると,楽しみにされている方もいました。

今回は,こうした行事があることに配慮して,訪問戸数を減らしましたが,長応じて下さる方も多く,時間のお話し伺いもあり,充実したものとなりました。また,こうした行事に参加されない方も少なくないわけで,訪問を通じて,そうした方々からのお話しを伺うことも大切であることを実感しました。

さて,8月になると原爆や敗戦など,戦争に関する話題が,多くなるものですが,かつてはマスコミも「定期便」で記事を作成してきたものですが,近年はそれも減少傾向にあります。阪神淡路大震災についても,「1.17」が近付くとそうなるものですが,こうした特集記事のソースは,前年の夏ぐらいから,諸行事の準備と同様,早いところでは始まります。そうは行ってもやはり,減少・縮小傾向は著しいものがあります。

新たな発掘や,忘れないことも大切ですが,時間の経過によって,新たに生じたり,深刻化したりする問題に着目することが,大切です。

こうした中で,新たな課題や支援ニーズが見いだされることがあるのはもちろん,東日本大震災を機に盛んに言われるようになった「息の長い支援」のあり方,将来像をも提示するものとなる,たいへん意義の大きいものと言えるでしょう。

2013/08/02神戸新聞・神戸版「掲示板」所載本日及び翌4日については,「神戸新聞」の神戸地域版の「掲示板」にてご紹介いただきました。直前の2日のお知らせになり申し訳ありませんでした。記事の左には社告があったほかは,上段には神戸港入港と明石海峡通過の大船,右側には国際支援・貢献の活動,下段には富士山世界文化遺産登録記念品の広告があるといった具合に,ナショナリズムを超えて,神戸ならではの,まさに「We love KOBE」を掲げてきたものにふさわしい,レイアウトをしていただきました。


この日伺ったところの概略です。

・60代女性。東灘区で全壊。ゆっくりながらかなり揺れた。震災からしばらくの間のことはよく覚えていない。避難所に10日いた。会社に寝泊まりしたりしたあと,大阪に家を借りた。この復興住宅に入居して15〜16年。ここに来たばかりの頃,具合が悪くなったことがある。原因不明だが,慣れないところだったからだろうか。HAT神戸方面の商業施設に行こうとして転倒。大けがして,手術した。このほかにもよく転んでケガして,楽しみにしていたところも行くのをやめた。30〜40代の頃にも大ケガをして入院したことがあるので,もうしゃあない。昨年の夏には熱中症になったが,何とか病院に行って,事なきを得た。それ以来,暑いときには,エアコンを使用するようにしている。この復興住宅には,自分より上の世代の高齢者が多く,話しが合わないので,近所づきあいはあまりしていない。今,ちょっと人間不信。震災以降,1人きりになったので…。<訪問時,ヘルパーに買い物をお願いしていた。玄関前廊下でお話し伺い>

・70代男性。須磨区で全壊。近くの小学校の避難所に行ったら,ケンカしている被災者を見て「心のケア」が必要と思った。遠い親戚宅にもを寄せたあと,ポートアイランドの仮設住宅へ。入れる仮設住宅はそこしかなかった。暑さ寒さの中1年以上過ごした。振動なども怖かった。この復興住宅に入居して15〜16年。同じ仮設住宅にいた人と一緒に来ることが出来た。もう慣れた,というより,他に行くところがない。ここへ来てから妻を亡くして一人暮らし。外出することも少ない。数年前に隣接地で異臭が発生したとき,ここはともかく,発生源に近い棟はたいへんだった。この住宅の別棟で火災が発生したとき,避難することもなく,特に問題なかった。最近は隣近所の顔ぶれも変わってきて,自分が一番古いぐらいに思われる。あいさつぐらいはするが…。<玄関前の廊下でお話し伺い>

・70代男性。中央区で被災。生まれてからずっと神戸のこのエリアに。(震災の時のことや今お困りのことをお伺いしていると)訪問の趣旨を説明したところ,「大東亜戦争のことは聞かんのか?」と。小学生で終戦むかえ,疎開の経験はない。1945(昭和20)年3月の神戸空襲で,そごうのあたりを残して全部なくなったことや,「人間の丸焼け」を見た記憶が今なお鮮明に残っている。それを思えば阪神淡路大震災など,たいしたことはない。他の災害・災難をあわせても及ばない。<玄関前でお話し伺い>

・70〜80代女性,4〜5人。「みんな震災でここに来た。」「みんなお金に困っとるわ…。」「わりと話したりはする。」「暑い中たいへんやね。兄ちゃんもやっていく?」<住宅中庭で行われていたカラオケ大会の会場にて>

・70代男性。「何のボランティア?」(予告ビラ等を見せて訪問活動の趣旨説明)「お金に困っとる。」<住宅中庭で行われていたカラオケ大会の会場にて>

・60代?女性。「何の用ですか?」(訪問の趣旨説明)「私,よろしいですわ。ご苦労様。」<インターホン越しに応答>

・70代男性。(訪問の趣旨を説明したところ)「そんなんええわ。」<訪問時留守,近隣でお話し伺い中に出会う>

・70代女性。「今ちょっとあれしとるから…。大丈夫,ご苦労様です。」<玄関ドアを開けたまま室内から応答>

・40代女性。(震災のことは)「思い出したくない。」(お困りのことは)「ないです。」インターホン越しに応答>

・60代?女性。「しんどいので,ちょっと寝かしといてもらえます?」<ドアを開けて応答>

・60〜70代女性。「今,ちょっとお客さんで忙しいんです…。」<インターホン越しに応答>

・50〜60代男性。「別に今のところ(困ったことは)ないです。」<インターホン越しに応答>

・少女。留守番。「今ちょっと家の人がいないので…。」<インターホン越しに応答>

・30〜40代男性。「大丈夫です。」<インターホン越しに応答>

・60〜70代女性。「いいです。うちは。」<ドアを開けて応答>

・70代女性。「よろしいです。」<インターホン越しに応答>

50代女性。「いいです。」<ドアを開けて応答>

2013-11-22 ↑TOP


第16(新生141)回訪問活動 (2013/07/28) レポート 〈都賀川豪雨水害から5年〉

廊下:筒井住宅3号棟毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。

神戸・週末ボランティア 新生では,昨27日に続いて本日も「今、改めて「都市型災害」を神戸に聞こう!」とのテーマのもと,復興住宅訪問活動を行いました。

案内でも触れましたが,近代・現代に限っても神戸は,阪神大水害(1938年7月3〜5日)のほか,戦後の高度成長期においても2度の大きな水害(1961年6月24〜27日、1967年7月9日)に遭っており,今なお少なからざる人々のの記憶に刻み込まれています。

7月28日は,都賀川豪雨水害から5年になります。今年も悲劇を忘れないようにと,慰霊行事が行われました。ここで改めて犠牲者の冥福をお祈りし,悲劇を忘れず教訓を活かすべく尽力されている方々に敬意を表したいと思います。

「ゲリラ豪雨」という言葉を広めることになったこの悲劇も,いまだ生々しく記憶されるところで,また,犠牲者の遺族や親しい人にとってはこの先も決して忘れることができないものでありますが,この日「お話し伺い」をさせていただいたところからは,とくに話題に上るものではありませんでした。

これまで大小さまざまな災害を経験された方からすれば,これは「大事」ではなく「小事」とされているのかとの印象を受けました。長い歴史の中ではやがてそうした評価が定着してゆくことでしょう。

犠牲者の周りの人や,被災当事者にとっては忘れ得ないものであっても,同じ,もしくは近い,地域に暮らしながらも,当事者・周辺者ではない市民との「温度差」があるものと感じました。

忘れないことが大切なのは,教訓を引き出すためで,防災・対策のあり方が,教訓を引き出すことと,感情論におもねて,利権や治安のために,利用することとは,全く別なものであって,そうした点からも,言説の取扱いは,現状に鑑みて,理性に基づいた,最大限の注意が必要です。

以前にも一度触れましたが,その方法・態度のあるべき姿はまさに“ cool head but warm heart ”です。

今回も,予定の時間ではおさまりきれないほど,充実した「お話し伺い」を実現できましたに感謝いたします。あわせて,お待たせし,遅くにお伺いした方に,お詫び申し上げます。


この日伺ったところの概略です。

・70代男性。夫婦2人暮らし。長田区で全焼。1階で寝ていたが,2階の屋根に穴が開いて雲が見えたので,脱出できた。家財も全部焼け,パジャマ1枚で2人で逃げ回った。ケガひとつなかったのが幸いと思わないと…。いったん避難した後,戻ってみたところ,近隣では,倒壊した家の下敷きになった奥さんを,近所の人が5〜6人集まって助け出そうとしたが,火の回りが早く,迫ってきたので,救出できないまま逃げなければならなかったことが心残り。近くの小学校に避難したが,同じ長田区でも被害を免れた娘宅へ。身を寄せることが出来た。水が出るところまで下りていくのが大変だったが,学生?のボランティアが,水汲みを手伝ってくれたので助かった。仮設住宅は六甲アイランドだったので,不便だった。この復興住宅へ入居して15年。格差社会の中,どないして生きていったらいいものか。年金は減らされ,老人は早よ死ねといわれているみたい。震災後すぐ病気になった。何とか人に迷惑かけないように生きている。シンプルにしている。住宅に隣接している工場からの音がうるさい。騒音が真っ正面から入ってくる。工場のエアコンが部屋のすぐ側にあり,早くからつけられている上,土日も工事の音がする。我慢するしかない。他の復興住宅ならそのようなことはなかっただろうが,文句言っても…。数年前,住宅隣接地から異臭が発生したとき,何か言われたらそうかなと言うぐらいで,そんなに臭わなかった。その後のマンション建設工事の騒音がうるさく,体調も悪かったので,そちらの方がこたえた。4月13日の淡路島を震源とした地震の時は「よう揺れた」というくらい。被害やケガなどはなかったは,3ヶ月半過ぎた今も,壊れた家がそのままになっているのが痛ましい。半壊判定などでは,修理に補助が少なくて大変だろう。心配なのは地震で,それを思えば雨・風・水害などは心配ないが,津波は…。戦争中は田舎に疎開していたので,神戸空襲は経験していないが,遠くから見た姫路の空襲が花火のようだった。戦後,焼け野原の神戸に帰ってきて,えらいことになってると思った。ここにいたらどう逃げていいものかと。歩くのが好きで,よく山に行った。六甲山も5〜6回縦断した。今も1時間〜1時間半ほど歩くようにしているが,今日は身体を休めている。自転車も毎朝の散歩に利用。長く長田で生活していたので,便利で静かなところをよく知っている。<室内に上げていただいてお話し伺い>

・80代女性。長田区で全壊。2階で夫と寝ていて,床が抜けたが,下にいた息子は押しつぶされずに助かった。近くの小学校に避難,小学校なので,ラジオ体操もしていた。2階の,最も広い,図書室にみんないた。支援物資は行き渡り,寝るところも確保できた。弁当の支給のほか,炊き出しもあった。慰問に来ていた俳優が,当時小さかったが,後にNHKの朝ドラに出ていたのを覚えている。兵庫区まで風呂をもらいに行ったことも。加古川市の仮設住宅に2〜3年過ごした。この頃は,体操や踊りなどをしていた。ラジオ体操をしている人もいた。この復興住宅に入居して16年。同じ仮設住宅からこの復興住宅や,近くの他の復興住宅に来た人が何人かいるが,そうした仲間内で亡くなった人も。被災時病気だった夫は亡くなり,娘も嫁いだため,今は一人暮らし。数年前に隣接地から異臭が発生したとき,大丈夫だった。4月の淡路島を震源とする地震の時も大丈夫だった。腰を悪くし,神経を痛め,長田にいた頃からのかかりつけの所に長年通院している。長年体操などをしてきたが,あまりよくならなかった。外出時は杖ではなく,押し車を使用。住宅から国道を渡ったスーパーに,安くて広いから,よく幾。眼も悪い。歯医者は,交通費がたいへんだが,仮設住宅にいた頃からのかかりつけの所に通っている。小さい頃に遭遇した阪神大水害では家を流された。神戸空襲では,近くに焼夷弾が落ちて焼けた。<玄関前で押し車に座りながらお話し伺い>

・80代女性。中央区で半壊。近くの学校に1〜2日避難したところ,みんなよくしてくれた。被災時に住んでいた市営住宅に,修繕してもらって住み続けたが,老朽化による建て替えのため,すぐに当たったところに移転したら,民間からの借り上げ復興住宅だったので,再度の移転を余儀なくされ,この復興住宅へ入居して2年近く。ここは地元だが,ちょっと寂しい。引っ越し代の補助はあったが,もらえたのは何ヶ月か経ってから。足が痛くならない程度に歩き回る。杖はもっているが,使わないようにしている。戦争の時は,大阪の工場に勤労動員された。淡路島を震源とする地震があったときは,何も気付かず寝ていた。ものも落ちてこなかった。息子がちょくちょく来てくれ,何かあったらすぐ電話できるので,何も困ったことはない。

・80代男性。中央区で全壊。地震の時は三田へ仕事に行っていたので無事だった。被災後3年ぐらいで,この復興住宅に入居。いつもこの時間帯は昼寝している。今日は風があるので涼しいが,普段はもっと暑い。急にインターホンが鳴ったので出ようとしたら足がもつれて…。しんどいので寝るわ。<ドアポストに残っていた予告ビラを示しながら訪問の趣旨を説明。時間をかけて玄関までおいで下さってのお話し伺いだったが,早めに切り上げ>

・70代女性。夫婦2人暮らし。中央区で全壊。近くの学校に避難した後,中央区内の仮設住宅へ。仮設住宅では,周囲の人が出ていったあと,後片付けをして,最後に出た。この復興住宅へ入居して14〜15年。「何でもみなお困りさ」。買い物は自分で行く。被災後の生活環境の厳しさや疲労,ストレスから,体調が悪くなり,とくに目が悪くなった。大阪の病院まで通っているが,この近くでも,電車の乗り降りが怖い。数年前,隣接地で異臭が発生したとき,ちょっと頭が痛くなったが大丈夫だった。

・80代女性。中央区で被災。神戸で生まれ,長くこの近くで暮らしてきた。戦時中は疎開してちょっと遠いところにいたことも。不便なことや困ったことは別にない。「夫が呼んでくれるまで(1人で頑張って生きていく)。」

・70〜80代女性。「現在はデイサービスを受けていて,ヘルパーにも来てもらっています。」<インターホン越しに,玄関ドアを開け,アルミ製よろい戸の向こうから応答>

・30〜40代女性。「今のところ困ってないので(ボランティアは)必要ないです。」<インターホン越しに,玄関ドアを開け,アルミ製よろい戸の向こうから応答>

・60〜70代女性。「(ボランティアは)必要ないですけど…。」<インターホン越しに,玄関ドアを開け,アルミ製よろい戸の向こうから応答>

・70代男性。「今忙しいので…。とくに困っていることや,話したいことはない。」<インターホン越しに応答>

・70〜70代女性。「今のところ大丈夫です。」<一部開放されたドア奥から応答>

・70代男性。「妻の状態がよくないので…。」<玄関ドアを開けて応答>

・70代男性。「具合悪い。今救急車を呼ぼうかと思ったところ…。」

・70代女性。「せっかくですけど,うちの方はいいです。」

・70〜80代女性。「結構です。」<ドアを開けて応答>

・60代女性。「結構ですわ。」

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第15(新生140)回訪問活動 (2013/07/27) レポート〈猛暑の中で〉

隣接する工場敷地から筒井住宅を臨む毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。たいへん遅くなりましたが,7月27日の復興住宅訪問活動のレポートです。
 
1月,「1.17」前後に,三宮・東遊園地の一角に灯されている「希望の灯り」を伴って始め,3〜4月には,東日本大震災以降,この時期に移されることが多くなった行事の合間をぬう形でスケジュールを設定したものに,追加に次ぐ追加をして,パワープレイ〜ヘビーローテーションで行ってきた,復興住宅訪問活動は,この間お訪ねしてきた神戸市営筒井住宅の全戸訪問達成を目指して,3ヶ月ぶりに,猛暑の中で再開し,ラストスパートとしました。

今年からの,神戸・週末ボランティア 新生の訪問活動では,旧グループにおいて行ってきたように,棟・部屋番号の順番通りに回るというのではなく,問題意識を元に,必要やニーズが高いと思われるところから伺うことにしました。

これは,問題意識をもって臨むことで,ミッションを明確にするとともに,一期一会の出会いを大切にするためでした。

そうしたなかで,4月に入ったところから,全戸訪問を目指すことに方針を転換し,今季には,そうして残していた約110戸をお訪ねすることにしました。

その問題意識も,季節も変われば,それにふさわしいあり方が求められ ,ただ同じように続けていれば,漫然たるものになってしまいます。

4月13日の支援活動通算600回達成,4月14日の旧グループ1年分相当の訪問件数達成など,春季までの地平に踏まえ,またふり返り,教訓をフィードバックさせるために,必要な時間たるにふさわしいものにすることを,この3ヶ月あまり,自らに課し,然る後に臨むことにしました。

夏季,神戸の地にある被災者をお訪ねし,「お話し伺い」をさせていただくにあたって,そうした方々が,これまでに遭遇した,大小さまざまの災難を,時間軸とあわせて,「都市」という空間的規定の中で理解すべく,「都市型災害」という観点をもってすることにしました。

そこで「今、改めて「都市型災害」を神戸に聞こう!」というテーマを設定しました。

実際には「お話し伺い」をさせていただくだけで,他に何もできないことに,無力さや,申し訳なさを覚えることも,少なからずあり,また,もう少し,時間・人数・資金その他のリソースの余裕があればと,思うこともありましたが,本来のミッションに忠実に取り組む以外にないと,考えて臨みました。

むしろ,愚直に「宗教や政党など全く関係のない民間のボランティア」との原則を堅持することが,この間の活動が受け入れられてきた,唯一最大の理由であったことを,顧みなければならないでしょう。

そこで,これまで予告ビラやウェブサイトにも掲出していた文言の一部を修正し,「寄付や署名の要請、投票依頼、販売行為などは一切行いませんので、ご安心下さい」としました。これは,訪問活動の1週間目が投票日に当たっていた,参議院議員選挙,兵庫県知事選挙に関して,誤解・利用を招かないためでもありました。

弊サイトThis is 神戸・週末ボランティアをはじめ,MixiコミュニティMixiページFacebookページtwitter - welove_kobeを通じて,交流させていただいております皆様方とのご縁に感謝いたします。


この日伺ったところの概略です。

・70代女性。灘区で全壊。借地だったので,その場での再建を断念。近くの娘宅が無事だったので1年ほど身を寄せた後民間住宅へ。15年間住み続けたが家賃が高かった。2年前にこの復興住宅へ。40年以上働き続けてきた。60歳を過ぎても清掃の仕事を続け,65歳を過ぎても1日2時間の仕事をしてきた。白内障のため,最近はほとんど目が見えなくなってきた。薬のせいか,めまいなどがつらい。神戸市内に住んでいる子どもが,何かあったらすぐに来てくれる。子どもや若い人のためにもつましくしないと…。<買い物から帰ってきたところに,玄関先でお話し伺い>

・70代女性。中央区で全壊。避難所では,支援物資の服などは行き渡っていた。ラーメンなど早くくれた。ポートアイランドの仮設住宅で2〜3年暮らした後入居したのが,旧公団からの借り上げ復興住宅であったため,,神戸市から早く出て行くように言われ,どうせ移るなら,かつて住み慣れたところの方がいいと,2年前にこの復興住宅へ。ここの生活にはもう慣れた。
「あまり 特に なし。なかなか住宅が当たらなかった。」<自身でシート記入>

・40〜50代女性。中央区で被災。被災時に住んでいた家は借地にあったため解体することになり,民間の賃貸住宅へ。この復興住宅へは竣工後間もなく入居。運良く入れた。ここでの生活にはもう慣れた。4人家族で,成人した子どもも同居。子どもたちはここで育ったが,震災の時の記憶はなさそう。数年前,隣接地で異臭が発生したとき,臭いはかなりしたが,(健康被害などはなく)大丈夫だった。訪問時はかなり暑い日だったが,風がよく通るとのこと。

・70代女性。中央区で被災。地方に移って4〜5年素gしたあと,旧公団住宅に。家賃が高くて大変だった。この復興住宅に入居して4ンrん。ここはええとこや。<ドアが開いていたので声をかけたが,「身体えらいので…」とのことで,お話し伺いは短時間で切り上げ>

・70〜80代女性。灘区で半壊。古い家で,建て替えになったので戻れなくなった。避難所には10月までいた。仮設住宅には行かず,この復興住宅に入居して12〜13年。膝が悪くて立っているのが大変。<玄関先でお話し伺い>

・70代?男性。兵庫区で被災。リウマチのため,あちこち関節が痛い。身体中悪いところだらけで,病院通いばっかり。<中から姿が見えたので声をかけたら,しばらくしておいで下さった>

・90代女性。「私もう9*やもん…。腸が悪いけど,それ以外は元気」。冷たいものとか食べられないものがあって不便している。

・「私わどなたともお会ひしませんのでよろしく。ボランティアわいりません。H25.7.27日」<自身でシート記入>

・70代?男性。「アンケートですか? ちょっとしんどい8ので…。」<インターホン越しに応答>

・50〜60代男性。「ちょっとしんどいねん…。」<インターホン越しに応答>

・60代?女性。「私,忙しくて暇ない。」<ドアのアルミ製鎧戸越しに応答>

・70代?男性。「結構です。」<インターホン越しに応答>

2013-11-20 ↑TOP


第14(新生139)回訪問活動 (2013/04/14) レポート〈仮設・復興住宅訪問通算581回〉

1365914851796-s.jpg毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。今2013年1月に始めた,不定期でささやかな活動となった神戸・週末ボランティア 新生ですが,既にご報告しましたように,前回,4月13日の復興住宅訪問活動は,週末ボランティア(旧)が取り組みを始めて以来,通算600回目の支援活動となりました。これまで協力していただいた,すべての皆さんに感謝いたします。

3月に続いて4月前半も集中的に取り組むこととし,2週目の週末にも土曜日・日曜日と続けて行うことにしました。4月に入ってからも,忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸に聞こう!のテーマのもと,3月にパワープレイ〜ヘビーローテーションを敢行した地平に踏まえ,訪問活動を続けることとしました。

前日同様,陽気・好天が続いた中での訪問活動ですが,前日早朝の地震のお見舞いの姿勢を忘れず寄り添うことを,心がけました。

すっかり馴染んだ感もある,日曜日の訪問活動ですが,やはり,土曜日と日曜日とでは,伺える状況に違いがあることも,踏まえなければならないでしょう。そして,それぞれにあわせたお話し伺いのあり方が,求められることも然りです。

今回は,この間掲げてきたテーマならではのお話しをたくさん伺うことができました。その中でも,震災時,救援や支援に活躍しながらも,その後身体をこわしたり,高齢になったりした方々,ただ「自助努力」を要求されてきた世代の方々から伺ったお話しは,とりわけ重みのあるものでした。こうした,長期化する中で,生じ深化する問題の何たるかを,何より語っているものにほかなりません。

この日も,お部屋に上がらせていただいての,長時間にわたる,充実したお話し伺いを,たくさんさせていただきました。また,自身でシートに記入された方も目立ちました。休日を利用して介護に来られたご家族の方のフォローのもとで伺ったり,寝たきりに近い状態での布団の側で伺ったりといった状況にも,多く接することとなりました。いずれもお話し伺いが,一定の負担になったり,その方法の限界を示唆するものと,言わねばならないでしょう。ともあれ,まだ今だからこそ,辛うじてできたという面がある以上,その機会の貴重さを,改めて感じるものでした。

こうした状況に,真っ正面から向き合い,それを伝えてゆくことが,この訪問活動の重要なミッションと言わねばならないでしょう。

そして,震災を経験した人も,そうでない人も,今の神戸が,こうした犠牲の上に築かれていることを銘じ,忘れないでいただきたいものです。

前日同様この日も,予定より2時間を超えての終了となり,遅くにお訪ねした方には,失礼・無礼をお詫びしなければなりません。

1月に始めた,神戸・週末ボランティア 新生の復興住宅訪問活動は,今回までに460戸余を訪問させていただきました。これは,昨年1年間の旧グループの訪問戸数に匹敵するものであるのみならず,内実においては,むしろしのぐものであるといえるでしょう。これも,参加・協力して下さったみなさん,訪問を受け入れ,お話し伺いに応じて下さったみなさん人一人のおかげと,改めて感謝する次第です。

集中的な活動は今回までとしますが,夏季までに,この神戸市営筒井住宅の未訪問のお宅に,順次お伺いする予定です。これからも,引き続きよろしくお願いいたします。


この日伺ったところの概略です。

・70代男性。中央区で半壊。民間マンションで特優賃を利用して住んでいたが,安かった家賃も年々上がり,蓄えも減っていった上に,病気になってからは階段を上がれなくなってしまった。市営住宅を早くから申し込んでいたが,8年目,16回目の申込みで,やっと昨年この復興住宅へ入居。もう慣れてきた。震災時は,消防団員だったので,早朝から消火活動にあたったのに始まり,避難所の設営・運営や物資の配給など,何日も不眠不休で,救援・支援活動にあたった。困った人や出来事にあって,人間の本性が現れていると感じたことも。消防車で火災現場に向かう一方,水を求めて長くホースを伸ばしていたら,その上を車が通って,ホースが破裂して使用不能になったり,ひとつ消してまた次へと,放水消火を繰り返して廻っているうちに,消防車がガス欠になってしまったことも。いったん消したり,火が出ていなかったところでも,電気の火花で発火したところもあるなど,鎮火させたのは,翌日未明の2時か3時頃だった。何も食べないまま丸1日以上出動したままで,詰所で少し休んだ後,2日目は食糧や水の配給に。310世帯分確保しなければならず大変だった。それなのに何人分ももらっていこうとする人や,飲料水をトイレを流すのにもらっていこうとする人がいた。妻が救急車で大学病院に行ったら,東京からボランティアに来た女子学生が,血も出ていないのに大げさに,転んで頭打ったと言って診てもらっていた。被災して負傷して待っている人がいるのに…。ずっと救助や支援に携わっていたらフラフラしてくるようになったので医師に診てもらったら,ずっと高血圧が続いていると言われたので,帰って休んだが,それ以来治らないままとなった。9年前に脳梗塞に。開業医にもらった薬では血圧が下がらなったため,息子に総合病院に連れて行ってもらったら,待っている間に倒れ,半身不随に。転院したが長期のリハビリは出来ず,帰宅してデイサービスを利用するようになった。外出には電動車イスを使用。フル充電に5時間かかる。ひっくり返りそうで,道路の傾斜が怖い。路肩駐車の車を避けるのに困る。ヘルパーに家事を頼むにしても時間が限られているので「いっぱいいっぱい」。食事の準備をなるべく簡単にしたり,ゴミの分別などを自分でするなど,何とか工夫してやっている。一人暮らしをしていると,自立しているとみなされ,必要な介護が受けられない。一方で自分より元気な人が介護を受けているのに…。昨日の地震では,グラグラ揺れて気持ち悪かった。ケガや損害はなかったが,エレベータが止まって困った。管理会社に電話してみたが,ひっきりなしにかかってきて対応が追いつかなかったのか,閉じこめられた人がいるところを優先したのか,昼までかかった。
「(今お困りのこと,心配なことは?)墓参り,塵出し,衣服のほころび,手足の爪切り・逆剥け。同窓会の電車。行き帰りの乗り入れや乗り換えなど,出来たら行ける。参加したい! 病院の遠いところや,病院内の広いところで歩くのが無理。何せ年金生活なので,国民年金から介護保険,後期高齢者の健康保険を引かれるので,(介護サービスを利用するのに)なかなか自費負担では無理です。介護タクシー30分で3500円。これを過ぎると又3500円アップ。エレベーターが動かないときの介護。」<お部屋に上げて戴いてお話し伺い。自身でシート記入>

・80代女性。中央区で全壊。古い家なので倒壊してしまい,下敷きになって,気が付いたら警察のベッドに寝かされていた。西区の仮設住宅へ。お話し伺いのボランティアが廻ってきたような記憶はない。阪神大震災関係の本にコメントしたいるのがあり,もらってそのまま大事においている。この復興住宅に入居して10年くらい。ここに当たってから,ありがたい事に,困った事はほとんど何もない。数年前に隣接地から異臭が発生した時は,長期入院していたので判らない。昨日早朝の地震の時は,犬の散歩に外出していて,犬が地震でビックリしていた。エレベーターが止まって,車イスではあがれず,家に戻るのに11時までかかった。足が冷えたりしたが,それは大丈夫。だが,めったに引かない風邪を引いてしまった。
「昨日の事,犬の散歩をしに逝った時,住宅内ですが,地震が起きてエレベーターが止まってしまって…家まで帰れなくて(車イスで移動している)ので,近所の人々がいろいろ手だすけして下さって,本当に助かりました。この住宅の人は親切な人が多くて本当にありがたい事が多い所で,本当に助かりますよ。この日も…我が家まで階段を上って行くしかないと思い,足が悪い私ですが,ボツボツ上ろうとした時も…後から助けて下さって,本当に助かりました。私は,足が悪くて車イスで移動していますので,不べんな事もお多いですが,よくこの住宅内では助けられます。」<予定時間より大幅に遅れて訪問。お部屋に上げて戴いてお話し伺い。自身でシート記入>

・40代男性。中央区で半壊。ケガなどはなかった。被災後は家の前に寝泊まりしていた。近くの市営住宅の支援物資をもらいに行ったりした。2〜3日すると高熱が出たが,医者に診てもらえず,医療ボランティアから風邪薬をもらっただけだった。それでも他の人よりマシ。ガスが出ない間は練炭を家の前で燃やしていた。6時間ぐらいはもった。5日ほどで仕事行くようになり,そこでも入浴できたが,北区の職場に行くのが大変だった。水には困った。配管が壊れ,1〜2週間,水道が使えなかったので,井戸水をわかして飲んだり,入浴に使ったりした。水道が使えるようになってからは,石油ボイラーを使って,入浴できるように。一度にたくさんは入れなかったが,一般の人にも入浴してもらった。この復興住宅に入居して2年だが,元もとこの地域に長く住んでいる。近所づきあいはあいさつ程度だが,同じフロアの人は知っている。被災時に住んでいた家はまだ残っている。昨日の地震は怖かった。揺れが長く,気持ち悪い感じだった。阪神淡路大震災を思い出した。気付いて起きたのは両親だけで,子どもは寝ていた。震災の時は,交代制の仕事に入る直前だったので起きていたが,眼鏡を近くにおいていたが,落ちてきたものが散らかってきたものに埋もれた中で探すのに手間取ったのを教訓にして,すぐ手が届くところにおくようにしており,それが今回活かされた。

・80代女性。中央区で全壊。水屋(食器棚)が倒れてきて足から出血,近くの病院へ。2階建ての1階がつぶれて落ちた状態になったので,窓から出入りした。避難所には入れず,近くの公園でテント生活をした。近くの会社で入浴させてもらった。被災当時60代で,避難所や仮設住宅の入居で優先されなかったが,色々してもらえた。西区の息子さん宅へ連れて帰ってもらった。ポートアイランドの仮設住宅d1年以上過ごした。ネズミが糞をするなど汚かった上,すきま風も大変だった。どうにかしてそこから仕事に行っていた。この復興住宅に入居して15年。なかなか当たらず,市会議員に言ったりもした。ここでの生活には慣れた。足が痛いので,家では寝ていることが多いが,寝たきりではない。週3回デイサービスでちゃんと入浴できて,足をちゃんとしてくれる。昨日の地震のときは「ごっつう揺れた」。ベッドにいたが大丈夫だった。近くに住む長女が電話をくれた。孫もよく泊まりに来る。週末は息子が泊まりに来てくれ,ごはんも作ってくれる。誰かが来てくれるからありがたい。心配なことはない。<息子さんが来てくれている中,ベッドの側でお話し伺い>

・70代女性。灘区で被災。住んでいたマンションが道沿いで大変だった中,管理人夫婦の夫が亡くなった。夫は仕事に出ていたので,自分一人で避難所へ行ったが,寝られなかったので家に帰ってきた。身内宅に身を寄せた後,東灘区の仮設住宅で3年過ごした。この復興住宅に入居して14〜15年。ここは眺めも良く,買い物にも便利。最近は病気であまりで歩かず,人にも会わない足が痛く,長時間立っているのがつらいが,少し運動するにはいい。夫も身体をこわしているが,お互い助け合っている。娘も世話してくれる。数年前に隣接地で異臭が発生したとき,異状はなかったが,その後マンションが建ってから風が強くなり,ベランダや廊下にプランラーを置けないほどに。昨日の地震は,ケガや被害はなく大丈夫だった。<御主人が丹精しているプランターが置かれている玄関前でお話し伺い>

・80代男性。中央区で被災。それまで住んでいた市営住宅の建て替えで,この復興住宅に入居して5年。震災の頃は,スーパーの警備の仕事をしていた。よく働いて金もあった。震災後は,オーナーの一言で,遠方からバスで従業員を集めたりして,24時間体制で臨み,若い店長も,地元のためにと必死でやっていた。トラックに満載した品物もすぐに売り切れた。震災の時の記憶といえば,トイレの水に困って,生田川まで汲みに行ったこと。妻が震災後しばらくして病気がちになり,歩けなくなりものも言えなくなる中,介護を続けて,2年前に最期を看取り,今は一人暮らし。足は達者で身体は丈夫だが,耳が遠い。血圧も高く,薬を飲まないと手が震える。昨日の地震では,別にどうということはなかった。ベッドの上で起きていて,すぐにNHKのニュースを見た。

・70代女性。長田区で全焼。被災後は,近くの学校の避難所ではなく,知人の会社へ避難。西区の仮設住宅で3年過ごした後,大阪でさらに避難生活を続けた。仮設住宅では,訪問ボランティアが来て,助けてくれたことも。壁の隙間から人が通るのが見えるようになって,とくに2年間ほどは大変だった。この復興住宅に入居して15年。自分たちは被災したとき,おとなしい人ばかりだった…。仮設住宅や復興住宅が建つのがもっと遅くなるだろうから,東日本大震災を思ったらまだよかった。阪神淡路大震災の頃はまだ若かったが,今はもう…。この頃は出かける元気がない。数年前隣接地で異臭が発生したとき,臭いは気にならず,異状もなかった。2年前同じ住宅で火災が発生したとき,気付かなかった。前日の地震ではとくに損害なし。

・60代女性。長田区で全壊。周りは焼けた。一度は出ることになった壊れた家に,解体するまで住んでいてもいいと言われて戻った。不便なところしか当たらないので,仮設住宅には行かず,住宅を探してあちこち廻った。3回目の抽選で当たり,この復興住宅に入居して15年。被災当時7人家族で暮らしていた。震災時4人の娘は皆中高生。学校が長く機能停止になったため,一時自宅待機になり,先生が尋ねてきてくれた。交通が不便で,通学が大変だったときも。イジメなどなく,健やかにすくすく育ってくれた。今は独立しているが皆近くにいる。数年前隣接地で異臭が発生したとき,家の中はほとんど臭わなかった。外は少し臭ったが…。皆異状なかった。昨日の地震では,下の階でも揺れたので,上の階はもっと大変だったろう。

・80代女性。中央区で被災。ポートアイランドの仮設住宅を経て,この復興住宅へは最初の頃に入居。当初は周囲に誰もおらず,入ってきてからもしばらくは淋しかった。デイサービスの人が色々してくれる。この復興住宅では,皆親切で良くしてくれている。中には,ありがたみを忘れている人がいるのが気がかり。膝が悪く,風呂に行って治す。さすっていて気持ちいい。もともと体操が好きで,よくしていた。医師にはボチボチ歩くように言われている。脚以外に悪いところはない。歩けなくなったときのことが心配。<予定時間より大幅に遅れて訪問。ドアを開けて応答>

・80代男性。中央区で被災。近くの小学校に避難,寝るところや物資はあった。住んでいた市営住宅の建て替えのため,この復興住宅へ入居して5〜6年。2年近く前まで仕事をしていた。1年ほど前から腰や足を痛め,足が前に出なくなり,今は全然歩けなくなってしまった。それまでは自分で歩けたのに…。加齢による自然なものだという。寒くなくても布団に入っている。病院から薬をもらい,ヘルパーに来てもらっている。昨日の地震は大丈夫だった。心配ごとは特にない。ここにはまあまあ,十分満足。<お部屋に上げて戴いてお話し伺い>

・60〜70代女性。中央区で全壊。近くの学校に避難,北区の仮設住宅では,冬は寒かったが,夏は涼しかった。この復興住宅へ入居して15年。娘や孫が近くにいるので助かっている。昨日の地震は怖かった。ここへ来て初めての地震なので。数年前隣接地で異臭が発生した時は,仕事に行っていて在宅時間が短かったため,身体に異状はなかった。<予定時間より大幅に遅れて訪問。玄関前でお話し伺い>

・60代女性。兵庫区で全壊。この復興住宅に入居して15年。被災当時はまだ若く,優先されなかったため,仮設住宅は遠いところしかなく,大学生と中学生だった子どもたちの学校や,交通費などが心配だったので,夫の勤め先があった尼崎に。玄関先でお話しを伺っていたところ,御主人が後から出てこられ,ボランティアの活動趣旨などを聞かれた。

・60代女性。中央区で全壊。家族とも誰もケガはなかった。近くの小学校に避難,仮設住宅で3年ほど過ごし,近くの公団住宅に何年か入ったが,数年前にこの復興住宅に。隣接地で異臭が発生したときのことは,あまり覚えがなく,判らなかった。ここは臭わなかった。昨日の地震ではとくに何もなかった。このままここに居れるのか心配。

・60代男性。中央区で全壊。この復興住宅に入居して15年。「何事につけても「さわぎすぎ」。早く忘れてしまいたい事ばかり。天災は人間ではどうしようもない事。人災ですら何も出来ないのに!! 異臭の件は別に気にかける事もなかったですよ。」<自身でシート記入>

・80代女性。中央区で被災。この復興住宅に入居して7年。「今はデイサービスで毎日楽しい生活してます。見守り推進員,ヘルパー2人も来てくれて幸せです。隣の方とも,こまった時は電話します。皆様のおかげで有難う。」<自身でシート記入>

・20〜30代女性。(心配なことやお困りごとはと尋ねたら)「あ〜,ないです。」<予定時間より大幅に遅れて訪問。ドアを開けて応答>

・70代?女性。昨日の地震では,電気が止まったり電灯の笠が落ちたりしたが,直したので大丈夫。<ドアを開けて応答>

・60〜70代女性。「すみません。断ります。」<予定時間より大幅に遅れて訪問。インターホン越しに応答>

・80代?女性。「具合悪くして寝てます。またの機会に。」<ドアを開けて応答>

・30〜40代女性。「今忙しいので…。」<インターホン越しに応答>

・空室。表札はあり。1月に立入検査の上鍵交換をした旨の張り紙。

2013-06-07 : ↑TOP


第13(新生138)回訪問活動 (2013/04/13) レポート 〈支援活動通算600回〉

DSC_0957s.jpg毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。不定期でささやかな活動となった神戸・週末ボランティア 新生ですが,3月に続いて4月前半も集中的に取り組むこととし,2週目の週末にも土曜日・日曜日と続けて行うことにしました。

4月に入ってからも,忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸に聞こう!のテーマのもと,3月にパワープレイ〜ヘビーローテーションを敢行した地平に踏まえ,訪問活動を続けることとしました。

この日の早朝,淡路島北西部を震源とする,最大震度6弱の地震が発生,神戸市内や阪神間,大阪でも震度4程度に及ぶもので,昼頃まで,鉄道などの交通機関の乱れが続く中での訪問活動となりました。主宰者ほかの参加者が,定刻に集まれただけ,ありがたいというべきものでした。

この地震のエネルギーは,阪神淡路大震災の何十分の一かのものとされますが,阪神淡路大震災で動いた断層の近くの,未知の断層から生じた,大震災以来の揺れで,しかも,日が長くなって明るくなっていたとはいえ,早朝5時33分という,大震災を想起させるものでした。

これで,18年前の大震災を想起して,心身の不調を訴える方もいらっしゃるだろうと言うことを心に留め,そのお見舞いを心がけて,お話し伺いに臨むことにしました。

2年前の,東日本大震災の翌日にも,神戸・週末ボランティア(旧)では,訪問活動を行い,こんなときに話したくないという住民の方に,無理矢理,もっともらしい言質をとり,己の一方的な思いをぶつけるほか,なにがしかの目的に利用しようとする者がいましたが,それは,「心のケア」とは相反する,粗暴で稚拙なもので,ややもすればPTSDを発症・再発させかねないものでした。

その際の反省を活かし,まずもって,寄り添う姿勢を第一に,それにふさわしい態度で臨むことを心がけました。もちろん,こんなときに話したくない…,といわれれば無理強いしないつもりでいました。そうした態度・姿勢がかえって,率直な言葉を引き出すことになったのでしょう,多くの貴重なお話しを伺う機会へと,転化することが出来,望外の成果に感謝するばかりです。

予告ビラに,

この訪問活動は、去る2005〜6(平成17〜8)年に、「お話し伺い」に廻ったグループ「週末ボランティア」の有志である主宰者が、新たなメンバーで始めたものです。神戸市内各所の仮設住宅や復興住宅を廻ってきた経験を顧みて活かそうと思っています。

とあるように,神戸・週末ボランティア 新生の活動は,昨年までの活動の,良いところを継承・発展させるとともに,誤りや旧弊を断ち切ったもしくは改め克服したところから出発しました。まさにその真価が試されるところでもありました。

今回は,先週の荒天とうって変わっての,初夏を思わせる暖かさと好天の中での中で行いました。前日(12日)に,14日分ともあわせて,予告ビラを入れさせていただきましたが,お留守なのか,投函した予告ビラがドアポストに残されたままになっているのが目立つなど,在宅状況が懸念されるものでした。元気でお出かけされているのなら,それまた結構なことですが…。

ありがたいことには,お部屋に上げていただいての,長時間にわたるお話し伺いが増えたともに,自らシートに記入して下さった方も目立ちました。活動をそれだけ受け入れて下さったことに感謝です。

そうしたところから訪問活動は,予定の午後5時を2時間ほど超えて,ようやっと終了しました。遅くになってからお訪ねさせていただいた方には,ここでお詫びさせていただきます。

訪問活動終了後,春日野道商店街のカフェで,この日のまとめをさせていただきました。お話しを伺いながらとらせていただいたメモや,お書き下さったシートなどを点検・確認しながら,この日の活動の充実ぶりを,改めてふり返ることができました。

そしてもうひとつ。今回の訪問活動は通算600回目の支援活動となりました。

神戸・週末ボランティア(旧)では,阪神淡路大震災後の1995年1月28日,避難所での炊き出しを行ったのを活動の出発点とし,避難所での支援活動を,5月まで20回にわたって行った後,2012年末までに,神戸市内各所の仮設・復興住宅への訪問活動を567回行ってきました。これに続いて今2013年1月からの,神戸・週末ボランティア 新生の13回を加えると,600回となります。

これまでの活動を受け入れ協力していただいた,すべての皆さんに感謝いたします。

前身となったグループのメンバーによる震災直後の支援活動が他にも行われていたという話しも聞いたことがありますから,実際の回数は若干上回るでしょう。一方,この600回のすべてに渡って参加した者もおりません。そして何より,この600回のすべてが,被災者への支援活動としてふさわしい,有意義なものであったかについては,率直に顧みなければならないでしょう。

これを記念する,まして祝うなどというのは,早朝の地震をうけてというだけでなく,そうした経緯を考え合わせれば,慎むべきでしょう。むしろこれを機会に,改めて謙虚さをもってしたいと思います。

それはまた,真の志は謙虚さより出ずるとの信念からでもあります。


この日伺ったところの概略です。

・70代男性。中央区で全焼。この復興住宅に入居して15年。震災後の自殺者や仮設・復興住宅で亡くなった方の多さに心が痛む。この復興住宅でも,同じ階で10人ほど亡くなっている。「大きめの石棺に入りて時を待つ」心境。西区の仮設住宅には300人ほどがいたが,10年後の同窓会には60人ほどしか連絡がつかなかった。東日本大震災の被災地でも,避難して仮設住宅に入って,自殺者が増えるのが心配。阪神淡路大震災は,あらゆるものが絶たれる「絶震」だった。被災時には救助活動に携わった経験も。ビルが木っ端微塵になるさまや,断層の上に建っていたのであろうか,ひどい壊れ方をした建物,救助できずに亡くなった人,損壊して治療ができなくなった病院が遺体置き場になったことなどが,いまだに目に焼き付いている。避難所も無秩序だったが,戦時中の知恵を活かして,まとめていった。ときにはユーモアで和ませた。2000人近い避難者がいたのに,毛布が遅くになってやっと来たら140枚しかなく,「取り合えば足りない,譲れば余る」と,小さな子どもや病人に優先して配るなどした。公衆電話に長い列ができたので,「元気です」など,3分間だけ話して切るように呼び掛けたりした。人と防災未来センターに,被災時に使用したヘルメットなどを寄贈した。生き残った者が語り伝えねば。数年前,隣接地で発生した異臭については色々あった。今更それを言ってもどうなるのかと思うが,離れた棟の部屋でも場所によっては具合が悪くなった人もいたようだ。身体は悪いが,気力で頑張っている。訪問前日,みんなでタケノコ取りに出かけていたが,木が風に揺られるさまから,不吉な予感がしていたら,今朝地震が起こった。防災用品などを準備していた。ガンで闘病10年の末に亡くなった奥さんの安らかな姿の写真を携帯に。献身的な介護・看病の末に看取った。
「人を説いて応えずんば其の熱に反れ。月に二度そっと戸が開く老いの冬。
小さなゴミ袋をそっと捨てにゆく老いの哀しいかな。
支え合え力を合わせ手を合わせ。それぞれの心の珠の輝きが眩しくしみて涙だにじみぬ。
週末ボランティアの皆様,お励まし有難う。被災者一同から心の金メダルをお贈り致します。」
「H.25.5.13. 5:33分又も腰抜ける地震
神さまも手違いはある許すから遺りし人を護り給えよ。
浮世の風に叩かれて余命短き老人の弱れる心慰めよ!」
「今生の最後の別れと成らむかも今労りの言葉交さん。
棟崩る母児の血しぶき交じり散ぶ。H.7.1.17.5時46分52秒
後追うごと幾人逝くや昨日今日。
みなの罪,背負いてゆきし彼の人にどの心もて祈りささげん。
罪も無きあゝ母や児に泣き詫びぬ今生きおれる君も私しも。
我が体だ裂きても与えん汝れこそに其の心もて今日を祈りぬ…。
身代りと成りて我等を守りしかそれほど人の好きを惜しみぬ。
震災のあの大火煙は尚消えず今日も神戸に香煙の立つ!
幾千の御霊安らかに眠らせと涙手向けて語り継ぎおり
地球よ静まれ百禍を除け!
忘れずに思い出しやる供養かな」<お部屋に上げて戴いてお話し伺い。自身でシート記入>

・80代女性。中央区で全壊。被災時は古い文化住宅に家族3人で住んでいて激しく揺れた。2時間半生き埋め状態の後,解体業を営む向の人に救助された。「助けたる!」の声に励まされたが,2時間半は長かった。何の傷もなく助かった人は珍しいと言われた。近くで亡くなった人は多い。近くの学校に避難した後西区の仮設住宅で2年余りを過ごす。西区の復興住宅を経て,この復興住宅に入居して3年近く。西区にいた頃,仮設住宅の生活や,孫の写真をたくさん撮った。胃ガンを患い,首が痛くなるなど,他の症状も出てきたので,他の医師に診てもらったり入院したりしていた中,5年前脳梗塞で倒れた。半身不随になったところから回復したが,記憶障害が残ったとのこと。今朝の地震は怖かった。長く書道師範をしていた。壁には,お孫さんの小学生当時の書道作品。現在は大学3回生で少林寺拳法の師範をしているとのこと。震災当時は幼少で,震災のことを話してもあまり解らない。当時撮った写真はあるが…。淡路島出身で,戦時中に関西へ。電話交換やモールス信号などの通信,為替や保険など,郵電分離前の一通りの仕事が出来るようになった頃に,勤務していた郵便局が空襲で被弾・炎上,局長は死亡。給料などをきちんともらえないまま局を辞めて敗戦をむかえた。戦争も怖かったが震災も怖かった。それでもええ経験してきたと思う。「震災時着の身着のまま,パジャマ・はだし。助けてくれたのは向いの御主人でした。3時間たつと咳・熱で…入院致しました。そこの…先生,女性ですが,良く気のつく方で色々と助けて頂きました。不幸中の幸いです。そしてよくなり…紹介され避難させてもらい,学校も始まると云う事で,行き先を必死に当たりましたが落選ばかり。西区なら入れると云う事で,6月8日…仮設住宅に入れられました。すぐ(自治会の)会長も決まり,私は役員に付けられ必死に動きました。而し皆さんの色んな世話をしていると1日早く楽しく仲間も出来,いよいよ仮設(住宅)を出る事になり,中央区を2年間申込み続けたが,市の方が大勢来て,「入居出来ない所ばかり申込んでは駄目,団体の所へ入れるぞ」と云われ,私は市の方の云う通り西区を申込み,平成9年の終り入居することが出来,そこでも年2回中央区の住宅を申込み,落選ハガキが16枚たまり,ヤット市から,「当選よ,もう貴方明日から…歳よ,おめでとう」と云われたが,年取りすぎて中央区に来てもなかなか相手が出来ません。淋しいです。西区では,書道,物作り,ゲートボールと,何でも来いでして居り,人にひけることはなかったが。」初孫は,西区の保育園で,3歳まで言葉を発せず,母親がほりっぱなしなので悪いと言われた。<予定時間より大幅に遅れて訪問。お部屋に上げて戴いてお話し伺い。自身でシート記入>

・60代女性。灘区で全焼。住んでいる一画だけが焼けた。ホースをつないで消火しようにも水がなく,ただボーッとみているだけだった。近くの小学校に3月まで避難。寝るところがなく,身体が不自由な母と机に座っていた。西区の仮設住宅で3年過ごした。夏は暑く,冬は寒さで水道が出なかったり,配水管が凍ったりしたことも。畳の隙間から草が生えてきたり,蟻や虫が出てきたことも。雨が強いと水たまりがすくできた。近くにはヘビやキツネも。畑を作ったり,タケノコを採りにいったりして,楽しかったことも。買い物は不便で,交通の便も,バスはあっても早くに終わってしまうので不便で,車いすの母を病院に連れて行くのが大変だった。ボランティアが色々な催しをしてくれ,今でも交流がある。この復興住宅に入居して15年。隣が会社・工場なので,出入りの車の騒音や排気ガスで空気が悪いのが辛い。近所づきあいはあまりない。体調は,いつもボーッとしていることが多く,病院通いしている。隣接地で異臭が発生したとき,鼻水や涙が出て,のどもも痛くなった上,入浴中に気分が悪くなったことも。夜,寝付きが悪くなっていたところに追い打ちをかけられたような感じで「わりと大変だった」。今朝の地震は大丈夫だった。

・60代女性。中央区で半壊。タンスが倒れてきたが,コタツの上に乗っかったので,下敷きならずに助かった。道路の向こう側で出火,窓が焦げて火が飛び散ったが,道路が広くて救われた。震災では焼けるのを防げないものだと思った。東日本大震災でも,防波堤などが,津波を防げないばかりか,かえって被害を大きくしているのではと思った。仮設住宅は北区だったが,仕事先が交通費を出してくれるというので,六甲まで下りて,神戸を経由して須磨まで行った。この復興住宅に入居して15年。ボランティアの訪問予告のビラを見た翌朝に地震があったので「あまりにピッタリなので『エー』という感じ。こんなに地震に巡り会うとは…。阪神淡路大震災→東日本大震災→今朝の地震と,また巡ってくるのかしら…。」この復興住宅は,耐震性を考えて建ててくれているはずなのに,けっこう揺れた。今朝の地震のときは,たまたま目を覚ましていたので,即テレビをつけた。数年前に隣接地で異臭が発生したとき,自分は何ともなかったが,近隣では結構臭ったという人や,ずっとマスクをしていた人もいた。

・50代女性,母(90代)と暮らす。中央区で全壊。近くの小学校に避難したが,教室は既に一杯で,体育館に寝泊まりした。電器製品などは買い直した。仮設住宅は,近くを申し込んだが当たらず,垂水区へ。高齢の母を一人にはできず,一緒に移らざるを得なかった。この復興住宅に入居して10年以上。上からゴミを捨てられたりすることがあり,防護策にペットボトルが載っていたりすることがあるのが気になる。セールスの変な電話がよくかかってきて,警察に相談確認してもらったことも。註文していない商品を配達してくる押し売りに遭ったことも。三宮まで行くのに必要な自転車を2回も盗られた。早朝の地震は,ビックリして目を覚ましたが,大丈夫だった。揺れは怖かった。数年前,隣接地から異臭が発生したとき,自分は大丈夫だったが,母は少し具合が悪くなった。昔は長田でケミカルシューズ製造の仕事をしていた。シンナーや薬品を使うので,吸い込んで気分が悪くなったことも。

・80代男性。「ないようをよみました。私共おかげをもって今の所夫婦ともにくらして居ります。ぎょうせいの過分のはいりょをいただいて居ります。そして又わが子と共におい,めい,が,私共のこうれいを心配してつねによくたずねてくれてます。したがって何の心配もなくくらして居ります。淡路大しんさいの当時を思い出す毎に大変体にわるいので思い出さないようにして居ります。ごしんせつなないようの話ですが,ごえんりょさせて戴きます。あしからずごりかいください。」<ドアにメモ貼付>

・60代女性。中央区で被災。近くの小学校に避難したときは,水汲み,便所掃除,配食などのボランティアをしていた。何時間もかけて歩いて仕事に向かった。仮設住宅には行かず。この復興住宅に入居して5〜6年。ここは交通・病院・買い物など何でも便利。夕食の準備をしていたところなので,出ようか出まいか迷った。早朝の地震のときは起きたところだった,念のため外出は控えた。<予定時間より大幅に遅れて訪問>

・40代男性。長田区で被災。近くの学校に避難し,仮設住宅を経て復興住宅に入ったが,URからの借り上げであったため,2月に自分たち夫婦でこの復興住宅に移ってきた。それまで一緒だった母が心配。とくに困っていることはない。近所づきあいは,この並びくらい。ボランティアに望むことは,一人暮らしのお年寄りを考えてあげてほしい。<予定時間より大幅に遅れて訪問>

・少女。今朝の地震では寝ていた。両親から阪神淡路大震災の体験を聴いたことはない。震災について教わったことは,小学生のときは,ビデオを見たり,人と防災センターを見学したりした程度だったが,今はキリスト教系の学校にいるので礼拝があり,上級生には被災者を訪問するボランティアの部活動も。

・60代女性。中央区で全壊。同区内の仮設住宅を経て,この復興住宅に入居して15年。今,孫が来ていて,テレビを見ている。

・60〜70代男性。「時間も時間やし…,もういいです。」<予定時間より大幅に遅れて訪問。インターホン越しに応答>

・50〜60代女性。「今,ちょっと調子悪くて寝ている。今朝の地震は大丈夫だった。」

・60代女性。「今ちょっとバタバタしてますので…。」<インターホン越しに応答>

・40〜50代女性。「今とくに困っていることはない。今朝の地震も大丈夫。」

・70代女性。「今,調子悪いので…。」<インターホン越しに応答>

・70代女性。身体は悪いところはない。今朝の地震は大丈夫。

・「元気です。またおねがいします。」<自身でシート記入>

2013-05-14 : ↑TOP


第12(新生137)回訪問活動 (2013/04/07) レポート〈パワープレイ〜ヘビーローテーション〉

P4075282s.jpg毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。不定期でささやかな活動となった神戸・週末ボランティア 新生ですが,3月に続いて4月前半も集中的に取り組むこととし,1週目の週末にも土曜日・日曜日と続けて行うことにしました。

4月に入ってからも,忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸に聞こう!のテーマのもと,3月にパワープレイ〜ヘビーローテーションを敢行した地平に踏まえ,訪問活動を続けることとしました。

前6日同様,それ以上の荒天の中で行いましたが,昨日来の雨は上がり,途中からは晴れ間も見えるようになったものの強風に見舞われました。台風並みの暴風との予報もありましたが,風雨が,お伺いするお宅の玄関口とは正反対となり,支障はないと判断して行うことにしました。もっとも,強風時には一時休止しましたが。

前月同様,テーマを掲げて行っていますが,それはあくまで,目的意識の明確化や,話題に切り口にするもので,それ以外を排除するものではなく,むしろこうした荒天の中で行うことが相応しいこともあるのです。

この復興住宅の,とりわけ早期に建設された棟では,完成を急いだあまり,施工等に問題があるということは,従来から言われてきました。また,既に竣工後10年の大規模検査や修繕とうもなされたのかもしれませんが,それが十分にして適切であったかもまた疑問があります。そうしたことについては,梅雨時などの悪天候時に伺うとよく解るのですが,ここは敢えて,そうした点についてお話しを伺い,現状を拝見するには,いい機会ととらえました。それもこの日の訪問を行った理由のひとつです。

あるお宅では,玄関先で奥様にお話しを伺っていたところ,この復興住宅での状況に話しが及ぶや,ご主人から,上がって中を見るよう促され,その様子をつぶさに拝見しました。また,留守のお宅でも,その玄関前の状況からs,問題があることが解るところもありました。

前日同様,お話し伺いに応じて下さった方や,時間・内容は,限られましたが,花散らしの雨と風という試練を乗り越えて,忘れない,寄り添う,姿勢を貫き固めた成果はあったでしょう。


この日伺ったところの概略です。

・60代男性,50代女性,夫婦2人暮らし。中央区で全壊。近くの小学校に5〜6日避難,支援物資などはもらえた。近くの別の借家に住み,この復興住宅へは竣工間もなく入居。震災後いち早く建てられたためか,施工に瑕疵があると思われる箇所が。退去時に弁償させられてははたまらないと,早くに出来た壁の大きなひびは市に届け出た。壁のクロスが剥がれたり浮いたりするなど,湿気が多くかび臭くなった部屋も。夫が体調を崩したのもそのためか。「ようこれだけ建ててくれたことは感謝するが…。」震災のときの写真や本,1年分の新聞などを集めて残している。はじめは家ではなく車の中に入れて保存していた。<応対した奥さんに玄関内でお話しを伺っていたところ,ご主人から室内に上がって瑕疵箇所を見るよう促されて拝見。娘さんが孫2人を釣れてやってきたところで,あいさつして切り上げようとしたところ,「ボランティアって何?」と興味深そうに尋ねるが,小1なのでまだ学校では教わっていないようだ>

・20代?女性。震災時は大阪の実家にいて,とくに被害はなかった。この復興住宅に入居して4〜5年になるが,被災者として入居したのではない。住み心地はとくに問題ない。花粉症で大変そうだったので手短に切り上げた。

・中央区で全壊。この復興住宅に入居して15.5年。「(震災後ご苦労されたことは?)赤ん坊だったので,お水や,おむつやミルクなど困りました。(心配なことは?)なし。(ご健康状態は?)普通。」<自身でシート記入>

・50代?女性。「この子居るので…。」<ドアを開けてくださったが,幼児が飛び出しそうになったので,お話し伺いを切り上げ>

・40代?女性。「とくに困ったことはないのでお断りしたいんですけど…。」<インターホン越しに応答>

・70代?女性。「いいです。今,ちょっと取り込んでいるので…。」<ドアを開けて応答>

・40代女性。「今のところ困ったことはないです。」<インターホン越しに応答>

・60代?女性。「骨折してるので出づらい…。」<インターホン越しに応答>

・女性。「今のところ大丈夫です。」<インターホン越しに応答>

・50代?女性。「ええわ。ありがとう。」<ドアを開けて応答>

・50代?男性。「ああ,もうええ。」<ドアを開けて応答>

・50代女性。「結構です。」<インターホン越しに応答>

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第11(新生136)回訪問活動 (2013/04/06) レポート〈花散らしの荒天の中で〉

P4065265s.jpg毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。不定期でささやかな活動となった神戸・週末ボランティア 新生ですが,3月に続いて4月前半も集中的に取り組むこととし,1週目の週末にも土曜日・日曜日と続けて行うことにしました。

4月に入ってからも,忘れない、寄り添う、「息の長い支援」は神戸に聞こう!のテーマのもと,3月にパワープレイ〜ヘビーローテーションを敢行した地平に踏まえ,訪問活動を続けることとしました。

早くに暖かくなり,桜もはや満開を過ぎた今春ですが,今週末の訪問活動は荒天の中で行いました。訪問先を選定し,予告ビラを入れさせていただいたのは,4日(木)の夜でしたが,その時点で,ある程度天気が崩れるとの予報もありましたが,慎重に判断(ただし,神戸市を中心にした兵庫県南部に警報が出れば中止にするつもりではありました)して,予定通りに行うことにしました。

やはり,荒天の中とあっては,安否確認的な,簡単なやりとりに終始するところが多く,ご負担・ご迷惑もあったと思います。そうした中にあってもお話し伺いに応じて下さったことに,改めて感謝したいと思います。

こうした,荒天という悪条件は,天がもたらしたひとつの試練ととらえなければならないでしょう。安全のための中止という判断を下す勇気も,場合によっては要求されます。敢えて行うなら,その意義と理由を,ヨリいっそう明らかにしなければならないでしょう。

そうした中であるか否かにかかわらず,活動の意義や存在理由は,常に問われてきます。

伺ったところから知り学ぶことはもちろん,それを通じて,お話し下さった方に,お役に立たせていただくことが,まず求められますが,東日本大震災以来,「息の長い支援」が言われていますが,そうであるが故に,その内実は,阪神淡路大震災以来,これまでの被災者が,痛切に,身を以て,体験してきたことです。それを今伺うことは,まさに今日的課題です。

それが,これまでの被災者が,長い年月の中で深化させてきた状況を作りかえていくことはもちろん,新たな,これからの被災者のためにもなるのです。そして,新たな,これからの被災者への支援は,これに直接関わる存在だけでなく,今まさに,お話しを伺わせていただく,これまでの被災者もまた,それを通じて担い,なし得る存在ともなっていくべき存在なのです。

ただ,一方的な,勝手な思いをぶつけるだけでは,今,難儀している人の迷惑・負担にしかなりません。それが,役立つ有効な情報とすることで,支援につながってゆくでしょう。そうした中で,さらなる交流が生まれれば,望外の喜びです。


この日伺ったところの概略です。

・80代男性,一人暮らし。中央区で被災。1日だけ近くの学校に避難して支援物資などをもらった。震災時に住んでいた市営住宅に大した被害はなかったが,しばらくは水やガスなどが使えず難儀した。そうした状態がいつまでどれだけ続いたかは,もうよく覚えていないところも。妻を13年前に亡くしたが,震災との関連ではない。その市営住宅が建て替えになったのを機に,この復興住宅へ入居してもうすぐ5年。他の市営住宅に移ることや,建て替えた市営住宅に戻る選択肢もあったが,ここに住んで良かったと思うようになった。40年間鉄鋼関係の仕事をしてきた。80歳を過ぎて体のあちこちが悪くなり体力も落ちて,自転車にも乗らなくなり,通院以外での外出は,よほど用事がない限り,しなくなった。子どもたちは皆神戸市在住か在勤だが,めったに尋ねてこない。ここでは近所づきあいもなく,老人会のようなものも活動していないようだ。いつも退屈で寂しい。最近のテレビはつまらない。

・70代女性。北区で全壊。古い借家だったので,被害に遭ったが,ケガなどはなかった。中央区の施設に避難下が,支援物資などは遅れながらも来た。ポートアイランドの仮設住宅を経て,この復興住宅へは竣工当初から入居。ここでの暮らしにとくに不便は感じていない。

・60代?男性。灘区で全壊。北区の仮設住宅を経てこの復興住宅に入居して14年。<詳しい被災状況をお尋ねしたところ,奥から若い男性が「そこまで言わんでええ」とのことで切り上げ>

・少年。学校では震災について,少しは教わっている。(勤務先の学校が避難所になった)先生が,炊き出しなどをするボランティアが大変だったと言っていたのを覚えている。

・50〜60代女性。(震災についてお尋ねしたところ)「もう別にいいです。今忙しいので…。」<玄関横の部屋の窓越しに応答>

・60〜70代女性。「結構です。せっかくですけど…。」<インターホン越しに応答>

・60代女性。「別に今のところ困ったことはないです。」<ドアを開けて応答>

・少女。「今親がいないのでわからない…。」<インターホン越しに応答>

・60〜70代女性。「関係ありません。」<インターホン越しに応答>

・50〜60代女性。「結構です。」<インターホン越しに応答>

・空室。<空家改修工事中の張り紙あり>

2013-04-08 : ↑TOP


第10(新生135)回訪問活動 (2013/03/31) レポート〈日曜日の訪問活動も定着〉

P3315245s.jpg毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。不定期でささやかな活動となった神戸・週末ボランティア 新生ですが,3月は集中的に取り組むこととし,5週目の週末にも土曜日・日曜日と続けて行うことにしました。

今回で最終日となりましたが,3月のテーマは「3月だから忘れない、3月だから寄り添う 「3.11」から2年「息の長い支援」は神戸に聞こう!」です。

おかげさまで,神戸・週末ボランティア 新生になってから始め,3月に入って重ねてきた,日曜日の訪問活動も,定着してきたように思います。お話し伺いに応じて下さる割合は,とくに大きな違いはないと思われますが,土曜日の訪問とは違った趣もあるように思います。

土曜日には,お仕事に出ておられる方,通院・デイサービスなどでご不在な方にも,お話し伺いに応じていただけるなど,以前の,従来の活動形態では解らないことも,伺うことができるようになりました。

これまで,寒中に表で待っていて下さる方もお出でになりましたが,暖かくなった今日,お部屋に上げていただいて,長時間にわたる,充実したお話し伺いを,多く実現するようになりました。

休日ゆえ,普段は別居されているご家族もお見えになり(その邪魔にならないようにとの配慮から,従来は日曜日の訪問は遠慮させていただいていた面もありますが),お話し伺いに協力して下さった方もいらっしゃいました。

重ね重ね感謝したいと思います。

お伺いする時間帯は,午後2時から5時の間と,予告ビラに記していましたが,時間オーバーとなり,予定の時間を過ぎてから遅くお尋ねした方には,申し訳なく思います。遅くなっても,失礼を承知で,しかられるのを覚悟の上で,伺いました。待っていて下さった方に申し訳ありませんので。

3月の訪問活動は,今回までに7回行い,その間に250戸を廻らせていただきました。これは,この復興住宅の半数近くになります。スケジュール追加で,パワープレイ〜ヘビーローテーションで,集中的に訪問活動を敢行しました。そうした積み重ねから,好意的にむかえて下さる方が増えていったことを,ありがたく思います。

このところ,暖かくなり,春休み中ということもあって,外で遊ぶ子どもの姿もやや目立ち,そうした子どもたちにも,ボランティアが訪問する姿が見え,呼びかけの声が聞こえているようです。学校でも,震災について教わっているでしょうが,実際,現に活動しているボランティアの姿を直接目にする機会は限られます。私たちの姿が,そのままボランティアに対するイメージを形成し,理解する契機にすることもあるでしょう。そうした教育面も配慮し,活動中の言動にも注意したいと思います。

弊サイトThis is 神戸・週末ボランティアをはじめ,MixiコミュニティMixiページFacebookページtwitter - welove_kobeを通じて,交流させていただいております皆様方とのご縁に感謝し,2年前の東日本大震災で犠牲になられた方もご冥福をお祈りし,被災され,今なお生活再建の途上におられる方々に,阪神淡路大震災の被災地・神戸からの声が,何かのお力になり,お役に立てることを願っております。


この日伺ったところの概略です。

・80代男性,90代女性と同居して30年以上。早朝4時半に起きて2人で散歩するのが日課だったが,震災の日は行く気がせず家にいた。今まで声を荒げたり汚い言葉をかけたことがなかった男性が,地震が発生したとき「こら,オカン!立つな!危ないぞ!」と言ったおかげで,2人とも負傷せずにすんだ。近くの学校に避難したが,人の足を踏んではいけないと,室内には行かず,廊下で寝た。中央区内の仮設住宅を経て,中央区内の復興住宅へ入居したが,借り上げ復興住宅だったため神戸市から移転を求められ,この復興住宅に移ってきて,この5月で2年になる。ここはラジオの電波が入りにくい。男性は目が不自由だが,色々なことに興味を持ち,音声認識を利用してパソコンも自由に操る。昔の人間だからインスタント食品は嫌いで,女性がつくる理が美味しい。男性は少年時代に失明したが,それまでも色々なものを見て覚えている分,生まれつき見えない人よりは恵まれていると思う。外出時は女性が杖代わりだが,博識で器用な男性が色々なことを教えて食えるなど,助け合って,支え合って暮らしている。<お部屋に上げていただいて1時間余りにわたってお話し伺い>

・40〜50代男性。長田区で半壊。ライフラインは全てシャットアウト。山の上の方だったので,最後の最後まで復旧しなかった。震災で火の手が上がり燃え上がるさまを眼下に見た。中央区で被災した両親のもとへ駆けつけたが,向かう途中「もうあかんわ」と思ったが,近くまで来ると倒壊せずに残っている家屋もあって,望みをつなぐことが出来た。1週間後には仕事に。もっと休んで親の世話をしたかった。また,当時1歳の子どもを抱えての避難生活であった。同じ被災地であっても,地域性や人間性の違いを痛感した。電気や水道が復旧すると(まだニーズがあっても)ボランティアが来なくなった。もっと上手く回せば良かった。

・30〜40代男性。長田区で全壊。住んでいた家は基礎と上屋がずれて,家としての用をなさない状態になった。近くの学校の避難所に行こうとしたが,近所の人から,病気が流行っていて酷いからやめた方がいいと言われ,そのまま家にとどまった。食糧などの支援物資は近所の人がもってきてくれた。身内の知人がもってきてくれたガスボンベなどを使って,ライフラインが全く使えない家で調理していた。北区の仮設住宅から大阪まで仕事に行っていた。この復興住宅には竣工当初から入居したので15年目に。隣接地から異臭が発生したとき,ここまで臭わなかったので大丈夫だった。病院から帰ってきて間もないところでお話し伺いに。

・70代?女性。中央区で被災。建物の被害もほとんどなく,自身も負傷しなかったが,ものが落ちてきたり家具が倒れてきたりして怖かった。水屋(食器棚)はメチャクチャに。近くの学校で避難生活を送った。今は友人がいない。長田区で全焼した家で亡くなるなど,被災時に犠牲になったほか,多くの友人が市営住宅である復興住宅で亡くなった。東日本大震災の被災者も大変だと思う。近くで火災が発生したとき,消防士が連れてくれたので,無事避難できた。週2回,ヘルパーに掃除などの家事補助をしてもらっている。

・40代男性。中央区で全壊。近くの学校に避難したが,子どもを連れての避難生活は大変だった。灘区の仮設住宅へ。復興住宅になかなか当たらず,やっとのことでこの復興住宅へ。上の子ども2人は成人しているが,末っ子はまだ小学生で,震災を経験していない。人と防災未来センターに連れて行ったら怖がっていた。学校では避難訓練はしょっちゅうしているようだが,防災教育はしっかりしていないのでは? 隣接地から異臭が発生したときは大丈夫だった。お話し伺いの終わり近くには奥さんも顔を出した。

・70代女性。中央区で全壊。近くの小学校に避難したが,震災の日は,近くの公園で,倒壊家屋の柱などを燃やして暖をとって一夜を明かした。北区の仮設住宅を経てこの復興住宅へ。自らも被災しながらも駆けつけてくれた息子夫婦は,今も休日ごとに来てくれている。少女時代,故郷で遭遇した大水が忘れられない。水量が少ないときなら5mもない川幅が100mにもなり,恐ろしく,まさに生き地獄だった。<お部屋に上げていただいて1時間余りにわたってお話し伺い>

・40代男性。中央区で被災。一時近くの学校に避難した。被災した家や近くの民間マンションを経てこの復興住宅へ入居して10年。被災後3回の引越をした。隣接地で異臭が発生したとき大丈夫だった。

・50〜60代男性。(「今,お困りのことは?」という質問に対して)「それは今のところ大丈夫でございます。」<インターホン越しに応答>

・50代女性。北区で全壊。親類宅などを転々とした後,この復興住宅に入居して10年。<来客中のため短時間で切り上げ>

・70〜80代男性。「今困っていることはない。(震災のことは)勘弁して。」<ドアを開けて応答>

・男性。(訪問の趣旨を説明したところ)「大丈夫です。」<インターホン越しに応答>

・70代?女性。「今,昼ご飯なんですけど…。」<インターホン越しに応答>

・女性。「今,ちょっと介護してます…。」<室内から応答>

・50代?女性。「結構です。」<インターホン越しに応答>

・男性。「結構です。」<インターホン越しに応答>(2件)

・少年。「今,親がいないので…。」

2013-04-02 : ↑TOP


第9(新生134)回訪問活動 (2013/03/30) レポート〈早くも満開の桜と〉

P3305231s.jpg毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。不定期でささやかな活動となった神戸・週末ボランティア 新生ですが,3月は集中的に取り組むこととし,5週目の週末にも土曜日・日曜日と続けて行うことにしました。

3月のテーマは「3月だから忘れない、3月だから寄り添う 「3.11」から2年「息の長い支援」は神戸に聞こう!」です。

例年より早く咲き始めた桜が,早くも満開となり,暖かくなってお出かけになる方も多い中,お話し伺いに応じて下さる方も多く,充実したものになりました。お体の調子が悪いという方も目立ちましたが,インターホン越しでの簡単な対話ながらも,応じて下さりました。前の週からの改善の成果もあったのでしょう,予告ビラ裏面のシートに,自ら記入して下さった方目立ちました。

いずれも,ボランティアを信頼して下さったことに,感謝したいと思います。

1月に始めた,神戸市営筒井住宅への訪問活動は,3月に入って,パワープレイ〜ヘビーローテーションとなりましたが,今回までで,全体の半数ほどのお宅を廻らせていただきました。そうした中で,好意的にむかえて下さっていることに,感謝したいと思います。

訪問させていただく中で,事務所は? 連絡先は? といった質問を受けることがあります。予告ビラでは,訪問の趣旨やURLなどを記しているほかは,主宰者の自署があるだけですから,そうしたご質問はもっともなことです。

そのわけは,直接お会いして,信頼していただけるか否かに,信頼関係構築の端緒を敢えて絞っているからなのです。

東京や大阪の,大企業の本社や官公庁に匹敵するような住所を連絡先に表示することは簡単ですが,そうした肩書きや権威づけで構築された関係では,上から目線になってしまい,心を開いてというわけにはいかないでしょう。対等の,水平的な,相互交流的な関係構築を目指します。

お会いして,お話しを伺うことそれ自体を,最重要と位置づけており,その前提が,宗教や政党など全く関係のない民間のボランティアであることにあり,自らのみならず,かかる存在自体への信用・信頼の向上をも,あわせて目指しています。

これが,神戸・週末ボランティア 新生が抱く志です。


この日伺ったところの概略です。

80代女性,夫(90代)と2人暮らし。灘区で半壊。午後2時頃になって,近くの学校の避難所のグラウンドに車で迎えに来てくれた娘の家へ。娘宅では水が出ず,5階だったので通院など外出は大変だった。仮設住宅は六甲アイランドで,外人が多く,ハイカラな感じがした。震災当時はまだ60代で,まだ今よりがんばれたが,足が悪く,震災の月には手術の予定だったが,震災のため6月に。最近も心臓手術を受けた。数年前,隣接地で異臭が発生したとき,この部屋ではあまり臭わなかったが,そのことよりも当時患っていた甲状腺やそれへの影響が心配だった。週2回デイサービスにいっていて楽しい。水曜日は色々なものを作ったりするのが主で,土曜日はカラオケと,メニューが決まっていて,この日も帰ってきた頃でのお話し伺いに。不審者も時折いて,インターホンを鳴らして逃げるような人も。知らない人なら怖くて入れないが,下で見かけたことがあるのでドアを開けた。<玄関内でお話し伺い。>

・80代女性,一人暮らし。中央区で全壊。何とか直して隅っこの方に住めた。水に困ったのを覚えている。すぐ近くで残っていた文化住宅に移ったが,家賃が高かった。この復興住宅に入居して14年目。隣接地で異臭が発生したとき,うちの方にはあまり流れてこず,あまり感じなかった。2年前,近くの部屋で火災があったときはビックリした,戸を開けたらすごいにおいだった。何かあったら困るので,週1回見守りをかねてヘルパーに来てもらっている。体は悪いところはなく,近くに出来たスーパーに買い物に行くときは,重いものを運ぶために,カートを使うが,外出時に杖や押し車の歩行器などは不要。転んで寝たきりにならないよう,3段ほどの階段であっても手すりをもつようにしている。東京の出身で,戦時中は千葉に疎開したことも。神戸にきたのは戦後。全然知らない土地に来たので言葉も聞きづらかったが,やがて何とか慣れた。

・20代女性。中央区で半壊。ドンと突き上げてきたのを覚えている。本人・家族ともケガはなかった。在籍していた小学校に避難。一旦もとの家に戻り,仮設住宅には行かず,この復興住宅に入居して10年ぐらい。ずっと地元で暮らしてきた。震災の時は,水がない,ガスが出ないといった状態が続き,近くの人がプロパンガスをもってきてくれたのを思い出す。神戸ではこれがあれば十分便利という,パワーアシストつき自転車で買い物から帰ってきたところにお話し伺い。

・70代女性。中央区で一部損壊。自身も負傷せず,周辺共々大した被害はなかった方。もう20年も経つと,怖かったことも忘れた。3階建ての2階にいたが,壁にひびが入っていたり,割れていたりしたようで,雨がしみこみ,家財がダメになってしまった。さらにはバケツを並べなければ行けないほどに。数年前,隣接地で異臭が発生したとき,においはすごかったが,身体に異状はなかった。お出かけの時間近くになってのお話し伺いながら応じてくださった。

・80代男性。長田区で全焼。「震災後は親戚の家に世話になり仮設住宅に入り,10年に市営住宅に入居,現在に至る。健康状態は,病院に通院しています。今心配なことはありません。体に気をつけて毎日生活しています。」<自身でシートに記入>

・20代男性。須磨区で全壊。避難所などを何カ所か転々としたような気がするが,被災時は小さかったので震災のことはあまり覚えていない。

・70代男性。今のところ困ったことはないです。」(震災のことについて尋ねたところ)「これから出かけるところなので…。」

・60代男性。仮設住宅はポートアイランドだった。ここは慣れた。<お出かけのところにお話し伺い>

・70代女性。「今のところは困ったことはないです。」<インターホン越しに応答>

・60代女性。中央区で全壊。「術後でねています。」<自身でシートに記入>

・70代?女性。「時間がなくてごめんなさい。」<インターホン越しに応答>

・70代?男性。「ちょっと病人がおるから…。」<インターホン越しに応答>

・70代男性。「ええわ。気をつけて帰りや。」<インターホン越しに応答>

・70〜80代女性。「熱があるので寝ています。」<ドア越しに応答>

・70代男性。中央区で全壊。<自身でシートに記入>

・60代男性。「結構です。」<ドアを開けかけて応答>

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第8(新生133)回訪問活動 (2013/03/24) レポート〈反省・工夫・改良は怠りません〉

P3245163s.jpg毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。不定期でささやかな活動となった神戸・週末ボランティア 新生ですが,3月は集中的に取り組むこととし,4週目の週末にも続いて行うことにしました。

3月の取り組みにおけるテーマは「3月だから忘れない、3月だから寄り添う 「3.11」から2年「息の長い支援」は神戸に聞こう!」とし,この週末も,土曜日・日曜日と続けて取り組むことにしました。

P3225135s.jpgこの日も前日同様,2時から5時まで,ほとんどめいっぱいの時間をつかって,予告ビラを入れさせていただいたお宅を廻らせていただきました。冬場は殺風景だったこの復興住宅の中庭も彩り始め,彼岸が終わろうとする時期としてはかなりの暖かさになったこの週末ですが,貴重な,充実した対話を多く実現することができ,ひとえに感謝です。

今週の訪問活動は,前々日である22日の「神戸新聞」の「掲示板」に,その趣旨とあわせてご紹介いただきましたが,それとあわせて,お話し下さる住民の方々へのご理解を得る努力をいっそう重ねるべく,予告ビラにも,ささやかではありますが,さらなる改良を加えました。

予告ビラ筒井用201304-1s予告ビラ筒井用201304-2s表面の「神戸・週末ボランティア 新生」のロゴと「宗教や政党など全く関係のない民間のボランティアです。」の文言を大きくしました。これは昨年までの活動を顧みて,その弊を改め,まさにその文言のとおりに,自らをしてかくあらしめることで,信頼関係の構築の前提とする,決意をさらに固めるためでもあります。

裏面の,訪問時ご不在の方にお書きいただく箇所(支援シート)については,再制作し,読みやすく書きやすいレイアウトにしました。そのため,これを通じて,これまでになく,多くの貴重なお話しを伺うことが出来ました。中には何かの調査と思われる方もいらっしゃるようなので,もう少しリラックスしてとらえていただけるような工夫もしたいと思います。


この日伺ったところの概略です。

・70代男性。中央区で全壊。「一言。震災のときの市や国の対応の遅さに,少々頭に来ましたが,でも国も市も初めての事で,大変だったろうと思います。今ではこうして生きている事が幸せと,思う事だと思っています。あの時は寒くて寒くて,3日間公園で夫婦で寝ましたが,寒くて寒くて,今では女房も亡くなり,そんな話も出来ません。やはり人間は,男と女2人で1人。まして男1人は大変ですね。あらためて女の強さを感じました。男はダメ。口ばかりで! これから先,後の人生,どう成るか,先はみえませんが,精一杯生きてみます。」<自身で支援シートに記入>

・40代女性。中央区で全壊。北区の仮設住宅で2年過ごし,竣工当初からこの復興住宅に入居。異臭が発生したときは,結構変わったにおいがすると思ったが,何となく大丈夫だった。2年前に火災が発生したとき,電気が止まったため,インターホンで逃げるように言われても通じなかったが,仕事で朝早い夫は既に出勤していて不在だった。被災者に対する家賃の減免措置がなくなり,2人の子どもも社会人になった今,世帯収入が増えたため,家賃が上がったのが大変。

・60代男性。一人暮らし。中央区で全壊。この復興住宅に入居して14年。避難所には行かず,軽トラックの中で寝泊まりした。避難所になった学校のグラウンドには停められず,停められるところを探して廻った。隣接地から異臭が発生したとき,異状はなかった。高血圧の他,仕事に差し障る持病が。行政の対応については「これだけしてもろたらよしと思わないと…。

・50代女性。母(80代)と2人暮らし。中央区で全壊。ポートアイランドの仮設住宅を経てこの復興住宅へ。震災のとき母はまだ元気だったが,今では介護や入通院の付き添いなどに。2人の子どもも独立して近くに住んでいて,自身が大変なときには助けてくれるなどのおかげもあって,今では調子は良くなったという。<玄関先の廊下に出て来られてのお話し伺いに>

・70代女性。一人暮らし。中央区で被災。1週間ほど水道やガスが止まったままの被災した家で過ごしたため,避難所に行っても支援物資などはもらえなかった。この復興住宅へ入居して5〜6年。ヘルパーを頼まず,家事は自分でこなす。

・男性。「私どもは震災後だいぶ経ってから(この復興住宅に)入ったので…。」<インターホン越しに応答>

・70代女性?「うちはいいです。元気です。」<インターホン越しに応答>

・70代女性。「いいです。」<ドアを開けて応答>

・空室<2年目の火災で黒こげになったままに>

2013-03-28 : ↑TOP


第7(新生132)回訪問活動 (2013/03/23) レポート〈「神戸新聞」からもご案内開始〉

P3235140s.jpg毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。不定期でささやかな活動となった神戸・週末ボランティア 新生ですが,3月は集中的に取り組むこととし,4週目の週末にも続いて行うことにしました。

3月の取り組みにおけるテーマは「3月だから忘れない、3月だから寄り添う 「3.11」から2年「息の長い支援」は神戸に聞こう!」とし,この週末も,土曜日・日曜日と続けて取り組むことにしました。

昨年までの訪問活動では,月2回第2・4土曜日の午後,2時半〜5時にお伺いしていましたが,新生の活動では,2時から始めています。午前中に用事があって昼食後に一休みされたい方には少々大変かなと思っております。しかしながら,このところ,暖かくなったこともあるでしょうが,そうした時間から表で待っていて下さる方がお出でになるのは,まことにうれしくありがたいことです。

一方で,各回の訪問日を最大限に活かすべく,17時頃までめいっぱい廻らせていただいております。遅くなってからの時間帯にも訪問を待っていてくださる方々には,まことに恐縮しています。これまた,今月に集中的にお伺いしていることで,新たな活動へのご理解を頂いてきたことに,ありがたく思っております。

P3225135s.jpg今週の訪問活動は,前日である22日の「神戸新聞」の「掲示板」にもご紹介いただきました。新たに始めた活動にたいして,その趣旨までしっかりとご紹介いただくことは,破格の扱いと,感謝しております。テーマをもって問題意識を明確にすることは,その後の支援や情報発信にも有効であることも,認知されてくることでしょう。

こうした形で臨むことで,伺うお話しも的確なものとなっていくもので,そうした形で,お伺い知る方は内容を整理して理解が進むとともに,お話し下された方も,頭の中や気持ちがスッキリするという,効果もあるでしょう。情報の整理と心のケアが,こうした形で両立する,一石二鳥のメソッドでしょう。

お話しを伺わせていただく方は,ほぼ全員が,主宰者である私にとっては人生の先輩です。震災のときのことやお困りごとについて以外にも,これまで歩んでこられた人生の様々な場面での貴重なお話しを伺うことは,こうした傾聴ボランティアならではのものでしょう。


この日伺ったところの概略です。

・60代女性。灘区で全壊。近くの小学校に避難したが,なかなか仮設住宅に当たらず,最後まで避難所にいた。ポートアイランドの仮設住宅に入ったのは8月で,ここで2〜3年過ごした。入った復興住宅が旧公団から神戸市が借り上げたところだったため,市から他の市営住宅への早急な転居を求められ,この復興住宅に入居して2年。前にいた借り上げ復興住宅にずっと住み続けたかった。この復興住宅では,物音がよく響いたり,ベランダや廊下への水まきをしないよう求められるなど,つくりの悪さが目立つほか,生活環境や治安などが心配だった。自転車を階下の駐輪場に入れておいたらサドルを盗まれたり,パンクさせられたりすることが相次いだため,玄関内に入れている。地震まではよく働いて,若い頃は何でもした。

・60代男性。北区で半壊。被災時は運送の仕事をしていた。避難所などに支援物資を配送していて,各地域の被災状況を目の当たりにしていた。仮設住宅や復興住宅での自殺者が多いことに心を痛めている。震災時の国の動きが遅かった。シャッター通りが多くなったことからも,今も復興が進んでいないと思う。東日本大震災ももっとたいへん。長年重い荷物を運ぶ仕事をしてきたため,腰を痛め,今ではトラックを降りた。自転車やバイクが壊されたり盗られたりするなどしていることから,防犯のため随時見回ったり,共用部分の切れた蛍光灯を交換したりするなど,この復興住宅の治安や生活環境を良くするべく努めている。

・70代女性。一人暮らし。中央区で全壊。「震災で家は全壊しましたが家族は全員無事,娘の家に避難,H.18年家を新築しましたが明治〜平成生れ8人の大家族で…両親と主人と私は4人で引越半年後に(この復興)住宅に住むことが出来…今は私1人住まいですが…多忙な毎日です。」<自身でシートに記入>みんなゆとりがなくなっている…。<お出かけのところに廊下でお話し伺い>

・80代男性。灘区で被災。家主は修繕もしてくれず,敷金を返してもらうのに何年もかかった。自分で新たに民間賃貸住宅を探して入ったら,先に入っていた人の家賃は半分だった。今は住居も医療も助かっている。<予告ビラ裏面の支援シートに「何も書かなかったが…」といいながら,お話し伺いに応じてくださった>

・90代男性。一人暮らし。灘区で被災。被災時ケガはなく大丈夫だった。この復興住宅に入居して14年。昨年妻を亡くした。家事は自分でやっている。今は年取るだけで…。耳が遠くなって話すのが難しい。足腰など身体中悪いところだらけ。

・70代女性。兵庫区で全壊。西区の仮設住宅を経て,この復興住宅へ。仮設住宅だけでなく復興住宅での孤独死が心配。復興住宅に,高齢者ばかりでなく,若い人がもっといればいいと思う。上の階の部屋の物音がよく響くのが気になる。

・30代女性と少女。灘区で被災。近くの小学校での避難所生活などは経験した。この復興住宅に入居して日が浅い。(人気がなく)まわりが寂しいけど…。玄関前で少女と出会った後訪問に。

・60代?男性。「うちはええで。このへんの人は皆みな,震災のことは忘れたいと思っている。」<帰宅されたところにお話し伺い>

・60代女性。(訪問の趣旨を説明したところ)「大丈夫です。」<ドアを開けて応答>

・40代?女性。「お母さんの具合が悪いので…。」<インターホン越しに応答>

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第6(新生131)回訪問活動 (2013/03/10) レポート〈「3.11」から2年〉

yokoku201303.jpg毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。不定期でささやかな活動となった神戸・週末ボランティア 新生ですが,3月は集中的に取り組むこととし,2週目の週末にも続いて行うことにしました。

3月の取り組みにおけるテーマは「3月だから忘れない、3月だから寄り添う 「3.11」から2年「息の長い支援」は神戸に聞こう!」としました。とりわけ「3.11」に近いこの週末には,土曜日・日曜日と続けて取り組むことにしました。

今回も,昨日分とあわせて,訪問予定のお宅への予告ビラを,前回,3月2日の訪問活動の時に投函したこともあって,予め心づもりをして下さった方も目立ち,充実したものとなりました。敢えてこの時期にやってくることの意義とメッセージが,お話し伺いに応じて下さった方も,そうでない他の方も含めて,理解され伝わっているのを感じます。

前日の暖かな好天からは変わって,やや不安定な天候の中でしたが,無事この日のミッションを追えることができました。

昨年までの訪問活動においては,専ら土曜日の午後を訪問活動にあててきましたが,この1月に連休最終日の祝日に行ったのに続いて,この日初めて日曜日に行い,いずれも,曜日の違いによる特段の大きな違いはないとの感触を得ました。むしろ,これまで土曜日の午後には都合の悪かった方からもお話しを伺う機会もできることでしょう。

これまで,このようなボランティアの訪問を受けたことがないという方,今になってやっと話すことができたという方など,阪神淡路大震災から18年を過ぎた今日,新たな出会いが創り出されることは,感動といっていいものすらあるでしょう。

かつては,ボランティアの訪問を心待ちにしされ,積もる話を何時間も伺うということは珍しくなかったのですが,震災後数年を過ぎたあたりから,そうしたことはほとんどなくなっていました。しかし今回,10年以上ぶりに,終了予定時刻を1時間以上越えてのお話し伺いをさせていただきました。

今2013年に入ってからの訪問活動では,主宰者である私は,予定させていただいたお宅を全戸,親しく廻らせていただいており,手分けした後で集約するという形はとっておりません。予定した午後2〜5時を,ほとんどフルに訪問にあてさせていただいています。1月の訪問活動では毎回20戸台だった訪問件数も,3月は30戸余りに増やしました。活動としてのクオリティ面や,毎回の出会いと,一人一人から伺ったことに受け止め向き合う姿勢を大切にする上では,このあたりでおさえるべきかと思います。

訪問活動を定期化することは困難ですが,その分,しかるべき時に集中して行うのもひとつの方法かとも思います。

この予告ビラでは,「宗教や政党など全く関係のない民間のボランティアです。寄付要請や販売行為などは一切行いませんので、ご安心下さい。」と大書してあります。昨年までのグループでも同じような文言がありましたが,ボランティア参加者が全て常にかくあったかというと,必ずしもそうではありませんでした。かくあらしめることは,最後まで追求された課題でした。

それにたいして,今年からの神戸・週末ボランティア 新生は,まさにその通りのものとして出発しました。これまで,未知の外来者に不信感を抱いておられた方も少なくなかったでしょう。そうした住民の方々にも,信頼関係が生まれているのを実感しています。

また,宗教・政治勢力と無関係であることを強調するあまり,信仰・支持される方からのお話し伺いが難しくなるかといえば,そのようなことはなく,むしろ逆でした。信仰を通じて元気になり感謝をもって日々過ごされているさまを生き生きと語る姿に接し,お話しを伺う側も元気をもらい襟を正すこともあれば,かかるコミュニティでのサポートから漏れている方の現状を,率直に伺うこともありました。

まさに訪問ボランティアが,用いられることを喜びとし,お役に立てることに感謝をもってすべきことが,ここにあるといえるでしょう。

予告ビラは,最初の出会いをよきものとするために,活動を進める中で改良し,訪問先にあわせてカスタマイズしています。そのためには,毎回の訪問活動を顧みることが大切です。ということで,この日は,2週間後の訪問予定先への投函は見送りました。

集中して行う中にあっても,冷静にふり返る時間を大切にすることで,次に活かしたいと思います。


この日伺ったところの概略です。

・80代女性。中央区で全壊。地震の時はテレビが頭に当たって負傷。夫は自身も埋まりながら,先に周りの人を助けるように言った。やっとのことで避難所に行ったら,被害が少なかった人が布団を敷くなどして場所取りをしていたため,過ごせる場所がなかった上に,支援物資ももらえないままだった。3月頃は,まだガスが使えず,カセットボンベで調理をしていた。罹災証明などの書類をもって手続にいったらニセモノ扱いされるなどしたため,避難所には最後までいた。ポートアイランドの仮設住宅では,声をかけてあげていた人が孤独死し,それを報じた新聞の切り抜きを大切にもっている。この復興住宅へ入居したばかりの頃は動くのもたいへんなほどだったが,いい医者を紹介してもらったおかげで,最近では自由に動けるように。何種類もの薬を,1日に何度にも分けて飲まねばならず,薬でお腹いっぱいになって,ごはんがあまり入らないほど。早くに父を亡くし,少女時代,敗戦後間もない大阪へ。その頃からの信心が心の支え。震災時の支援はほとんど受けられなかったが,自分自身とともに,組織や指導者が若々しかった当時を懐かしんでいる感じ。隣接地で異臭が発生したした時,その前段階の解体作業の粉塵で喉を痛め,苦情を言っても取り合ってもらえず,喉の薬を飲んでしのいでいたが,その後も味覚や目に異状を覚えた。<訪問が遅い時間になったにもかかわらず,お部屋の前に出て待っていてくださった。>

・60代女性。北区の仮設住宅2箇所であわせて4年過ごし,最後になって,隣近所がいなくなるまでいた。この復興住宅に入居して13年。仮設住宅は不便な場所にあったが,当時は単車に乗っていたので,買い物などにはあまり不便しなかった。被災当時はまだ若かったのでがんばれた。長年洋裁の仕事をしてきた。復興住宅だが,家賃が上がってゆくのがたいへんで心配。

・80代女性,一人暮らし。近くの別の復興住宅で10年過ごした後,この復興住宅に入居して1年。シルバー枠で入居したので,子どもと一緒には住めない。この日は薬をもらいに行った。ここは薬局が近いので便利。近くの病院へもよく行く。ヘルパーに来てもらったりせず,食事などは自分で作る。外出時は杖を使用。<お部屋の前でお話し伺い>

・70代女性。被災時はまだ若かったのでがんばれた。(震災後18年を経ての訪問活動にたいして)東日本大震災もあってもっとたいへんなことだし,いつもまでも甘えていても仕方がない。前を向いて,がんばらなくては。最近は足腰が痛い。

・60代?女性。訪問の趣旨を説明したところ,「(震災のことではなく)もっとええ話しかと思ったのに…」<インターホン越しに応答>

・「LSAの方が居られるので,現状では何の不自由もありません。」<自身で支援シートに記入>

・40代男性。訪問の趣旨を説明したところ,玄関まで出てこられて「ええわええわ」。

・女性。「本人が留守なので判らない。」<インターホン越しに応答>

・女性。「今,私,体調が悪いので…。」<インターホン越しに応答>

・女性。「人が見えてますので…。」<インターホン越しに応答>

・男性。「別にいいわ」<インターホン越しに応答>

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第5(新生130)回訪問活動 (2013/03/09) レポート 附:映画『メモリーズ・コーナー』のことなど

P3095011-s.jpg毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。不定期でささやかな活動となった神戸・週末ボランティア 新生ですが,3月は集中的に取り組むこととし,2週目の週末にも続いて行うことにしました。

3月の取り組みにおけるテーマは「3月だから忘れない、3月だから寄り添う 「3.11」から2年「息の長い支援」は神戸に聞こう!」としました。とりわけ「3.11」に近いこの週末には,土曜日・日曜日と続けて取り組むことにしました。

今回は,訪問予定のお宅への予告ビラを,前回,3月2日の訪問活動の時に投函したこともあって,予め心づもりをして下さった方も目立ち,充実したものとなりました。敢えてこの時期にやってくることの意義とメッセージが,お話し伺いに応じて下さった方も,そうでない他の方も含めて,理解され伝わっているのを感じます。

これまでも,この復興住宅でのお話し伺いには,震災に関する一般的情況だけでなく,この場所ならではのことについて,具体的に伺うようにしていました。漠然とした質問をするよりも,ある程度具体的な質問をした方が話しやすいとのアドバイスを,以前に頂いたことによるものでした。

3月の訪問活動においては,阪神淡路大震災についてお尋ねするにあたって,「震災の年のこの時期どうされていましたか?」という形で聞いてみました。ライフラインも一部復旧していないものがあったり,厳冬期を経て避難生活が長期化し,先の展望が見えない中で,心身共に疲労・疲弊が募ってきた頃だったでしょう。被災直後とは別な辛さがあったことと,その中をいかに過ごしたかを,学び伝えていくことの意義は大きいでしょう。そのあたりは,行間から読み取っていただきたいものです。

P3095013-s.jpg東日本大震災について伺うことは,その直後においては,それ自体が,今日的意味における「心のケア」とは相反する,粗暴なものといわねばならなかったのですが,そのあたりは,昨年までの活動の反省と教訓を活かす形で,お尋ねし,今ここに寄り添うことの意味を,明らかにできたかと思います。

東日本大震災を機に盛んに言われるようになった「息の長い支援」ですが,その必要とされるものや,あるべき姿は,こうした形で,現されてゆくものでしょう。

各地の梅林も見頃をむかえるなど,1週間前とはうって変わった,春らしい陽気の中での訪問活動となりましたが,この日はもうひとつニュースがありました。

阪神淡路大震災の被災者の「孤独死」を採り上げた映画『メモリーズ・コーナー』が,この3月9日から,元町映画館で上映され,連日立見が出る程の大好評とのことです。

b2083084.jpg脚本制作前の早い段階では,神戸・週末ボランティア(旧)でも協力しており,オドレイ・フーシェ監督もまた同行取材していました。当時の活動状態からすれば,どれほど寄与できたかは疑わしいところもありますが…。そのあたりは,作品冒頭近くに登場する訪問ボランティアが,これをもとに(?),近隣住民が行う友愛訪問活動などと合わせもったようになっているところから,推し量ってもらうことにしましょう。

同館での上映は3月22日までとなっておりますので,お早めにどうぞ。


この日伺ったところの概略です。

・80代男性。中央区で全壊。1階で寝ていた母は亡くなった。自身もタンスの下敷きになり,よく助かったと思う。1週間ほど避難所にいた後,須磨区の親類宅へ身を寄せた。ポートアイランドの仮設住宅で2年過ごした後,この復興住宅へ。最近のイジメは陰湿で意地汚い。軍隊にいたとき,ちょっとしたことですぐビンタを食らったが,そのような陰湿さは感じなかった。長く印刷関係の仕事をしてきた。仕事の仕方も変わっていったが,変化についていかないとダメだ。東日本大震災は,原発事故があった分たいへんだが,前を向いていかないといけないと思う。

・70代女性,一人暮らし。中央区で全壊。子どもの時もこの近くで過ごした。被災後避難した病院では,先生がよくしてくれた。ポートアイランドの仮設住宅を経て,この復興住宅へ入居して14〜5年。身内と交流があり,隣接地で異臭が発生したときも,親類宅にいさせてもらったおかげで,身体に異常はなかった。訪問時は歯を1本抜いてきたばかりということで,話しにくそう。何本か残ったはを支えにして入れ歯をしており,そのおかげでごはんを美味しくいただける。この復興住宅は子どももいないので淋しい。

・80代女性。中央区で被災。水は1週間〜10日で出るようになったが,ガスの復旧は3月ぐらいかかった。調理はカセットボンベなどでできたが,寒さで凍えて,風邪を引いてしまった。この復興住宅に入居して2ヶ月の時に,夫が脳梗塞で倒れ,一時は寝たきりだったのが,介護とリハビリのおかげで,快復してきた。息子(50代)を亡くして以来,高いところにあるものをとったり電球を交換したりするのがたいへんに。

・40代女性。中央区で被災。被災時は賃貸住宅にいて,頭を打って,冷蔵庫の下敷きになった。子どものミルクの水などを確保しようと,一時,身内が入院している病院に身を寄せたが,近くの避難所に移った。北区の仮設住宅を経てこの復興住宅へ。隣接地から異臭が上がった頃,家に入れば大丈夫だった。身体に異常はない。

・60代女性。中央区で全壊。母が負傷した。田舎に避難してからこの復興住宅へ。一からのやり直しだった。落ち着いてから,老人ホームで掃除のボランティアなどをしていたこともある。今は足が悪く,引きずって歩くので,支えが必要に。花粉症が辛く,マスクをしている。

・少年。両親は不在で留守番中。両親から震災についてあまり聞いたことはない。学校では1月17日が近くなると,少し教わるくらい。

・40代女性。震災当時は東京在住で,被災経験はない。隣接地から異臭が上がった頃に入居したが,身体に異常はない。

・50代?男性。今は後見人の方にお願いしている。花粉のためマスクをしている,辛そうな感じ。

・70代男性。「(震災のことについて尋ねると)そんなことはいい。」

・女性。「(予告ビラを)見なかったけど…。」

・留守宅<中から犬の鳴き声>(2軒)

2013-03-17 : ↑TOP


第4(新生129)回訪問活動 (2013/03/02) レポート〈3月だから忘れない、3月だから寄り添う〉

神戸市営筒井住宅毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。不定期でささやかな活動となった神戸・週末ボランティア 新生ですが,3月は集中的に取り組むこととし,そのはじめを早速最初の週末である2日としました。

3月の取り組みにおけるテーマは「3月だから忘れない、3月だから寄り添う 「3.11」から2年「息の長い支援」は神戸に聞こう!」としました。

今回から出発場所を,阪神三宮から直結する,そごう神戸店のサンファーレ広場にしてみました。この場所は,歩道橋やペデストリアンデッキとつながった屋外になっていますが,阪神淡路大震災で同店が被害を受けたとき,その損壊が激しいところを削り取る形で修復したためにできたスペースです。北側に向かって開くコの字型の凹みなので,ほとんど日が差すことがない場所なのですが…。

今回の予告ビラ投函は前日の夕方近くで,ほとんど訪問直近になりました。たまたまお会いした方からそのままお話しを伺うということもありました。その一方で,訪問当日も予告ビラの1/3が残っている状態で,在宅率の低さを知らされることとなりました。また,活動実績を上げるために,対話が実現しやすそうなところから訪問するという方針は敢えてとらず,訪問者を拒む傾向の強そうなところや,未知の外来者への警戒感の強いところにも,積極的に伺うことにしました。

まだ寒さも続いていることから,1月以上に,住宅敷地内でお会いする方が少なく,人気の少ない,荒涼とした寂寥感を漂わせる状況でした。

P3024905-s.jpgP3024909-s.jpg今回は,1月19日ほどではなかったものの,在宅率の低い辺りに集中してしまった感は拭えませんでしたが,敢えてそうした中だからこそ伺えたお話であったことが特徴的だと言えるものでした。

予定したお宅への訪問を早めに終えた後,次週3月9日10日分の訪問先のリストアップと予告ビラの投函を行いました。

翌3月3日には,昨年1月に続くイヴェント帰ってきた1日だけのJazz喫茶をお手伝いさせていただきました。


この日伺ったところの概略です。

・60代女性,夫(70代)と夫婦2人暮らし。中央区で一部損壊。神戸の中心部からやや外れたところだったからか,震災時は,行政やボランティアの支援はあまりなかった。周囲で商店を営んでいた住民同士で,物資を持ち寄るなど,助け合ってしのいだ。水やガスが使えるようになったのは4月になってからだった。身内は無事で,既に社会人になっていた息子は,勤務先の社員の安否確認のために奔走していた。長く理容室を営んでいて,顧客や知人で犠牲になった方も。うちはまだましな方。東日本大震災被災者はもっとたいへん。この復興住宅に入居して4年,不審者に悩まされていた模様。もうすぐまた夫が入院することになった。本人は覚悟しているようだが…。

・50代男性。中央区で被災。市外の身内宅に身を寄せた。この復興住宅に入居して10年。子ども2人。1人は外へ遊びに行くところで,もう一人は風邪で寝ているとのこと。震災時は中華料理店の仕事をしていた。一旦再開したものの,他のいろいろな仕事をしてきた。長く神戸で暮らしてきたので,この復興住宅がある辺りは,かつて工場街だったことをよく知っている。そうした工場が他所へ移転してしまって,住むだけならいいにしても,仕事がなくなっているのはどうかと思う。数年前,住宅隣接地から異臭が発生したとき,自分は何ともなかった。

・40代男性,一人暮らし。中央区で半壊。住んでいたアパートは後に解体された。震災時は西区で入院していたが,揺れを感じて怖かった。夏まで退院が延びて,避難所生活は経験せず。ポートアイランドの仮設住宅を経て,この復興住宅に入居して15年。外出していることが多かったためか,数年前に異臭が発生したときも身体に異常はなかった。2年ほど前,この復興住宅で火災が起こったとき,たいへんな騒ぎになったことは覚えているが,避難したりはしなかった。訪ねてきた友人が帰るところに出会い,お話し伺いに。

・女性。「右腰から下ヒザの上辺り迄痛いのと,右胸下肋骨の辺りが痛いので,床に入ってます。ベルをならして頂いてもきこえないので,あしからず。」とドアにメモ。<お声がけしようかと思ったが,ご負担を考えて「お大事になさってください」と,メモを投函するのみにとどめた>

・70代女性。この復興住宅に入居して6年。<予告ビラ裏面の支援シートに記入>

2013-03-17 : ↑TOP


第3(新生128)回訪問活動 (2013/01/19) レポート〈仮設・復興住宅訪問通算570回〉

神戸市営筒井住宅今2013年も引き続き「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。不定期でささやかな活動となった神戸・週末ボランティア 新生ですが,1月17日に近い週末には集中的に取り組みたいと思い,第1回の12日,第2回の14日に続いて,19日に第3回を行いました。

今回は「希望の灯り」の分灯はありませんので,テーマは今こそ「1.17」を忘れない Part3としました。

訪問活動は,この3回とも,神戸市営筒井住宅で,ビラ入れをして予告をした20軒余をお訪ねさせていただきました。時間帯は午後2時過ぎから5時前まででした。

今回も,第1回の訪問活動に参加してくれた新たな仲間とともに,1グループで廻らせていただきましたが,限られた時間の中であっても,腰をすえてじっくりお話し伺いをさせていただけたことに,感謝したいと思います。

この復興住宅は,神戸の中心地といっていい三宮から2km弱なので,歩いていけない距離ではありませんが,阪神・阪急各線で梅田方面に1駅の春日野道が最寄りなので,徒歩圏内と言うには少し無理があるかなという距離です。そこは敢えて,三宮で集合し,復興住宅現地まで歩きながら,住民の方々の生活圏を広く見て回ることとしました。

商店街やスーパー,量販店,公園や病院の近くを実際に通ってみることで,お話し伺いの内容自体のみならず,地域の中での復興住宅と住民の置かれている情況をも含めて,広く深く理解することにつながるでしょう。住民の立場・視点からのまちづくりというアプローチにも有効でしょう。

また,訪問予定の方だけでなく,住宅内で出会った方からも貴重なお話しを伺うことができました。

訪問に先立ってドアポストに投函させていただく予告ビラも,従来からいくつか変更しました。まずもって活動主体が代わったのですから,その趣旨説明をしました。つぎに,お伺いしたいことを,ある程度具体的に示しました。そうすることで,今この時期に敢えて伺うことの意味を明らかにするとともに,「今,あなたの話しが聞きたい!」というメッセージにもなったと思います。

今年お伺いする方には,

2011年3月11日の東日本大震災を機に「息の長い支援」が求められています。
被災されたみなさんのお話しを伺うことで、お役に立たせていただき、これまでの災害から学ぶことはもちろん、新たな、さらには将来の災害に備える一助になればと思っています。

と添えることにしましたが,この復興住宅の方向けには,

2006年頃には住宅の隣接地から異臭が発生しました。その頃お身体の具合はいかがでしたでしょうか? その後いかがでしたでしょうか?

も,加えました。2006〜7年,隣接地でマンションが建設された際,基礎工事のために掘り下げたところ,地中に埋められていた物質による異臭が発生し,住民の健康に影響を及ぼす事態になったことによるものですが,これについても,今なお苦しむ方の悲痛な声,身体への影響以外にも様々な事情からこれまで話せなかったことなど,貴重なお話しを伺うことができました。

さらには,2年前に発生した火災現場の跡が,まだそのままになっていることも知りました。

阪神淡路大震災のボランティアとしては,2013年1月のミッションを,お陰様で,一定の成果をもってさせていただけたことに,感謝したいと思います。それとあわせて,現下のこの場の課題についても考えさせられるものがありました。

その課題が,震災に直接起因するもの以外によることについてです。それは,一般にも言われているような,高齢化によるものもありますが,決してそれに還元されるものばかりではないということです。それを踏まえて,例の火災に関する報道をもう一度読み直すならば,問題の所在と性格が,ある程度浮き彫りになってくるのではないでしょうか?

そうした新たな課題への関わり方も,問われているといわねばならないでしょう。


この日伺ったところの概略です。

・70代男性,一人暮らし。中央区で全壊。地震の時は仕事で遠方におり,情報が入らない中神戸に戻り,避難所で母と再会したのは翌日のことだった。ポートアイランドの仮設住宅を経て,この復興住宅へ。10年前に母が亡くなり,今は一人暮らし。仮設住宅では,夏暑く冬寒かった上,夜でも近くで荷揚げがなされていた。異臭騒ぎ(2006〜7年,隣接地でマンションが建設された際,基礎工事のために掘り下げたところ,地中に埋められていた物質による異臭が発生,住民の健康に影響を及ぼす事態に)はもう終わったこと。当時は(施工元請の)ゼネコンや(デベロッパーであった)総合商社と掛け合ったが…。市バスのバス停もあり,スーパーや量販店もできて買い物に便利になるなど,この復興住宅の住環境はよくなった。高度成長期以来,日雇いに近い形で力仕事をして,社会を支えてきた。腰・肩・足を痛め,リハビリに通っている。心臓病のため,きつい薬をいくつも服用している。急に胸が痛くなるのが怖い。東日本大震災で被災した故郷に行ってみたら,がれきが高く積まれていた。人に頼るのは無理,自己防衛が大切。民間・個人の力で盛り上げていかないとダメ。無駄なお金は使わないようにしている。被災地となった故郷にある母の墓参りをしたり,地元の特産品を買うなどして,これからも貢献していこうと思っている。<お部屋に通していただいてお話し伺い>

・60代?女性。この復興住宅はお年寄りが多く,最近亡くなる方が多い。寒さだけではなく,みんな病気してるから…。住民同士の声かけや電話連絡を心がけている。色々な来訪者があるが,宗教団体が入ってくるのがいや。神戸市は最近,(被災者ではない)新たな住民を入居させるようになったが,そうした人たちと上手くコミュニケーションをとっていくのは難しい。<中庭で自転車に乗って出かけるところにお話し伺い>

・<訪問の数日前,表札・家財が見られたので予告ビラを入れたが,昨年亡くなったばかりだとのこと。>

・<訪問の数日前,空室であることを確認したが,昨年病院で亡くなったばかりとのこと。>

・男性。ドアを開けて「身体悪いので話したくない。」

・「仕事でおりません」と,ドアにメモ貼り付け。

・男性。ドアを開けて「ごめんね。ありがとう。」

・女性。ドアを開けて「いいです。」

・女性。ドアを開けて「いいわ。」

神戸の市営住宅で火災 ヘルパー急行、高齢者救助 2011/01/29 神戸新聞

 29日午前8時20分ごろ、神戸市中央区筒井町、市営筒井住宅4号棟シルバーハイツ筒井(11階建て)で、8階の無職女性(40)方から出火、約70平方メートルを全焼した。同住宅は阪神・淡路大震災で被災した高齢者らが多数入居していたが、消防や警察、高齢者宅に通っているヘルパーらが避難誘導し、けが人はなかった。
 同住宅は1998年に災害復興公営住宅として完成。入居する55世帯の大半が65歳以上の高齢者世帯で、煙が充満する中、住民や警察官らが1戸ずつ回って避難を呼び掛けた。
 6階に住む男性(69)は「家の外で『火事だ』という声がして初めて異常に気付いた」と驚いた様子だった。肺を患っているため、長距離の移動は難しい。呼吸器を着けてなんとか玄関先まで出てきたところ、近くに住むホームヘルパーが助けに来てくれたという。
 ヘルパーの女性(65)は「今日の訪問は午前11時の予定だったけれど、家から煙が見えたので飛んできた。この住宅は自力で避難できない高齢者や障害者が多い。けが人が出なくてよかった」と安堵(あんど)の表情を浮かべた。
 近くの集会所には一時、30人近い住民が避難。車いすやつえを突いて逃げてくる高齢者の姿も目立った。8階に住む女性(76)は「耳が遠いのでサイレンが聞こえなかった。飼っている犬が何度もほえてくれたおかげで煙に気付いた」と話し、「着の身着のままで逃げ出した。震災の時を思い出す。火事は嫌や」と声を震わせた。
 葺合署などによると、無職女性は高校生の娘と2人暮らし。出火当時、室内には2人でいたといい、同署が状況を聴いている。

2013-01-24 : ↑TOP


第2(新生127)回訪問活動 (2013/01/14) レポート〈初の祝日訪問〉

阪神淡路大震災「1.17希望の灯り」不定期でささやかな活動の神戸・週末ボランティア 新生ですが,1月17日に近い週末には集中的に取り組みたいと思い,第1回目の12日に続いて14日に第2回目を行いました。

テーマは前回と同じ今こそ「1.17」を忘れない 〜「希望の灯り」とともにとしました。

この日は,この1週間ほどの中で唯一荒天となった日でしたが,午後には雨も上がり,寒いながらもお話し伺いに応じていただきました。訪問先は,前回に続いて,神戸市中央区の筒井住宅です。「希望の灯り」の分灯を持って伺ったのも,12日と同様です。

昨年までの復興住宅訪問活動では,順番に訪問させていただいていましたが,今年は,順番に関係なく,問題意識や課題,テーマに即して,その重要性が高いと思われるところから,訪問させていただくことにしました。リソースが限られたなかで,1住宅の数百戸をすべて巡回させていただくのはもはや不可能ですから。

また,震災で難儀された方に引き続き寄り添うこととあわせて,各地の多くの方に,現在も深化する阪神淡路大震災の被災地・被災者の情況を知っていただくべく,情報発信の方向性やクオリティも,問われることになります。訪問先の選択では,この点も重要です。

今回は特に,7年前の2006年のちょうど同じ1月14日に神戸・週末ボランティア(旧)で訪問させていただいたお宅を10軒ほどお訪ねしましたが,その際お話し伺いに応じて下さった方は不在で,そのほかの方についても,インターホン越しに安否を伺う程度の対話にとどまりました。

わずかな準備期間で計画・追加した中での,1月17日を控えての訪問活動に,ご理解とご支持をいただいたことに,感謝したいと思います。


この日伺ったところの概略です。

・80代女性,一人暮らし。灘区で全壊。近くの小学校の避難所で半年近く過ごした後,北区の仮設住宅で3年過ごす。冬の寒さはとりわけたいへんで,床下からすきま風が吹き上げてきた。この復興住宅へは竣工間もなく入居,15年目に。元気そうに玄関に出てきたが,3年前に膝関節の手術のために3ヶ月入院した。今でも冷えると痛い。大阪で生まれ育ち,高等女学校の時には軍事教練や勤労動員も経験した。動員先の軍需工場は空襲の標的にされやすく,すぐ近くで亡くなった人も多かった。空襲警報が出ると,顕微鏡を持って逃げることになっており,防空壕に飛び込むのはそれを受け渡してからで,女学生の命より顕微鏡の方が大事にされていた。空襲より震災の方が怖い。あの頃はまだ若かったからまだしも,もうこれ以上怖い目に遭いたくない。異臭騒ぎ(2006〜7年,隣接地でマンションが建設された際,基礎工事のために掘り下げたところ,地中に埋められていた物質による異臭が発生,住民の健康に影響を及ぼす事態に)以来,現在も味覚と嗅覚がわからなくなってしまった。同じ原因物質を扱う,他所で現に稼働している工場の側でも,そんなに異臭を感じなかったのに,このときはたいへんだった。以来自分では調理せず,できあいのものを買ってくる。煮物などを時折知人に作ってもらうことも。食べた気がせず,ただお腹に入れている感じ。もう一度ちゃんと味わって食べたい。

・60代男性,一人暮らし。須磨区で全壊。家具が倒れてきてちょっと挟まれたが,足を痛めながらも自力で脱出。その頃はちょうど明るくなるところだった。倒壊した家の下敷きになって亡くなった友人も。近くにあった市の施設に避難。被災当時若かったため仮設住宅に当たらず,身内宅に身を寄せた後,自力で賃貸住宅に入居。この復興住宅に入居して1年経っていない。東日本大震災では,想い出したくないものを思いだして気分が悪くなった。今でこそこれだけしゃべれるようになったが。東南海地震も心配。ここは海も近いし…。

・70代?男性。東灘区で全壊。最近までこの復興住宅に住んでいて,現在もこの近くに住む。ここはエセ・ボランティアが多い。時々ここで飲んでいる。新年でも1人で居ると飲むしかない。<住宅下のベンチで飲んでいるところにお話し伺い>

・80代女性。東灘区で被災。罹災証明もらってこの復興住宅に入った。<しんどいとのことで,お話し伺いは短時間で切り上げ>

・女性。「今のところ大丈夫です。」<インターホン越しに応答>

・女性。「大丈夫です。」<インターホン越しに応答>

2013-01-24 : ↑TOP


第1(新生126)回訪問活動 (2013/01/12) レポート〈今こそ「1.17」を忘れない〜「希望の灯り」とともに〉

1.17希望の灯り・分灯毎度「役立ちと学びのネットワークThis is 神戸・週末ボランティア」をご覧下さいまして,まことにありがとうございます。今2013年は,新たな出発と,これまでの仕上げにふさわしい,レポートを発信していきたいと思います。

阪神淡路大震災が発生した1995年以来,神戸をはじめとする被災地においては,1月は特別な月となってきました。その中でもとりわけ17日をはさんだ前後の週は,今年も様々な行事や活動が取り組まれています。震災発生から早くも18年を経て,こうした取組みは,震災発生当初から続いているものもあれば,近年新たに始められたものもあり,それらのひとつひとつが,常にそれぞれの存在意義と理由を問われています。

昨2012年12月,これまで数年間続けてきたHAT神戸・脇の浜の復興住宅への訪問活動に,一区切りをを付けたところで,改めてこれまでをふり返り,阪神淡路大震災に関する取組として,一定の理解や支持が得られるのは20年がひとつの目安であろうと考え,これまで取り組まれてこなかったこと,充分に至らなかったことなどについて考えました。

そうしたものに取組むためには,新たな活動主体によることが必要であるとの認識から,今2013年は,弊サイトThis is 神戸・週末ボランティアをはじめ,MixiコミュニティMixiページFacebookページTwitter - welove_kobeを運営してきた管理人が主宰する「神戸・週末ボランティア 新生」のもとで,不定期でささやかながら,毎回ニーズや課題に即したテーマを設定する新たな形態で,阪神淡路大震災の被災者に寄り添い,共に歩んでいくことに致しました。

その第1回目のテーマは,今こそ「1.17」を忘れない 〜「希望の灯り」とともに,としました。

これまで長く,1月17日直近の週末の訪問活動を行ってこなかったことを反省して,まず改めることにしました。特に2011年3月11日の東日本大震災以降,顧みることが激減した,阪神淡路大震災の被災者に寄り添い,共に歩む再出発に相応しいあり方を模索し,神戸・三宮の東遊園地の一角にある「1.17希望の灯り」の分灯を持って,被災者のお宅を訪問することにしました。

「希望の灯り」の分灯は,これまでも行事などで利用でき,神戸・週末ボランティア(旧)でも2009年1月の震災被災者とボランティアの集いで利用させていただいたほか,一昨年来,東日本大震災の被災地である陸前高田・南相馬・いわきにもにも灯されていますが,阪神淡路大震災の被災地の被災者が住まう復興住宅の居宅の中に入ることはこれまでほとんどなく,それだけでも画期的であったばかりか,「今こそ「1.17」を忘れない」というメッセージを,何より端的に示すことができたと思います。

この日は,午前10時の採火に主宰者が参列した後,午後,新たな参加者とともに,三宮から徒歩圏内としてはやや遠いですが,神戸市営筒井住宅に向かいました。前日のビラ入れで訪問を予告しておいた20余軒をお訪ねし,震災のこと,その後の生活のこと,今お困りのことなどについてのお話し伺いをしました。

予想以上に多くの方からお話し伺いに応じてくださり,まさしく感謝のなかに,この日の活動を終えることができました。


この日伺ったところの概略です。

・50代女性,母と2人暮らし。北区で半壊。瓦が落ちたぐらいで,ブルーシートで屋根を覆って雨漏りをしのいた。ガス・水道などのライフラインはすぐ復旧した。親戚や近所の人が入浴しにやってきたので,水道代が月10万近くかかったこともあった。近くの店に買い物に行っても何も手に入れることができなかった。長く父の介護をしてきて,医療費の高さのほか,入退院,通院のためのガソリン代などでたいへんだった。3年前に父が亡くなった後この復興住宅へ入居。中央区内の公営住宅に何度も申し込んだが当たらなかった。高齢の母をおいて家を空けることもできず,働きに出るのも難しい。ここでは近所づきあいが少なく,年2〜3回しか会わない人も。こうした長年のストレスからか,低血圧の上に腎臓も悪くし,昨年2度も入院した。小学生までこの近くで過ごし,王子動物園で写生をしたりアシカにエサをあげたりした想い出がある。

・60代女性,一人暮らし。中央区で全焼。「ボランティアご苦労様です。申し訳ありませんが震災の話しはあまりふりかえりたうないので,お話しする事はありません。友達と逢ってもふれない様にしてます。人それぞれがんばって今があると思います。もちろんいろんな方の力も必要です!! 私も67歳とは云え,ありがたい事にパートにも出られます。日々「あの時は…」という言葉を使かわないようにこれからもがんばって行くつもりですので今回は失礼します。ごめんなさいね。今日も11:00〜仕事に行ってます。体もどこといって悪い所もありません。本当にさむい中ありがとう御座居ました。」<ご自身で支援シート記入>

・80代女性,一人暮らし。東灘区で全壊。早産して未熟児で生まれた孫の世話にかかりきりで,2年前までほとんど家を空けていて,たまに帰ってきて掃除するぐらいだったので,隣接地から異臭が発生したとき(2006〜7年,隣接地でマンションが建設された際,基礎工事のために掘り下げたところ,地中に埋められていた物質による異臭が発生,住民の健康に影響を及ぼす事態に)も,身体に影響はなかった。復興住宅に被災者として入居したことから,当初抑えられていた家賃も上がるようになり,少ない年金ながら,お金がよく要るからたいへん。以前住んでいた近くの病院の認知症防止対策が楽しい。病気はしておらず,健康体。信仰する宗教の奉仕や活動への参加が元気と明るさの源。

・60代?男性。灘区で全壊。地震の時は戦争が起こったかと思った。震災では身内4人が亡くなった。ずっと悲しみを閉じこめてきた。東日本大震災の報道映像を見てフラッシュバックを起こした。少しでも貢献しないと…。子どもがかわいそう。前日予告ビラを見たときは話したくないと思ったが…といいながらも,ちょうど帰宅されてきたところにお話し伺いに応じてくださった。

・70代女性,一人暮らし。東灘区で全壊。隣の人が亡くなった。近くの小学校に避難した後六甲アイランドの仮設住宅へ。この復興住宅に入居して10年以上。朝4時半に起きるようにしている。判らないことは直に聞くようにしている。

・70代女性。中央区で全壊。家族は全員無事。北区の仮設住宅で3年過ごした後,この復興住宅へ。買い物に行くときは押し車を使用。杖でもしんどい。腰痛が辛いが,買い物は自分で行ける。多くの人が亡くなった震災のことは忘れられない。日本もあちらこちらでたいへんなことになっている。東日本大震災の被災者はかわいそう。

・80代女性,息子と2人暮らし。東灘区で全焼。すべて焼けてしまった。息子に助けてもらった。北区の仮設住宅で3年過ごした後,この復興住宅へ。仮設住宅での冬は寒かった。買い物に行くときは押し車を使用。雪の日に外出して転倒し,肘が上がらなくなり,現在も通院中。用がないときは寝ている。散歩には毎日出かける。

・10代女性。「大丈夫です。」<小さなきょうだいの世話をしながら玄関口で応答>

・女性。「よろしいです。」<インターホン越しに応答>

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